第32話
台湾で取材だなんて本当のことだろうか?
奈々を疑ったことなどこれまで一度もなかったが、今回ばかりは無理を通せば道理が云々に思えて、こういう性分なので、白黒はっきりしないとどうも落ち着かない。
あのあと、興奮が冷めてしまう前にすずちゃんに会場のことを伝えて、喜びを噛みしめるように両目を濡らしてゆくすずちゃんを見ても、そのことが気にかかり、もらい泣きすらできなかった。
そんな俺の心配とはよそに毎週末の練習は充実し、チャゲアスナンバーから選んだ『太陽と埃の中で』とセルフカヴァーであり、光GENJIのデビュー曲でもある『Starlight』の仕上がりも順調で、特にエビスのCHAGEさん張りの寄り添うような三度下のコーラスは実際にお二人が聴いても、決して気を悪くされない水準のパフォーマンスであると確信したくらいだ。この頃ではキョウジュのダメ出しもほぼ出なくなった。
さて、追悼コンサートは県外の人でも集まりやすいように三月三十日の土曜日と決まり、立ち見を入れて百五十枚ほどのチケットもノルマに悩むことなく、即日完売したにも関わらず、転売は一枚も出ず、チャゲを慕う人の人柄とマナーの良さを知り、改めて、チャゲの人徳に敬意を抱かずにはいれないのだった。
台湾の取材の打ち合わせに奈々から指定された向島の渡船場の近くに新しくできたカフェ「コサクウ」は尾道水道が一望でき、サンセット時のマジックアワーで有名な場所なのにも驚いたが、渡船の待合室をリノベーションしたような?或いは、時間が止まったようなと喩えるのがわかりいい、昭和の洋風薫る尾道レトロなカフェの店主が昔、尾道のヤマハのライヴでよく対バンになっていた弦さんだったことにはもっと驚いた。弦さんは学年で言うと俺たちより二つ上だが、昔から体育会系的な上下関係がお嫌いだったので、威張りもせず、無茶ぶりもせず、フラットに接していただいていた。
「げ、弦さんすか?」
「タミオ。尾道におかえり。こないだ奈々ちゃんが取材に来てくれた時はワシ、ホンマにびびったわ。奈々ちゃんがキョウジュと加奈ちゃんの娘で、行方知らずのタミオが生きとる?もう、わけがわからんで」
「弦さん、ぜんぜん変わらんですねぇ」
「ははは。そうか?しかし、この齢になってようわかったわ。マイペースで丁寧に生きるんが一番ってな」
正確に言うと、角が取れ、笑顔が随分、温和な感じになった。昔は大正時代の文豪のような破滅的な雰囲気があり、もう少しエキセントリックだったが、カフェの主人ならば、こっちのほうが合う。
「ギターは続けとってんですか?」
「上原弦トリオで定期的にライヴやっとるんで。音楽は趣味じゃけど、やめられんわ。あ。そうじゃ。来月の公則の追悼ライヴ、ワシも見に行くんで」
「こりゃ、気合い入れんといけんですね」
「まぁ、今日はゆっくりコーヒー飲んでいってぇな。奈々ちゃん、コーヒーはオリジナルでええ?」
「はい。焼き菓子もお任せで」
「かしこまり」
弦さんはコーヒー豆を焙煎しはじめた。これは尾道全体に言えることだが、カフェに関しては本格派な店が多い。弦さんがその技術をどこで身に着けたかは知らないが、サイフォン越しに見える弦さんはポールギルバートやジミヘンや手島いさむをカッコよく弾く人ではなく、一流のバリスタにしか見えない。
奥のほうを見ると厨房で弦さんと同じ顔をした奥さんがにこやかに焼き菓子を作っていた。その奥さんの趣味か、店内はワークショップのアンティークギャラリーにも見え、オリジナルのジャムなんかも販売している。
「しかし、奈々ちゃんはいつもこんな店どうやって見つけるん?」
「脚ですかね。ネットに真実なんて落ちていませんから」
