第22話
取材は一時間半にも及んだ。
興味を持ち、次々に抽斗を開けてゆく奈々にさっちゃんがそれに機嫌よく答えていくという構図で、多分、それだけで一冊本が書けるんじゃないかというほどの内容の濃さで、俺と裕ちゃんはその間、親戚や共通の友人の近況だの、子供の頃やバンコク時代の話だの、来年度のカープの希望的観測だのをダラダラと話していた。
同時に催した俺と裕ちゃんは御不浄に発ち、放尿しながら裕ちゃんが真面目な顔をして「タミ君。奈々ちゃんとはまだなんじゃろ?」と問うた。
俺は「へ?」ととぼけた声で驚いたが、動揺してポイントを外しそうになった。
「図星か」
「…」
「奈々ちゃんのう、サチヲが喋っとる隙にタミ君のことばぁ(ばかり)見ようるんじゃけど、あれは間違いのう惚れとるし、憧れと尊敬を持った目じゃ。あんまり女の子を待たすなや」
これくらいの洞察力なくして何十年も海外で商売ができるわけがないと言えども、ここまでお見通しとなると、俺も二の句を失くす。
「タミ君程の人がプラトニックラヴとはフウが悪い(みっともない)で。おう。ワシは引き立て役になってやるけぇ、今日、決めないや」
裕ちゃんは洗っていない手でジーンズのポケットから鍵束を出し、その中から鍵というより錠前と言った方がしっくりくる銀色の鍵を出し、俺に手渡した。
「ワシんとこ使うてぇや。場所と間取りはよう知っとるじゃろ。ワシは酔うた振りしてサチヲのとこ泊まるし、最終のバスが出たら後の祭りじゃ」
「裕ちゃん…」
「ええか?スープと女は待たしたらいけんのど。後はないもんと思いないや」
いつか俺が奈々にほとんど冗談で言った台詞がこんなにもリアルに自分に帰って来るなんて…
「タミ君。心配すなや。酔わして云々するんじゃない。時間オーバーさせて帰れんようにしたらええんじゃ」
「裕ちゃん、また借りができそうじゃのう」
「アホ。そんなもんはどっちかが死ぬまでに返してくれたらええんじゃ。気にすな」
裕ちゃんが握らせてくれた本家の家の鍵が気のせいか、水をかけた石灰のように俄かに掌の中で熱を帯びてきたように感じた。
「それに、おっさんになってもタミ君とバカ言いながら酒が飲めるんじゃ。感謝せにゃいけん」
裕ちゃんは独り言のように呟き、豪快に放屁した。
御不浄から戻ると、裕ちゃんは「おい。サチヲ。奈々ちゃんに厨房で華麗なる包丁捌きを見せてやれや。刺身切っとるとこなんかは絶対にええ絵になるで」などと急に取材に協力的になり、さっちゃんもノリノリで「それぼれぇ(ものすごく)ええなぁ。奈々ちゃん。是非、表紙で使うてぇな」などと快諾してくれ、思いがけなく、職人の渋い写真が撮れたりして、もう今回の取材は勝ったも同然な展開になったものだから、裕ちゃんは「おう。サチヲ。あのお客さんがいんだら(帰ったら)、店、閉めない。今日はタミ君と飲むんじゃ」という無理難題にも応じてくれた。
さっちゃんは昔から酒はほとんど飲めないが、持ち前のサーヴィス精神で付き合ってくれ、酔っ払い、呂律の怪しくなった裕ちゃんの額を「何ゆうとんじゃアホ」と叩く様はどことなく、ダウンタウンの浜ちゃんを彷彿とさせた。
幸福な時間はすぐに過ぎ去る。
二十時過ぎたあたりから奈々は時間を気にし始めていたが、裕ちゃんの脚色過剰の今日日の言葉で言うところの「盛った」俺の昔話が始まると、夢中になって傾聴し、二十二時を過ぎて「あれ?そういや、タミ君と奈々ちゃんは今日は鞆に泊まりなん?」とさっちゃんが気付くまで、完全に時間を忘れていた。
「え?嘘?」
奈々は、右腕のルキアを見て、慌てた。
「ごめんごめん。泊まりじゃ思うたけぇ、時間気にせんと喋り倒してしもうたわ」と裕ちゃんはあんまり済まなくなさそうに詫び、俺には「ちいたぁ(少しは)感謝せいよ」と言わんばかりに悪戯っぽく目配せをした。
