第24話

 

 世界はすっかりと変わってしまった。

 コロナ前とコロナ後のことを言っているのではない。

 俺と奈々のことだ。

 取材の成功の代償としてとは絶対に思いたくないが、俺に処女を捧げた奈々は、女としての自信を得たのか、それまでのシャイでもどかしい地味な文系女子から陽気で、よく笑い、時には俺をいじり倒して喜んでいるような、即ち、キョウジュの娘と言うよりも加奈子の娘と言った方がふさわしいほどに性格が変わり、俺が仕切らなくても、デートコースを決め、貴重な休日を俺の為に捧げてくれる。

 と言っても、近場では目立つし、どこに連れて行ったらいいかもよくわからなかった俺と違い、奈々は、取材を装って、堂々と尾道の町を闊歩する大胆さと灯台下暗しを実践する聡明さを持っていて、俺は周囲から恋人というよりも奈々の甲斐甲斐しいアシスタントとして見られていた。

 それは少し淋しくもあったが、要らぬ嫉妬や中傷の矢面に立たされるリスクを考えると、仕方ないことのように思えた。第一、キョウジュに真相を知られた時に「お察しの通りじゃ。奈々ちゃんはワシの女じゃけぇ」と腹を括れるかどうかも怪しいのだから。

 奈々の仕事終わりには深夜の人のいない尾道城跡の展望台で待ち合わせて、灯もまばらな夜の港を見下ろしながら、他愛もないことを話した。

 奈々は、ぽつりぽつりと子供の頃の話を聴かせてくれるようになった。

 キョウジュには勿論、感謝しているようだが、ある年齢からどう接したらいいのかわからなくなってしまったようで、顔を合わせても冷淡な態度になってしまうことを悔いていた。だからと言って、分かり合えないことに対しては自分に非はないと思っている。そこらへんは幼少期や思春期に母親が必要な時にいなかった淋しさやハンデを自己弁護の武器というか、根拠にしたいのだろう。

 全てを許すのにはまだ若すぎるということか。

 かくいう俺は、途中でとんずらして、俺と義晴を二人ぼっちにした両親を恨む暇もないくらい忙しい人生だった。愛した人は親友と結ばれ、挙句の果て、二十三年も海外暮らしだ。過ぎた一切を振り返らず、誰のせいにもせず、諦めるべきものを諦めなければ生きてこれなかった。

 そういった経験を奈々に話したところで、理解の範疇を超えるか、自分語りの痛いおっさんと思われるだけなので、奈々の話の腰を折らず、知った風に否定せずに「うんうん」と聴いている。それで淋しさが紛れ、濁り、蟠っていたものが少しでもクリアになるのなら、俺のような人間にも価値があるというものだ。それに、このところのどこか無意識に加奈子を目指しているようにも見える奈々には仕事でしか見せなかった輝きを内外に解き放っているようで、とても煌めいて見える。

 言葉が途切れたら、切なげな目をした奈々が「タミオさん、そろそろ行こ」と誘い、奈々の車の中で「する」のがルーティンになっている。

 加奈子は開放的で人に対して分け隔てがなかった割りには性には保守的なところがあって(だから、キョウジュと結ばれたのは必然だったのかもしれない)、後ろからしようとしたら「タミオの変態!」と罵られ、二三日口を利いてもらえなかったことがあったくらいだ。奈々は、教えれば大概のことは拒まなかったし、覚えるのも早かった。星と月だけに覗かれた密室の闇の中でのバンコク仕込みの甘い囁きとフランス仕込みのねっとりとした技巧は奈々には少し刺激が強いかと思ったが、何とか対応し、対応しつつ俺のツボを探ろうとするので、快楽の高波が押し寄せても簡単に果てるわけにもいかなかった。

 嬉しい誤算というべきか?

 密月がいつまでも続かないことくらい知りたくないほど知っているが、この時だけは都合よく永遠を信じたかった。


 しばらくしてキョウジュから呼び出しがかかった。

「『たまがんぞう』の座敷の奥の席に七時じゃけど、ええかな?」

 奈々の鞆の記事は予想通り、各方面から評判がよく、奈々からはガイドブックを出している東京の某出版社から引き抜きの話が来たという話まで聞いていたので、機嫌がいいものとばかり思ったら、そうでもないので、調子が狂う。

「どしたん?元気がないのう」

「一寸、気分が冴えんのんよ」

「なら、無理すなよ」

「いや。タミオに大事な話があるんじゃ」

「ほうか。七時じゃ席がないけぇ、ワシ、先に行っとくわ」

「すまんのう」

 大事な話?

