第33話

 ちゃんとした取材と分かれば、俺はあらゆる方面で協力する用意と義務がある。

 先ず、フリーペーパーの太いクライアントでもあった中華航空の台北本社の広報に連絡し、事情を話すと、「他ならぬタミオさんのご友人の為ならば」とペアの航空券と系列ホテルである南京路のオークラプレステージ台北の部屋を用意してくれることになった。「クルマと運転手とガイドもつけようか?」と言われたが、流石にそれは辞退した。

 一般の日本人の感覚ならば、忖度だの不正だのと大騒ぎしそうだが、友人同士は助け合うのが当然の中華圏ではごく当たり前のことだし、逆に向こうが「タミオさん。今度、日本行きのプロモーションを打ちたいんだけど、どうだろう?格安でやってくれませんか?」なんてこともあるし、そういう持ちつ持たれつの義理事をきちんとこなしてきたからこそ、いざという時に動いてくれるのだと言うことを忘れてはいけない。

 奈々にそのことを報告すると、必要以上に感謝され、その夜は車の中で、何度でも何度でもで、いつまでも解放してくれずに困ったものだ。

 一週間後に中華航空の広島支店から届いた航空券の座席が1Aと1Bのビジネスクラスだったのには、俺も奈々も驚いたが、連れの名前が女性なので、俺の面子を立ててくれたのだろう。ありがたや、かたじけなや、だ。

 練習に差支えないように取材は平日を選んだためか、広島発台北行きのの中華航空113便は空いていて、乗客の搭乗も早く終わったので、定刻より十分早いフライトとなった。ビジネス席に至っては貸し切り状態で、俺たちを新婚旅行と勘違いしたCAさん達が本来はファーストクラスで出すシャンパンを抜いてくれて、色々と構い、世話を焼いてくれたので三時間のフライトはちょっとしたホームパーティにお呼ばれしたみたいに楽しく過ぎていった。奈々は、懐石仕様の豪華な機内食とチーフパーサーの蔡さんを写真に収め、簡単にインタビューした以外は空の旅を楽しんでいた。

 現地時間の十時五十四分に台北桃園航空にランディングし、高さ三メートル横七メートルはあろう民国の青天白日旗を見た時、俺は厭でも「台湾に帰ってきたのだ」という思いで、胸がいっぱいになり、涙ぐみながら台湾の大地を見詰めた。尾道で骨になる覚悟をした俺にはもう二度と戻れぬものと諦めていた豊穣の寶島が視界に広がっているのだ。この感情を奈々に伝えるのは難しいし、奈々は不思議そうに俺を見ている。なんだかマニアックな趣味を覗き込まれたような恥ずかしさを感じた。

 機内からは一番早く出れたものの、入国審査は緑色のお揃いのツアーキャップを被った大陸からの団体客の後ろになってしまい、三十分ほど鶏舎の中に閉じ込められたような喧しさに閉口した。若い時に上海で店をやっていて奴らに免疫のある俺はまだいいものの、慣れない奈々は異人と言うよりも異星人に遭遇したように「タミオさん、どうしましょう」と言わんばかりにどうリアクションをしたらいいかわからず困り果てていた。こういう未知のものは取材対象にはならないようだ。

 入国審査と税関を抜け、両替と中華電信でシムカードの購入をすまし、市内までタクシーは意外と高いので、配車サーヴィスで移動しようとアプリをいじっていると「みんしぇん」と雑踏の中から俺を呼ぶ女の声がする。「タミオ」は漢字で書くと「民生」で、北京語では「みんしぇん」と発音する。「民主」、「民権」、「民生」からなる孫文の三民主義の一つなので、台湾人からしたら馴染みがあり、親しみやすい名前なのですぐ覚えてもらえる。それはそうと誰だと言うのだ?