「タクシー呼ぶか?終電には間に合うじゃろ」
「二十二時から会議だったんですけど…」
奈々は、さっちゃんの申し出をスルーし、寝坊してベッドの上で途方に暮れるOLみたいに天を仰ぎ、「ふぅ」と嘆息をして、携帯を取り出し、社とキョウジュに断りと外泊の旨の電話を入れていたが、「泊まり」は流石にキョウジュは心配になったようで、俺に電話を代わるように言った。
「もしもし。キョウジュ。すまん。取材が長引いてしもうた。うん。明日責任をもって送り届けるけぇ、心配いらん」
「タミオ。つまらんことに付き合わせてホンマに悪いのう。また奈々が我儘ゆうたんじゃないんか?後日、礼は必ずするけぇ、何でもゆうてきてや」
俺の声を聴いて安心だとわかったのか、キョウジュは縛られていた悪い予感や恐怖から解放されたように堰を切り、早口になった。
もし、本当に「御礼」を要求してもいいのであれば、それは物資的且つ、即物的な何かではなく、躊躇わずに奈々を要求するだろう。尤も、そこまで厚釜しくなってしまっては俺とキョウジュの長きに亘る友情には綾がつき、白け始め、ゆっくりとした速度でやがて落日を迎えることになるだろう。
「そういや、本家の裕ちゃんが『奈々ちゃんと全然似とらん』って嗤うとったで」
「はは。相変わらず、あの人は声がでかいのう」
キョウジュは「そうなんよ。タミ君は中山美穂のファンクラブの会員番号二桁台じゃったんじゃけ」なんて裕ちゃんの酔語を電話の向こうで聴きながら呆れていた。
「奈々にあんまり頑張りすぎるなってゆうといてや。あいつ、倒れるギリギリまで頑張る子じゃけ」
「おう。伝えとくよ」
奈々に携帯を返すと、事務的に二言三言交わしてから切った。
「パパ、ウチのことなんかゆうてました?」
何か違和感を感じ、それに不本意ながら耐えているような不安げな様子で俺に訊いた。
「『頑張りすぎるな』じゃと」
「今、頑張らんと未来がないというのに…」
話の通じない老人か狂人の意見か苦言を聞いたように、奈々は往年の工藤静香が熱唱している時みたいに眉を寄せて「パパは何もわかってない」と渋い顔をした。不謹慎ながら、何かに拒否されたり何かを拒否するときの奈々の顔も可愛いと思った。
「奈々ちゃんはよう頑張っとるよ。それも、他人の五倍も十倍もな。未来はちゃんとあるよ。大丈夫じゃけ」
俺は子供の頭をナデナデするように奈々のウエイブ気味な栗色の髪を撫でた。
「パパはタミオさんみたいに全然、褒めたり共感したりしてくれん」
「彼氏じゃないんじゃもん。そりゃしょうがなぁわ」
「タミオさん…」
奈々は、またいつかのように俺の胸に頬をうずめて泣き始めた。
キョウジュを貶める気は全然なく、寧ろ、父親とはそういうものだということが言いたかっただけのに、俺は一番の理解者だと誤解されてしまったみたいだ。
勿論、奈々の理解者でありたいと思うが、それはキョウジュを狭量で、独善的で、ややこしい、何十年も前に彼岸に断絶された旧時代的な父親に仕立ててまでなりたいポジションではないが、奈々が望むものはそれに近いような気がする。それは永住したいような楽園ではないだろう。
狭間に立たされる苦しさは未知のものだったが、苦しいようで甘く、甘いようで痛い。逃げ出したくもなるが、そこから逃れたら、奈々を失い、俺はまた元の器用貧乏な根無し草に戻ってしまうような気がする。
だから俺は奈々の髪を撫で続ける。
程なく賑やかな裕ちゃんの声が途絶えた。
世話はない。酔った振りではなく、本当に酔い潰れてしまったのだろう。
「奈々ちゃん。疲れた?ここからあと十分ほど歩ける?」
奈々は、小さく頷いた。
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