第34話
空港の外に出ると、真冬の日本とは違い、雲は多いが、小春日和で、せわしく動き回ると汗ばむくらいの陽気だ。奈々はベージュのコートを脱ぎ、花粉が飛んでないので、鼻で息ができると、異国に来れた喜びよりも感動していた。
五分ほどでUBERが来たので、荷物を積み込み、奈々と後ろの座席に乗り込むと、譚さんと言うチュートリアルの徳井君の鼻を低くし、口元から色気が抜けたような俺より七つ八つ年下のドライバーが流暢で丁重な日本語で「迪化街は道が狭いですから、民権西路の入口まででよいですか?車代は八掛けでチップも結構ですから」と問うので、その騙そうとしてこない正直で誠実な人柄に免じて、五百メートルほどは徒歩で行くことを同意し、奈々もどうせ写真撮りながらなので気にならないと言った。
「助かります。あのへん対向車が来ると大変なものですから」
「しかし、譚さんは日本語が上手じゃね。やっぱり、おじいさまが『多桑世代』(所謂、日本統治時代に青春時代を過ごした世代、「日本語世代」とも言う)とか?」
「それもありますけど、私、若い時分に青学に留学しておりましたので。で、お客さんは日本はどちらですか?」
「広島県の尾道じゃけど」
「え?マジっすか?」
何か重要なことだったのか?日本人よりも好ましい日本語を喋っていた譚さんが急に若者言葉になった。それが妙に可笑しかったが、笑うと失礼なような気がしたので、何とか笑いを堪えた。
しかし、当面真っ直ぐの高速だからいいものの、一般道だったら、ステアリングを切り損ねかねないような驚きようはいったい何なんだろう?
「尾道に誰か知り合いでもおってんですか?」
「ええ。尾道と言えば、吉川雅弘さんをご存じないですか?」
まさか、そう来るとは思わなかったし、まさか吉川さんがこの極めて誠実で礼儀正く、ハンサムな偶々、乗り合わせたUBERのドライバーの台湾人と関係があるだなんて、宝くじで一億当てる確率よりも遥かに低いだろう。
青学と言うことは吉川さんの店があった南青山まで地下鉄半蔵門線で十分もかからない。恐らく、譚さんは吉川さんのフレンチレストランでバイトしていたか、何だかの形で吉川さんと交流があり、親切にされたかのどっちかだろう。
「フレンチのオーナーシェフの吉川さん?よう知っとるよ。今ワシの弟と広島で店をやっとってじゃ」
「え?では、お客さんは、もしかしてタミオさん?」
「ん。もしかせんでもタミオ」
「あいやー!何ということでしょう!」
「譚さん。驚くんはこっちで。なんで吉川さんやワシのことを知っとるんです?」
「ええ。実は…」
譚さんは、実際は俺とは二つしか年が違わず、丁度俺が上海に出奔した平成九年に日本に来たのだという。ある時、渋谷センター街でチーマーから当時流行った親父狩りに遭っていた中年を持ち前の正義感から助けたところ、その中年から甚く感謝され、南青山四丁目のマンションとレストランの材料買い付けの仕事と当面のお小遣いが与えられたのだという。その中年が吉川さんだったというわけだ。
流石に「そこまでしていただく謂れはない」と譚さんは固辞したらしいが、下積み時代、尾道で世話になっていた人(即ち、じいちゃん)の孫(即ち、俺)にどこか面差しが似ていて、成長した俺は多分、こんな感じになっているのだろうと懐かしく思い、恩返しがしたくなったのだと如何にも吉川さんらしい義理堅いエピソードだ。
それからは吉川さんの懐刀として尽力し、吉川さんを「日本のお父さん」と慕いながら、店を盛り立てたのだった。三年ほどで義晴がカープを辞め、じいちゃんの味を引き継いだ店を出すという噂を聴くまで蜜月は続き、その間に尾道や同い年くらいの俺の話をよく聴かされたのだという。閉業後は仲間とIT企業を立ち上げて、軌道に乗せるが、父親が亡くなったのを機に台湾に帰ったのだという。
「世間は狭いのう」
「本当ですね。私も話でしか知らないあのタミオさんにお会いできるとは!あ。そちらのお嬢さんは?」
「ワシの彼女で、奈々ちゃんじゃ」
台湾に着いてから、目まぐるしくことが動き、現実なのか、夢なのか、どこか寝ぼけ眼でいる奈々は「へ?」と小さく驚き、会釈をした。
「美男美女じゃないですか」
「譚さんだってモテるじゃろ?」
「あはは。それなりですよ。それより、そろそろ高速降りますけど、どうします?」
空港からずっと緑が多いところを走っていたが、だんだんと街が拓けてきて、前方に淡水河が見えてきた。台北の街も近い。
「どうしますって?」
「せっかく、吉川さんを知るタミオさんにお会いできたのに、『着きました。さようなら』では淋しいと思ったものですから。そうだ。お昼まだでしょう?」
「奈々ちゃん。どうする?廟の取材は明日でも間に合うじゃろ」
ビジネスクラスで豪華な機内食とシャンパンを御馳走になったとは言え、俺は空港での美齢とのやり取りで、些か疲れ、体が味の濃いものか強い酒を欲している。ただでさえ初めての街で目の前で色々と予想外のことが起きすぎの奈々ならば、小休止を入れたほうが絶対にいいだろう。このままだと台湾を感じる余裕すらないだろう。
「譚さんがいつもお昼食べてるところってどこですか?」
「なるほど。ガイドブックにはない普段着の台湾を知りたいわけですね?奈々さんはなかなか聡明なかただなぁ」
「やっぱり、タミオさんは持ってますねぇ」
奈々は生気を取り戻したように、微笑んでカメラを構え、台北橋を通り過ぎる間に何度もシャッターを押し、淡水河や橋を渡るバイクの群れを写真に収めていた。
美齢のことで動揺していたのは確かだと思うが、被写体を前にすると、使命感というか、スイッチが入ってしまうのだろう。これを「職業病」と揶揄する人もいるだろうけど、一歩でも仕事の領域に入った奈々はある種の尊さされ感じてしまう。
「奈々さん。淡水まで行けば美しいサンセットが見れますよ」
そんなこと去年まで住んでいた俺は勿論、知っているが、それを聴いて奈々が「淡水に行きたい」と言い出すことは想定内と言うよりも、決定事項だ。
当初は凡庸な内容になってしまうと危惧した台湾の取材は譚さんとの出会いで大きく変わってしまうかもしれない。 奇跡的に邂逅した譚さんと義晴の店の取材でちょっとしたいい話として登場した吉川さんとの奇縁ともいえるストーリーを挿むだけでも既存の台湾特集とは一線を画すだろう。
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