ユダヤの格言に「有益な情報は金で買え」というのがあるが、情報を無料と考えないあたり、奈々の取材能力にも卓越したプロフェッショナルなセンスを感じる。
弦さんが丁寧に淹れてくれたコーヒーは奥さんが見繕ってくれた八朔のジャムの入った米粉のクッキーと瀬戸内レモンの果肉と皮の入ったパウンドケーキによく合うように苦味はそこそこにフルーティな酸味と芳醇な香りを感じる。俺は会津坂下の酒蔵で日本酒を飲んだ時の衝撃を思い出した。
「何?これ弦さん。ブチうまいんじゃけど!」
「水がええんじゃろ。ワシの腕は大したことなぁわ」
それもあるだろうが、夫婦ダッグのコーヒーと焼き菓子。コーヒーと焼き菓子の匂いで満たされた幸福な空間。台湾の取材の話が本当だとしたらこれくらい完璧で息の合った仕事がしたいものだ。
「で、取材の話なんじゃけど、力になってあげたいんじゃけど、どういうコンセプトで進めて行くん?ワシの役割は?」
元同業だし、俺にとっては因縁浅からぬ台湾が舞台になるのだから、鞆の時みたいに現地で着いたらすぐに動けるように事前にできるだけ情報は入れておきたい。それによって、無駄は随分と省ける。
俺は奈々の切れ長二重の目を覗き込んだ。嘘なら嘘でいい。日々、急かされて生きていれば、奈々のようなお嬢様ならば逃げたくもなるだろうし、その嘘を嘘で塗り固めるのならば、残りの嘘は全て俺が考えよう。辻褄が合うように、誰一人傷つかないように、嘘が真実になるように。
すると奈々は、別に返答に窮するでも狼狽えるでもなく、縁結びで有名な霞海城隍廟の名を出し、本当に良縁を頂けるかどうかを参拝し、一年後にどうなるかを身をもって証明するという企画で、俺は通訳と現地コーディネイターと言う役割。企画は通ったものの、予算はそれほど出ないので、足りない分は自分で補填するとのこと。概要は分かったものの、それならば、日帰り乃至は一泊二日でできそうな内容だ。疑い、あらぬ考えを持った俺がなんだか、自惚れ屋の独り相撲のようで情けなくなる。
「他は取材せんでええん?」
「タミオさんのおすすめの場所があれば是非」
「しかし、いつも切れ味鋭い奈々ちゃんにしては随分とあれじゃね」
「あれって?」
ありきたりというか、そのへんの若い女の子でも企画しそうというか、もし、奈々が台湾を本気で取材したいのならば、そこでそれではないような気がしたが、それを口にしたところで、虚しくなるのはわかりきっているし、思ったことをすべて口にすることが正義ではない。
「タミオ。しょうもないこと言うな。協力しちゃれぇや。本物の縁結びの神様なんてこの世界にえっとおらんで」
弦さんは俺の無粋を戒めるように会話に入ってきた。
「神頼みの何がいけんの?ワシはカミさんと結婚したんはええが、子に恵まれんでのう。休みの日になると神社にお百度参りに行ったもんじゃ。それを一年続けたら、子を授かった。奈々ちゃんの気持ち、ワシはようわかるで」
その話はあれほど拘ったロックかロックじゃないかから自由になって、謙虚になった弦さんにとっても忘れ難く、語り継ぎたいことのようで、それは奥さんにとっても同じようで、涙ぐんでしまって、調理する手が止まってしまった。
「弦さん。ワシはやらんなんてゆうてないですよ」
別に台湾に行くのが厭なのではない。奈々の為ならば、俺が濁を飲み、泥水を被るのは当然のことと思っている。情を交わした男女はそう言うものだろう。だけど、俺は奈々の凡庸な発想が気に入らないだけなのだ。
嗚呼。わかってくれとは言わないが……
目の前の波止場の海はどこまでも穏やかだ。
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