第25話
キョウジュがゴロを巻くほどに奈々への深く、無償の愛情を感じる。
それゆえに俺は苦しくなる。
「タミオ。ホンマに頼むわ。奈々がしょうもないロリコン親父の手に落ちたなんて、ワシは加奈ちゃんになんてゆうて詫び入れたらええんよ?おう?」
涙ながらの哀訴にはただただ、奈々を想う心だけがあって、純粋で美しすぎて、逆に邪な現代人や都会人には疑われるくらいの私心のなさだ。
それが痛いほどにわかるゆえに、俺は態度が曖昧にある。かと言って、奈々寄りの意見や慰みを言うと、永遠の水掛け論になるだけだ。言葉とはこんなにも機能しないでくの坊だ。こんなものを信じている人間などワクチンは安心乃至は、メディアは絶対に嘘をつかないと思っている人間より愚かだ。
ここは要らぬことを言ってことを泥沼化させることは得策ではない。クールダウンするまで言いたいことを言わせたほうがいい。そもそも、夜半過ぎに降り出した雨のようにいつまでも怒りが持続するような奴ではない。そこまでの体力がないのと理不尽に気付けば己を恥じることができる男だ。
「すまん。タミオに怒ってもしょうがなぁわの。こらえてぇや」
「ワシのほうからそれとのう探り入れとくわ。キョウジュは奈々ちゃんをあんまり詰めんほうがええ。反発されるだけで」
「そうじゃのう。頑なになられたら、やいこしゅうなるけぇのう」
「まぁ、年上の異性にあこがれるゆうんは誰でも通る道で」
俺は、キョウジュの肩を叩き、茹でた蝦蛄と軽く炙った太刀魚とハゲ(カワハギ)の刺身をキョウジュの皿に取り分けて言った。
「ホンマにどっちが父親かわからんで」
キョウジュは力なく笑った。
見るからに気分も体調も優れないのに無理して鯨飲などするものだから、キョウジュは「奈々は誰にもやらんど!ワシと加奈ちゃんの宝じゃ!」と見えない敵に向かって呂律怪しく絶叫して前のめりにダウンした。
ヤレヤレ。
俺はおしぼりを二つ所望し、テーブルに零れた酒と酒にまみれたキョウジュの顔を拭きながら、潰れたキョウジュに出来は悪いが、性根の優しい息子を見る母親の目線を送りながら、これからのことを考えようとするのだが、奈々の豊満な白い裸しか思い浮かばないのに苦笑した。
いくら目方が軽いとは言え、泥酔し、泥睡したキョウジュを「千光寺山荘別館」まで介抱し、険しい坂道を上り、連れて帰るのは体力的に堪えるが、支払いをキョウジュのANAスーパーフライヤーのゴールドカードでした以上、文句は言えない。タクシーを呼んでもらえばよかったのかもしれないが、上海やバンコクではタクシーでさんざん厭な目に遭わされた身としてはあまり利用したくないのだからどうしょうもない。
できるだけ傾斜の緩い坂を選んだつもりでも息が上がる。これが昨今の猛暑厳しい夏の真昼だったら思うと気が遠くなるが、晩秋の肌寒い夜であることを幸いに思おう。来た道を振り返ると、寒い冬の訪れが近いことを教えるように尾道水道の夜景はネオンよりも夜の闇のほうが深く映えている。
「まぁ!総司。あんたはまたジュリーに迷惑をかけて!対して飲めもしないくせに最近、飲みすぎなのよっ!」
玄関で出迎えたピンクのネグリジェ姿のキョウジュのお袋さんは、半分呆れて、半分諦めたようにお小言を言った。
「まぁ、お母さん。奈々ちゃんも年頃じゃし、総ちゃんも色々、つらいことがあったみたいなんで、あんまり怒らんといてやってください」
「そうやって、ジュリーが甘やかすからこの子は……」
冷蔵庫から南アルプスの天然水を持ってきて、「ほら。しっかりしなさい」と優しく頬を張りながらキョウジュに水を飲ませる様を見ると、親に捨てられた俺は自分の人生から永遠に欠けてしまったものを見ているようで、力づくで押さえつけていた淋しさや執着が漏れてしまいそうになる。
「部屋に上げましょう」
俺はたまらなくなって、キョウジュをおんぶして、階段を上がった。
「ジュリー。本当にごめんなさいね。トマトスープ余ってるからあとで飲んでいきなさいね。酔い覚めにいいから」
俺がどことなくそんな空気を出していたのに気づいたのか、キョウジュのお袋さんはそう言って俺を労った。
キョウジュをベッドに寝かしつけると、もう他にやることはない。ご厚意に甘えて、トマトスープを飲んで帰ろうか、と部屋を出ると、この頃では珍しく早く帰宅した奈々と鉢合わせた。
「タミオさん。ごめんなさい。パパがこんなんで。このところずっと荒れとるんですよ」
これはさっきのやり取りを伝えたほうがいいのだろうか?
