第23話
鞆というのは不思議な町で、大都市や中核都市、或いは、それに該当しない地方都市と違って、半グレや不良外人がいないので、夜中に女性が一人で歩いていても危険な目に遭うことはまずない。その代わり、夜九時を過ぎれば真っ暗だから、一人歩きをするような酔狂な女性自体がいない。
『衣笠』から本家までは海岸沿いのバス通りから雁木、七卿通りを経て、灯のともった常夜灯を経由した方が雰囲気があって、気の利いた台詞の一つでも言いたくなるものだが、かなり道が暗く、奈々が怖がってもいけないので、幾分、街灯のある国道四十七号線を通ることにした。
結局、裕ちゃんはさっちゃんに介抱されてさっちゃんの道越の自宅に運ばれていった。「こりゃ、高利付けて裕次郎のツケにせにゃいけん」と口をへの字にしたさっちゃんは俺と奈々から頑として飲食代を受け取らなかった。
良かったんだか、悪かったんだか…
三賞堂から平久の坂を下り、非地元民の離合の難所である西町の狭い通りを真っ直ぐ行き、壇上の坂を下り、平の方向に三分ほど歩けば、本家だ。
その間、俺と奈々は何も喋らなかった。ただ、奈々はずっと頭を俺の肩に乗せ、手を繋ぎ、まるで大学生の恋人同士が散歩するみたいに灯もまばらな鞆の町を歩いた。きっと昼間に俺たちとすれ違う人がいても大学生の恋人同士としか思わないだろう。
本家の二軒隣の件の沖辰商店まで来た時、奈々が十分ほどの沈黙を破った。
「ここスーパーのない鞆で配達や高齢者の送り迎えもしてくれる町民から頼りにされてる店みたいですね」
「一応、親戚なんじゃけどな」
「…」
奈々は、俺の目をじっと見詰めたまま、繋いだ手に力を込めた。握力は三十位と女性にしては強めだ。何が言いたいかはわかる。
「明日、泰助兄ちゃんにワシから話しとこうか?」
「お願いできます?」
こういう誘導の仕方は賢いキョウジュからいい返事や欲したものを引き出す為に習得された処世術のようなものだろう。アホ面してカルチェだのヴィトンだのをねだるキャバ嬢なんかよりもずっとスマートでクレバーだ。
鉄筋三階建ての本家。
小百合姐さんの生まれた年に建てられたので、築後五十年の本家。
昔は夏になると親戚が集まり、瀬戸内海を一望できる見晴らしのいい屋上で食事会をしたものだ。
モダンでインテリで変わり者の大叔父のセンスが至る所に生きていて、俺は後年、裕ちゃんに聴くまで本家は金持ちだとばかり思っていたが、あれは大叔父の面子と見栄がそうさせていたようで、普段の生活ぶりはせこいくらいに質素倹約であったらしい。そういえば、裕ちゃんも他人には気前がいいが、自分は襤褸を着、安酒ばかりを飲んでいる。本家の気風なのだろう。
土間兼ガレージにはドラム式の洗濯機と白いベスパが置かれ、水槽には煌びやかなネオンテトラが泳いでいる。本家というよりも今や完全に裕ちゃんの家という感じだ。
「お邪魔します」とあがると、仏壇には季節の果物が剥いてすぐ食べれる状態で供えられ、大叔母が好きだった鮮やかな紫の蘭が活けられている。裕ちゃんはああ見えて、クソがつくほど几帳面で、おばあちゃん子だった。台所も男やもめとは思えないくらい整然としていて、洗い物も溜まっていない。
「へぇ。裕次郎さんって意外と綺麗好きなんですね」なんて奈々も感心しているほどだ。
「奈々ちゃん。お風呂は二階の突き当りじゃけ、着替えは小百合姐さんかルリちゃんのがあるはずじゃ」
「タミオさんも汗臭いですよ」
「何言うとるん?レディファーストじゃ」と言いながら、俺は手首をクンクンすると確かに汗臭かった。その仕草が可笑しかったのか、奈々は暫く笑っていた。
風呂の順番を待つ間、三階の叔父の酒棚から目ざとくカヴァランを見つけた俺は、一杯だけ拝借し、裕ちゃんのCDラックからテレサテンの『台語金曲集』を取り出し、ボリュームを落としてかける。テレサの優しく、女体のように丸みを帯びた歌声で『雨夜花』が流れ始めると、安心からか、疲れがどっと押し寄せてきた。
