第19話

 土曜日の朝の尾道駅前渡船場は、寒暖乾湿の塩梅が丁度よく、空は青く晴れ渡り、海も風も穏やかで最高の航海日和だった。

 長らく、尾道から鞆へ行くにはJRとバスを乗り継がなければならなかったが、数年前から波の高い冬場以外の土日と祝日に一日二便直通の観光船が往復している。前者だと林芙美子の目線で尾道の海が観れるが、後者だと、広島のリバークルーズ同様、それまではドローン飛ばさないと観れなかった海から尾道鞆間の観光スポットが楽しめる。

 ほどなく現れた奈々は、前回の新卒のようなリクルートスーツではなく、すずちゃんとスイーツでも食べに行くかのようなカジュアルないでたちで、「タミオさん、ごめんなさい。またつき合わせちゃって」と東京の女の子のような口を利くので、「ええんよ。どうせ暇じゃし」と余裕の微笑みを見せた。

 瀬戸田行と同じみかん色のシトラス号には運転手兼ガイドのアジアのビーチリゾートによくいそうな軽薄でよく喋る神奈川出身のお兄さんが乗っていて(神奈川というあたり、横浜や湘南ではないのだろう)、尾道水道の潮の満ち引きや尾道市役所の展望台の話からはじまるので、一見の観光客にはありがたいだろう。二千五百円の船賃はガイド料込みとみた。

 俺は、今更という感じなので、船尾で気持ちのいい海風に吹かれながら瀬戸の大海原でも見ていようかと思ったが、案の定、奈々が写真に質問にと忙しく、なんか俺一人が船旅を楽しんでるのも申し訳ない気分になり、船が常石造船まで進むと奈々は取材熱がこもり、すっかり話し込んでしまっていたので、「奈々ちゃん。写真、ワシが撮ってこうか」と助手役を申し出ると、「タミオさん。お願いできます」とすまなそうにライカを渡した。

 造船所のクレーンは尾道でもガキの頃から見慣れているので、珍しくもなんともないが、船内を造設中で、船体がまだ軽く、紫色の船体が浮き、スクリューの出た大型船を観るのは初めてなので、思わず、シャッターを切る。数秒遅れでそこが説明される。我ながら冴えている。フィルター越しに奈々を盗み見る。居場所と武器を得て、活き活きとし、要領の良さにも愚鈍さにも一瞥も呉れない、万能感に溢れる貴婦人がそこにいる。「愛」という文字を見ても真っ赤になるようなあのシャイな女の子はどこに行ってしまったのだろう?と不思議な気分になる。

 内海大橋の曲線にシーズンオフのクレセントビーチを過ぎると、阿伏兎観音が観える。

 ここは宮島の厳島神社同様、海から見た方が絶対に美しい。岬にそびえたつ朱塗の観音堂の絶景には船内からも観光客のため息が聴こえるほどだ。仕事というよりも、自然美に対する感謝と敬意としてシャッターを押す。神の為の芸術しか許されなかったルネサンス以前のヨーロッパの芸術家は皆、こんな気持ちで筆を握ったのだろうか?それほど、瀬戸の海は心をまっさらにしてくれる。

 阿伏兎観音を過ぎれば、鞆はもうすぐだ。十分もしないうちに鞆港の石の防波堤と玉津島の白灯台が見えてくるだろう。船内に戻ると奈々は、彼方に見える笠岡諸島の北木島のことを質問していた。今では採石の島というよりも千鳥の大悟の故郷であることの方が有名だ。到着するまで取材、到着しても取材。俺はそれを少しでも快適で有意義なものにする為に存在している。

 悪くない。

 まだ、到着後のことは何も聴いていないが、前回以上に頼りにされることだけは確かだ。

 小室浜を過ぎると、正面に百貫島と仙酔島が見えてきた。

 二十三年ぶりに見る鞆の海だ。

 こんなに透き通った海だったか?

 思い出が美しく上書きされることはよくあることだが、夏になるとしょっちゅう赤潮が発生して泳げなくなった鞆の海の記憶が鮮烈なので、海の美しさはひどく意外で、思わずガイドに質問したところ、「日本鋼管が工業排水を出さなくなったから」だそうな。海が汚れた原因が日本鋼管なので、高度成長期以前の美しい海に戻っただけの話なのだが、変われば変わるものだ。

 防波堤を横切って内海に入ると、ランドマークの常夜灯が見え、本家の裕ちゃんと夏になるとよくロケット花火をやって遊んだ旧赤灯台が見え、後地の山には医王寺が見え、目の前には風情のある鞆の街並みが拡がり、右手には錨を下す桟橋が見える。桟橋降りたところの「平井釣り具店」では中学生の分際でエロトピアを立ち読みし、関東煮をつまみにワンカップを飲んだし、昭和の頃にその隣にあった「ポート」という喫茶店ではよく本家の大叔父にあんみつやホットケーキを食わしてもらった。

 言うなれば第二の故郷だ。奈々の取材のフォローと言えども思い出に胸がいっぱいになる。俺にとってはそんな町だ。

 船が桟橋につけられ、下船となると、奈々はやっと一生懸命、書き物をやっていた白のミニのvaioを閉じたので、「写真とは別に入港のとこ動画に撮ったけぇ、あとで見てな」と言うと、少し驚いて、ちょこんと頭を下げた。奈々は、俺が知る奈々に戻っていた。

「すいませんねぇ、一時間も彼女さんを独り占めにしちゃって」と薄ら笑いを浮かべてガイドが近づいてきたので、「自信があるもんは嫉妬せんのんですよ」と言って、ニヤリと笑い返し、軽い足取りでタラップを降りた。

 潮風と干し魚の匂いで満ちた鞆の空気を思いっきり吸い込んだ。

 懐かしさで涙が零れそうになる。

 ガイドは名残惜しそうにまだ奈々に何か話しかけている。

 「残念でした」

 潮風に吹かれる揺るぎない想いはこれからもずっと俺を支え、大地に立たせてくれるだろう。

 

  

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