逡巡したが、穏やかな澄んだ湖に波風を立てたり、水を濁らせたり、波紋を広げたりしたくはない。いつか沈みゆく運命なのだとしても、好き好んで綾をつけるなんてことはしたくない。
「キョウジュ、いや、パパは奈々ちゃんのこと心から心配しとる。あんまり悪う言うたらいけん」
「タミオさんは優しすぎるけぇ」
「優しすぎるけぇ何?」
俺は、「だから加奈子と結ばれなかったのだ」と言われるのだと思って、身構え、少しきつい視線と口調になってしまった。このことを責めていいのは加奈子だけのはずだ。それ故、酒の力も相俟って、大人げない態度になってしまった。
お嬢様育ちの奈々にはそういった強く、毅然とした反応には慣れいていないようで戸惑い、二の句を失い、目が泳ぎだす。
「ごめん。奈々ちゃんはなんも悪うないよ。気にせんといてな」
「タミオさん」
「ホンマにごめん」
奈々は、土下座でもしそうな勢いの俺の手を取って、自室に連れ込み、息を整えると、「タミオさん。抱いて。乱暴に。物でも扱うみたいに。優しくなんかせんといて」と瞳と声を潤わせた。
もしかしたら、俺はさっきの一喝で奈々のマゾヒズムのスイッチを入れてしまったのかもしれないが、流石に奈々を変態の道に引き入れてはいけない。そこは超えてはいけない一線だと思うし、俺にだってそのくらいのモラルはある。いや。あるつもりだ。
「そんなんできんよ」
「お願い」
「聞こえたらどうするん?」
「お願い」
「隣に寝とるんよ。わかっとるん?」
「お願い」
唇を耳を舐めるくらいに近づけ、「お願い」されると俺の中の天使は悪魔と格闘しようともせず、偽善や悪行を暴こうともせず、眠ったふりをする。これ幸いと悪魔は教唆を始める。奈々を抱けない日がそこまで切なく、淋しいわけじゃない。毎日が酒池肉林でも飽きない、猿か知恵遅れのようなティーンエイジャーではないのだ。そんな時代の残骸たちを振り返る暇もなかった。
しかし、俺を教唆しているのは悪魔ではない。奈々なのだ。何度も同じことを言わさせるのも不粋だが、その橋を渡るわけにはいかない。
膠着したようにしばらく見詰め合ったのち、顔をそむけた奈々は、諦めたのかと思ったら、窓辺に手をつき、大きな尻を突き出して「タミオさん。お願い」とパンティを足首にまで降ろした。形の美しい、まだ俺以外の男を知らない性器は暗闇でもわかるくらいしっとりと濡れていた。
蛇の生殺しはかわいそうだ。
同じ経験をしていると、このまま何も起こらなかった時の奈々の惨めさが痛いほどに理解できる。
結局、俺は情に絆され、後ろからした。決して、奈々を乱暴には扱わなかったが、暖かな快楽に包まれた行為の途中で窓の外を見たら、白い箒星が見えた。
それがあの日、キョウジュと見たハレー彗星を思い出し、不思議な気分になった。
あの日出会い、一緒にハレー彗星を見た親友の娘とあの時ハレー彗星を見た隣の部屋でセックスをしながら箒星を見ていることが神の書いたラヴストーリーかお伽噺のように思えて、今、声を殺して健気に喘いでいる奈々が実在する人物なんだろうか?朝になれば消えてしまうんじゃないだろうか?と漠然とした不安を感じた。
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