それにしても、カヴァランにテレサ。本家の人はどうしてこうも台湾贔屓なのだろうか?大叔父は昭和五十年代初頭には当時、まだ伊藤園ですら販売していなかった烏龍茶を嗜んでいたし、正月は決まって餃子だったし、ファミリーヒストリーに取材してもらえば面白いことがわかるかもしれない。
しっとりした一青窈のカヴァー版とは異なる、アップテンポな『望春風』が台北の萬華か迪化街あたりの夜風を運んでくるころには入浴は面倒くさくなってきたので、しまなみ信銀の粗品のタオルを濡らして、軀を拭いた。手首をクンクンしてももう汗臭くなかったが、念には念をで洗面所で埃をかぶっているエタニティをひと振りした。
それにしても、奈々は、噂に違わず、長風呂だ。
カヴァランをもう一杯だけ頂きながら、CDをジョンコルトレインとジョニーハートマンのに換え、五曲目の『You are too beautiful』のコルトレインのイントロのところになって奈々は漸くお風呂から出てきた。
ウトウトと舟を漕ぎ始めていた俺は奈々の姿に完全に目が醒めた。
一メートル六十四センチで健康的にふくよかな軀つきの奈々に小柄なルリちゃんの服は流石にきつそうで、尻と胸元が今にも零れ落ちそうで、眼福、いや。目のやり場に困る。おまけに俺は目以外の場所も目覚めてしまい、これでは「息子の教育もロクにできない」と岸田総理を嗤えない。
「裕ちゃんのスウェットかピジャマがあるけぇ、そっちにしたら?」
「でも、これ可愛いし、いい匂いがする。ルリ子さんにもお会いしてみたいわ」と意に介さない。
「それに、タミオさんが初めてウチを女として見てくれてブチ嬉しいんです」
咄嗟に前屈みになったが、遅かった。一瞬でも良からぬ妄想を浮かべたいやらしい目で奈々を見たことを恥じたが、これも遅かった。
そういう時はいつだって成り行きだった俺は、奈々とは星だか糸だか見えざる何かに導かれるようにそこに至りたいと願っていたが、これでは行く手を見透かされ、罠にかかったみたいで情けなく、ただただ気まずい。
「ごめん」
「何謝ってるんですか?こんなに嬉しいのは大人になってから初めてなんですよ」
奈々の甘い体臭とロクシタンのシャンプーの匂いが混ざり、それが鼻孔を擽り、夢を見ているようだ。並の男ならば、降参して、理性をなきものにして、今すぐにでも奈々を押し倒してしまうだろう。
いや。そうするのが礼儀だろう。
痩せ我慢などする気はないし、振られ役を見事に演じてくれ、場所まで提供してくれた裕ちゃんの篤い友情に答えなければいけないことはわかっている。しかも、アンデス山中の四千メートル地点にだけ咲く高原植物を摘みに行くのではない。俺に傾いている奈々を俺のテリトリーに引き寄せるだけの簡単なお仕事のはずだ。それに、これは加奈子が望んでいることでもある。
経験の浅い奈々に男は本命の前に立つと催したり、思想が曖昧になったりしてしまうことを理解するのは不可能なことだ。
危ぶめば道はない。
CDはとっくに終演し、しんとした闇夜の沈黙と寄せては返す静寂な波の音だけが聴こえてくる。
「タミオさん」
奈々は俺の手を取りそれを左の乳房に充てた。
その柔らかさに感動するより前に心臓の鼓動の激しさに俺は自分のこの機に及んで躊躇うような女々しさを呪った。
道標にならねば。
「奈々ちゃんが好きじゃ」
唇を重ね、床に運び、窮屈そうなルリちゃんのシャツを剥ぎ、豊満な白い砂丘にこの世で一番優しく撫で、この世で一番優しく吸いつく。お願いだから、これが運命でありますように、お願いだから奈々が泣いていませんようにと祈るように…
奈々の声は聴こえず、ただ波の音だけが聴こえていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます