第29話

 クリスマス週になると、年明けから尾道以外の県内の情報に特化したタウン誌の立ち上げで忙しい奈々よりも、楽曲の打合せや細かい歌詞やアレンジのことでキョウジュに会う機会が増えた。

 期末テストの問題作成と同時進行なので、さぞかし時間に追われ、疲労困憊しているものとばかり思っていたが、一寸、やつれてはいるものの、全身が自信と気合いに満ち溢れていて、あの泣き虫で大人しい男が饒舌で、反社や強面とはまた異なる迫力がある。それゆえに、ディスカッションの途中で意見が割れたときなどピエロのような据わった目をして腹の底から響くようなドスの利いた低音で恫喝するものだから、俺のほうが一歩引いてしまうことがあるくらいだ。それくらいキョウジュにとって音楽とは善なる発願をし、至誠を尽くし、常に命懸けであるべきことなのだろう。おかげで年明けの音出しまでにはある程度、曲が揃いそうだ。

 この感じだと、クリスマスを奈々と過ごすことなどとても不可能なことのように思えたが、奇跡的に二十五日が午後から半休になったようなので、広島の義晴の店でも予約しようと思ったが、翌日は早朝から泊りがけで県北に取材とのことなので、海沿いのグリーンヒルホテル尾道の最上階の海の見えるデラックスツインを取り、一晩過ごすことにした。キョウジュには県北での取材を一日鯖を読んで伝えたそうで、キョウジュもバンド活動再開のあれこれのほうに情熱が傾いているので、「ほうか。あっちは寒いけぇ気をつけるんで」といつになくそっけなく、疑われもせずに通じたそうな。ついこの前までの狼狽ぶりを想うと、絶対に笑ってはいけないのだが、しみじみと可笑しくなる。

 当日はチェックインの時間をずらすことにして、俺は定刻の十五時に部屋に入った。

 パステル調の十八畳ほどの部屋は床がフローリングで応接セットがあり、シモンズのベッドに海の見える大きな窓が二つもあるので、そのへんのビジネスホテルとは一線を画している。流石に温暖な尾道ではホワイトクリスマスというわけにはいかないが、恋人同士が一晩過ごす部屋としては十分すぎる。

 ルームサーヴィスはやってないようなので、俺はフロント階のラウンジとイタリアンレストランに無理を言って、ワイン二本とローストビーフとチーズと花を部屋に届けてもらった。花はそれこそ急なことだったので、奈々の好みのものではないかもしれないが、あるとないでは大違いだし、女の子に花も用意できないような野暮天にならずにすんだ。クリスマスの演出としてはなんとかお情けで通信簿に三をもらえるといったところだろう。

 奈々は仕事が押しているようで、太陽が西の山に沈んでゆき、尾道水道がオレンジ色に黄昏始める頃に小さいスーツケースを転がし、息を切らせながら現れた。

「タミオさん。ごめんなさい。遅うなってしもうて」

 元々、ふくよかで少女の残香が消え切らない奈々だが、数週間見ないうちに頬と顎のラインが随分とすっきりした。一重瞼なので、目の下に隈はできていないが、多分、寝不足で相当にオーバーワーク気味なのだろう。

 そうなると俺の役割は一つしかない。 

 楽しもうとしてはいけない。どこまでも奈々を癒すのだ。

「疲れたじゃろ。お茶入れようか?」

「ワイン買うてくれたんですね」と奈々はテーブルに置いたオレンジのラベルのキャンティに視線を注いだ。店で買えば二千円もしないワインだが、見た目も味もポップで割と何と合わせてもマリアージュは悪くない。

「飲む?」

 奈々が小さくうなづいたので、ラウンジで借りたオープナーでワインを開け、クリスマスと落陽を受けて黄金に輝く黄昏時の海に乾杯した。暗くなるまで待てないのではない。この瞬間は二度と巡ってこない。考えてみるといい。尾道生まれ尾道育ちのいったい何人が一生のうちに暮れてゆく尾道水道を眺めながらワインを飲むことができるか?それも、クリスマスに。それも、最愛の人と一緒に。