「民生。是我。華航的黄先生告訴我航班(タミオ。あたしよ。中華航空の黄さんが教えてくれたの)」

 劉美齢だ。

 どことなく、往年のまだ凛々しさを身に着けていない頃の大塚寧々を彷彿とさせる、台北と言うよりも上海あたりにいそうな美人だ。奈々とは背が高いという共通点はあるが、美齢はスレンダーでファッションも垢抜けている。

 フリーペーパー時代の同僚で、営業や取材は俺と組まされることが多かった。年が近く、お互い独身なので周囲は俺と美齢をくっつけようと色々とお節介をしていて、多分、中華航空の黄さんも気を利かせて美齢に連絡したのだろうが、俺は自立し、はっきりものを言う、如何にも獅子座のО型の美齢にどうしても加奈子の影を見てしまうので、意識しないように心がけていたが、美齢のほうはまんざらでもなかったらしく、帰り道が逆方向なのにバイクの後ろに乗せるようにせがんだり、休日にアパートの入口で待ち伏せし、「新竹に美味しい火鍋屋があるの知ってた?」などと無理やりデートに拉致られたりしたものだ。

「美齢。怎么来了(美齢。なんでここにいるの)?」

「説什么?没説走了。混蛋(何ですって?何にも言わずにいなくなっちゃったくせに。タミオのバカ)」

 美齢は俺の胸に頬をうずめて、何度も「タミオのバカ」と甘く詰りながら泣き始めた。

 真っ直ぐに伸びた艶のある綺麗な長い黒髪は甘い林檎の香が漂う。奈々の手前、抱き寄せるわけにはいかないが、同情と欲情を抑えるのが何とも難しい。冷たい拒絶も適当な言い訳もできず、困り果てるしかない。奈々のほうを見ると、ドラマの『コードブルー』で戸田恵梨香がよくしていた人を射るような目つきで美齢を見ている。まるで「ウチの男に何の用なん?」とでも言わんばかりに。

「美齢。抱款。得走了。(美齢。ごめん。行かなきゃいけなんだ)」

「到哪里去(行くってどこへ)?」

「是採訪(取材だよ)」

「我也想去(あたしも行く)」

「不行(ダメだよ)」

「為什么(なんで)?」

 俺が顎をしゃくると、初めて奈々が視界に入った美齢は腰に手を当て、身の危険すら感じるような奈々の形相にたじろいだ。恋愛もそれに付随する修羅場も経験不足の奈々ですら、この場は毅然と振舞わないと、美齢に俺を持っていかれることくらいはわかるのだろう。

「她是誰(この子誰)?」

「我的女朋友。叫奈々(俺の恋人だよ。奈々って言うんだ)」

「看起来、又年軽又没有眼光(随分、若いし、趣味が悪いこと)」

「己乾了那個。跟你不一様(もう男と女なんだ。お前とは違うんだよ)」

 その瞬間、目から電気か星が出るような美齢の強烈な平手打ちが往復でお見舞いされて、俺は後ずさりした。女が弱いなんて大嘘だ。それは叩かれたことがない奴か、従順で可愛らしい女としか付き合ったことがない奴の言い分だろう。

「太缺德了(サイテー)!該死了(死ねばいいのに)!」

 曖昧さのない俺と迷いのない美齢。

 最後は憎しみの拳と呪詛で終わるしかなかったのか?俺は空港の群衆に消えてゆく憤怒と寂寞が入り混じった美齢の背中を追っかけもしなかった。せめて、面子を潰した最低限の罪滅ぼしに追っかけて、優しく名前を呼んであげても罰は当たらないだろうに、どこまでも奈々の為に存在したい俺は奈々の手を握り締めて「ごめんなぁ、不細工なところを見せてしもうて。じゃけど、大丈夫じゃけなぁ」と突然の戯劇に動揺している奈々を労わった。

 咀嚼しきれないまま、奈々は俺の手を握り返した。

 そこに「赦し」があるのかどうかはわからなかった。

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