第26話
三度ほど愛し合い、疲れ果てた奈々が俺の腕枕で眠り始めたのが午前二時。
このまま朝まで寝顔を見守っていたいが、そうはいくまい。朝方、朝食の席でキョウジュやお袋さんに「昨夜はあれから云々」などと話せるわけもない。俺は名残惜しそうに奈々の額にお休みのキスをして、物音を立てぬように抜き足差し足忍び足で爪先で歩いて、「千光寺山荘別館」を後にした。
目覚めて、俺がいないことを奈々は悲しむだろうか?
でも、こればかりは仕方がないのだ。
夜中に一人ぼっちで歩くときに頬を張る風は、たとえそれが故郷のものであっても冷たいものだ。慣れていても、恨みごとのひとつでも言いたくなるものだが、俺は、先程までの幸福な時間のおかげでその冷たさは軀の芯までには届かない。と同時に、今の俺にとって奈々を失うことがどれほどの損失と絶望を齎せるのかを想うと、今この夜道で何者かに無言で後ろから刺されることよりも恐ろしく感じる。
「龍のねどこ」に戻ると、小学校の教室を模したフロアの中学校の学習机を流用した客席にまだ灯りがついていて、珍しく亀井がこんな時間まで起きていて、一人で冴えない表情でボンベイサファイアを呷っていた。あの気さくで温和な男に怖いほどの近寄りがたいオーラが纏っている。近頃では、宿泊者もかなり戻ってきているのに、いったいどういうことだというのだ?
「亀井君。どしたんや?」
今の今の今まで泣いていたのだろう。兎のように真っ赤な泣き腫らした目をした亀井は一瞬、俺を認識できなかったのか、ハッシッシを決めているみたいに目線が定まらず、夢と現実が混濁している様子だ。十秒くらいして「なんだ。タミオさんか」と掠れた声で言った。
「しっかりしんさいや。何があったかは知らんが、自棄酒は酒に失礼じゃ」
キョウジュに言おうと思っていた言葉を亀井に流用し、俺は更に酒を呷ろうとする亀井から鮮やかな薄いブルーの酒瓶を取り上げて、カウンターの酒棚に戻した。元々、酒乱の気はないし、品行方正な男なので、俺の行いを抗いも咎めもしなかった。
「タミオさん。いいですか?心して聴いてください。僕もまだ信じたわけじゃないのですが、チャゲさんが……」
その一言を言うのが重たいのか、ツラいのか暫く言葉が詰まってしまったが、宣告を覚悟したのか「チャゲさんが沖縄で亡くなりました」とドミノが倒れるように一気に捲し立てると言うよりも、迅速に報告してしまう感じで告げた。
「え?何?」
「ASKAさんのライヴが終わった後に、安里の居酒屋で泡盛を一本空けて、タクシーで恩納村のホテルに戻ってプールに浮かんで酒を飲んでたら、心臓麻痺で苦しみだして、そのまま。零時前にすずちゃんから連絡が…」
俺は、高校生の頃に夏になると皆で深夜の学校のプールに忍び込んで、全裸になってプカプカとプールに浮かびながら夜空を見上げ缶ビールを飲んだ「水死体ごっこ」のことを思い出し、「水死体ごっこか」と口に出しかけたが、それはあまりにも不謹慎で亀井に怒られかねないので、飲み込み、同じく、プールの底に沈んで死んだストーンズのブライアンジョーンズのことを想起したが、あまりにも風貌が似つかないので、これも却下し、亀井の次の言葉を待った。
「チャゲさんったら、いったい何を考えてるんでしょうね。すずちゃんはまだ二十歳なんですよ。なんだかかわいそうで、飲まずにはいられなかったんです」
「ほうか。チャゲが…」
「すいません。僕なんかよりタミオさんやキョウジュさんのほうがお辛いはずなのに、見苦しいところをお見せしました」
亀井はフリースの袖で涙を拭うと、「施錠と消灯だけお願いしますね」と項垂れたような一礼をして、自室に戻った。
フレディマーキュリーではないが、「これは現実なのか?幻想なのか?」が俺にはよく飲み込めなかったが、俺は、チャゲがこの世にもう存在していないことよりも、件の「水死体ごっこ」のことを思い出していた。
あのお調子者はきっと、夜のプールを見て「水死体ごっこ」のことを思い出し、すずちゃんかルームサーヴィスによせばいいのに酒を所望し、すずちゃんや他の宿泊客の手前、流石に全裸にはならなかったが、プールに浮かんで熟れた南国の夜空を仰ぎながら、恥も果実も多かったあの青春の夏の日々を思い出していたのだろうか?
「皆。今頃、どうしょうるんかのう?タミオ。ホンマは奈々ちゃんとはもうやっとるんじゃろう。帰ったらキョウジュにチクっちゃらんといけんのう」などと思いながらニヤニヤしていたのだろうか?
そんな満たされた時間に突然、最後の時が訪れた。
あいつはいったい何を想っていたのか?
絶頂から奈落だったのか?
こんなはずじゃなかったのか?
明日も生きたかったのか?
愛した女の目の前で「水死体ごっこ」ができて幸福だったのか?
愛した女に看取られて幸福だったのか?
それとも沈みゆく水中で千の女神の歓待を受けたのか?
それなら本当に水死体になっても本望だったのか?
それはチャゲに訊かないとわからないことだし、それはもう永久にわからないことだが、たった一つだけ言えることは、こんなにも早く人望厚く、面倒見がよく、長年に亘り、美味い中華料理を提供し続けた善人を連れ去るなんて、神仏はいない。もしくは、神仏の考えやルールは我々の常識を超越しているということだけだ。別段、誰かを陥れたりとか、誰かを酷く虐めたことなどない俺にこんな流浪や運命を課してきたものたちだ。理解の範疇にあらずだ。
俺は酒棚に戻したボンベイサファイヤをショットグラスに注ぎ、その水と見紛う透明な酒を一気に飲み干した。
どんな料理にも合わない。そもそも、味音痴のイギリス人が料理との相性で酒を作るわけなどないし、そういう発想すらないだろう。ただただ酔いつぶれるためだけの質の悪い酒だ。
喉が焼け、細い蛇のような熱気が胃に落ちるが、それは快適でもなければ快楽でもない。奈々をこの胸に抱いて恋を語らっているほうがよっぽど気持ちがいい。俺がアル中になれないのは明白だ。
「のう。チャゲよ」
言葉が続かない。
忘れたいわけでもないし、逃げたいわけでもない。朝まで献杯がしたいわけでもない。
ただただ不思議なのだ。
丈夫で、楽天的で、皆から慕われ一番長生きしそうな男がこんなにもあっけなく命消したことと、チャゲの魂がまさに肉体から離れようとしていたその時、俺は奈々に繋がって箒星を見ていたことがだ。
あれは空へと帰ってゆくチャゲの魂だったのか?と。
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