 逢えたのは加奈子の導きがあっての必然かもしれないが、これは奇跡だ。

 奈々の目に映る俺は少しにやけていて、締まりがないが、その奈々の目は適度な期待と熱を滲ませて、真っ直ぐに俺を捉える。その時、翳り始めた部屋とは対照的に俺の心は温かい陽光に照らされ、ゆっくりと奈々のことで満ちてゆき、消えかけていた世界を取り戻す。

 そして、取り戻した世界からあらゆる禍事が弭化されてゆく。その中心には間違いなく神が存在する。神と共存することが許される世界だからだ。その神が奈々の姿をしているものだから、永遠を信じた盲目の道化師のふりをしたくなる。たとえ朝になれば消えるとわかっていても。

「タミオさん?」

 奈々は、ローストビーフに玉ねぎを包んだ奴を突き匙で突いて、俺の口元に近づけ、「あーん」して食べさそうとした。恥ずかしかったが、「やめて」とも言えず、俺はそれを従順に口に入れた。赤身の濃い旨味とシャキシャキとした玉ねぎの爽やかさでさっぱりと潤ったら、キャンティが丁度いい感じに合う。

「ふふふ。タミオさん、かわいい」

 奈々は何か俺の秘密を掴んだように悪戯っぽく顔をくしゃくしゃにして笑い、今度はキャンティを口に含み、俺に口づけをせがんだ。

 拒否する理由はない。

 クリスマスだし…

 奈々の花の香のルージュの引かれた小ぶりで形のいい唇が触れると、生暖かいキャンティが流れこむ。それは鈍くぼやけていて何も始まる気配はないし、禁断の蜜の味とは程遠く、それを味わい、呑み込むには少し決心がいる。不味いとか異物感があるとかそういうことではない。経験したことのない場面に即時に答えが出ないのだ。だが、明確な答えを出さず愚図愚図している限り、俺と奈々はずっとこのままでいれるのだ。

 時間はゆったりと漣のように流れる。

 何分か経って、俺の喉仏が動いたのを見届けるとゆっくりと唇を離した奈々は、頬を赤らめて「ウチ、死んでもええ」と窓の外のすっかり暮れて深い紫色に変わり、所々、白い港の灯りが揺らめく夜の尾道の海を見詰めながら切なげに呟いた。 

 これが太宰ならば「わかったよ。奈々ちゃん。僕と一緒に死のう」となるのだろうけど、俺は小説を生きているわけではない。それに、奈々はともかく、散々流浪してきた俺に情死など都合の良いことは天が許すまい。別に助かりたいとか卑怯な考えからではないのだが、そこまで奈々にシンクロはできない。シンクロはできないが、きっと、奈々は雲の上から下界を見下ろすような気分であり、その隣に俺がいることは俺自身、光栄に思わなくてはなるまい。

「タミオさん」

「冗談ですよ」とは続かず、変な間が開き、このままでは気まずくなるだけなので、俺は奈々というよりも向島のドックの光に語りかけるように「死んだっていいよぅ」と疲れた子供が脱力して眠りにつくように呟いた。

 すると、奈々はそれが可笑しかったのか、期待していた答えだったのかわからないが、満たされた想いを俺にも分け与えるように、さっきと同じように今度はブルーチーズを突き匙に刺し、俺に再度「あーん」させようとした。それが鼻に近づくと、不埒にも奈々のあそこの匂いを想起させ、俺は抑えていた感情が堰を切り、欲情してしまい、血液が流れ硬直し、奈々を癒し、喜ばせるという使命を忘れてしまった懺悔することも知らない犬畜生にとってやることは一つだ。

「タミオさんが何を考えてるか当てましょうか?」 

 その答えは聖夜の風の中になどない。

 俺は蛮族が槍か串で人や畜肉を突き刺すような激しさで奈々の唇を奪った。

 それが答えだと言わんばかりに。

 

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