 奈々と俺のこと?

 尾道では「神武いらいの秀才」と言われたキョウジュのことだ。いくら、女には晩生とはいえ、節穴ではないだろう。きっと、何かちょっとした変化に気付いたに違いない。それとも、奈々が全て謳ってしまったのか?それにしては、取り乱した様子はなかった。却って、不安になるが、疑心暗鬼になるのは筋違いだ。隠し通せなくなったときは誤魔化さずに誠実に話そう。

 かと言って、開店と同時に海岸通りの「たまがんぞう」の白い暖簾をくぐり、カウンターで「こんちわ。奥ええかな?」とマスターに声をかけ、夜の尾道の海が一望できる奥の座敷に座り、手平の干物を七輪で焼いたのを福山の銘酒天寶一できゅっと流し込んでも落ち着かず、気分がほぐれるまでに時間がかかり、腑に熱いものが落ち、全体がフワフワと軽くなり始めるとそれでやっと「手平かぁ。ベッチャーも先週終わったし、もうすぐ冬か」ということに気付いたくらいだ。

 約束の七時前には平日だというのに観光客や地元の常連で席が埋まった。尾道市大の非常勤の日だったのか珍しくスーツ姿のキョウジュは律儀にも七時ちょうどに到着し、俺の顔を見るや「いやぁ、タミオには礼せにゃいけんのんじゃけど、不義理してしもうて」と気まずそうにしていた。

「キョウジュ。顔色悪いけど、酒なんか飲んどってホンマにええんか?」

「酒でも飲まんときついんじゃ」

「何があったん?日本酒でええか?」

「いや。たちまち(とりあえず)ビールじゃろ」

 サッポロ黒ラベルの中瓶を一瞬で飲み干して「ふぅ」と息をつくと「タミオ。言いにくいんじゃが、奈々に男ができたみたいなんじゃ。しかも、そいつはワシらと同年代で」と震えるような声で絞り出すように言った。

 案の定。その矢は俺に飛んでくるのか?悪事がバレる瞬間のあの厭な緊張感が全身を駆け抜ける。  

「そんなん、なんでわかるん?」

「実はのう、奈々がブランキーのCDを借りに来たんよ」

「え?奈々ちゃんがブランキーを?それがなんでいけんの?それがなんで男に結びつくん?」

「いけんに決まっとるじゃろ!タミオは事の重大さが全然、わかってない!奈々はのう、長年、ワシがなんぼ勧めても、頑なに倖田來未以外聴こうとせんのよ。それがなんで急にブランキーなんよ?男以外ありえんじゃろ。ワシはベンジーにグレッジで打たれた気分で」

 あの泣き虫で大人しい男が珍しく声を荒げたと思ったら、お銚子から直接、口をつけて天寶一を流し込むと「タミオ。頼むけぇ、助けてくれぇや。手塩にかけて育てた可愛い一人娘がわけのわからんおっさんに搔っ攫われていくんはあまりにも残酷で切ないで。やれんでホンマ」とさめざめと泣き始めた。

 まさか、ブランキージェットシティで足がつくとは、というよりも奈々が倖田來未しか聴かないというのがひどく意外で、エロ可愛い京女と奈々は決して交わることのない太陽と月のような対極にある存在のような気がするが、奈々の性に対する意外な積極さとこの頃の闊達さは、根底に倖田來未への憧れがあってのことなのかもしれない。

 いや。感心している場合ではない。

 酒のお代わりと本日の刺し盛りを追加すると、キョウジュはまた鯨飲して、畳みかけるように続けた。

「タミオ。頼むわ。後生じゃけん。なんとかそいつを特定して、見つけ出して、連れてきて、話をつけてくれんかのう。いや。話はワシがするけぇ、奈々をそんな奴と一緒にさせたらいけん」

 とてもではないが、「鞆の取材に協力した見返りは?」なんて戯けたことを言える空気ではない。

 しかし、「男」の存在に気付きながら、その「男」が俺だと気付かないのは、俺への信頼の賜物だと思うと、俺はとても悪いことをやっているような気分になるのだが、奈々の存在しない元の灰色の敵意をむき出しの世界になど戻りたくない。

 さて、どうしたものか?    


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