第17話

 尾道に戻ると、間髪を置かず、筒井先生から呼び出しがかかった。

 おおかた、義晴から報告が入ったのだろう。小僧の森本君を龍のねどこに使いに寄越した。

 道中、流石に不安になり、「のう。森本君。筒井先生はワシのこと何かゆうてなかったか?」と探りを入れたが、「さぁ。私は何も。ご自分で聞かはったらどないどす」と取り付く島もない。

 元々、観音寺のほうの寺の跡取り息子で、京都の大学で仏教を学んだ後、筒井先生の下で修業中の身だそうだが、大学で学んだのは仏の教えではなく、京都人の底意地の悪さではないのか、と勘ぐってしまう。少々、ムカッときたが、森本君の映画『霊幻道士』に出てくるすいか頭を彷彿とさせるカリカチュアな風貌と、「この性格じゃ絶対に筒井先生とは水と油だろうな」と思うと、ムカつきは完全に相殺され、余剰分の笑いがこみあげて来るのだった。

「センセ。お連れしましたえ」

 本堂に着くと森本君は舞台芸人のように腹から声を出した。

「コラ!聖榮!わりゃなんべんゆうたらわかるんない?『センセ』じゃのうて『和尚様』じゃろうが」と筒井先生が怒声とともにお出ましになった。あまり関係性がよろしくないだろうと言うのは予想した通りのようだ。

「センセはそない仰りますが、皆さん、親しみを込めて『筒井先生』ゆうて呼んではりますやん」

「あれらぁみなワシの教え子じゃ。オドレは弟子ど!それと、四国の田舎寺院の小倅のくせに贅六の言葉もやめい!」

「あらぁ。差別はあきまへんえ。仏の教えに背きますさけ」

 森本君は丸眼鏡の奥の目を糸のように引き、厭な薄笑いを浮かべ、俺に「ホナ、お茶でも呼ばれておいきやす」と言って、下がっていった。

「森本君に『帰れ』って言われたんで帰ってもええすか?」と俺も薄笑いを浮かべたが、「構わん。上がれ。不細工なところ見せてしもうたのう」と不機嫌に目も合わさずに言った。

 本堂の毘沙門天像の前で俺と筒井先生は向かい合って座った。

 それは詰問になるのか、談話になるのかわからないが、森本君のおかげで当初の緊張はなかったが、厭な予感までは一掃されていなったので、先手を打った。

「そういや、先生にお説教されるとき、いっつもここに正座させられましたね」

「その代わり、褒めるときは褒めちぎったつもりじゃけどの」

「殴られたことはよう覚えとるんですが…」

「その代わり、親切にされたことは忘れる。人間の業じゃの」

 名僧はそんなことでは揺るがない。なんだったら、ここから有難い説法でもはじまりそうな空気感すらある。

「先生。見損なってもろうちゃ困る。ワシも義晴も恩義は忘れちゃおらんですよ」

「まぁ、それはよっちゃんが利子と熨斗をつけて返してくれたけぇ、忘れてもろうても構わん。勿論、ワシはそんなもんを期待してお前ら二人を引き取ったわけじゃなぁど」

 筒井先生の南洋人のようなどんぐり眼が俺を見据えて続ける。

「人間ゆうのはのう、積むべき時に徳を積まんといけん。それが御仏の心に副い、御仏に近づく道なんじゃ。その機会をお前らが与えてくれた。これもええ御縁じゃと思うた。まぁ、楽な道じゃなかったがのう、それだけのことよ」

 タイ仏教で言うところの「タンブン」という奴か。昔の俺なら欠伸を噛み殺しながら「線香くさい」と一蹴した類の話だが、一つ一つの意味が面白いように理解できる。

「それで、タミオ。お前、よっちゃんの申し出を断ったそうじゃのう」

 やはり、話の本題はそれだったか。

 筒井先生から発せられる気が急に冷たいものへと変わり、「是」としか言わさせない、静かな怒りを含んだ口ぶりになった。

 現実を見るまでもなく、二十三年も海外を漂った俺がこの国でまともな企業に就職することなど、アンシュタインの相対性理論やニュートンの力学を幼稚園児に完全に理解させるくらい難しい。社会復帰できる可能性だって自慢できるような高いパーセンテージではないだろう。そこで、義晴に「タミオのバカの為に椅子を用意してやってほしい」と頭を下げ、根回しをしていたのではないだろうか。義晴は渡りに船で快諾したのだろうけど、こうなると、筒井先生の面子は丸潰れだ。

「おい。もの訊きよるんじゃ。黙っとったらわからんど」

「はい。断りました」

「なんでや?」

「先生。こらえて(許して)ください」

 やばい。これは来る。

「タミオ!目ぇ瞑って、歯を食いしばれぃ!」

 本当に来る。間違えなく、鉄拳が飛ぶ。

 しかし、悪いのは俺だ。抵抗も弁明もよそう。痩せ我慢はひもじいだけではなく、痛みを伴うが、それに耐えれてこそ本物だ。耐えて本物になろう。

 俺は、目を瞑り、奥歯を食いしばったまま、ビンタの洗礼を受ける恐怖の瞬間を待った。

 するとどうしたことか。三十秒経っても一分経っても、何も起こらない。静寂と瀬戸の穏やかな午後の日差しが本堂を満たし、俺の屠殺場へ送られる家畜のような逃げ場のない気持ちとは対極にある世界が存在する。

 おかしい。何がどうなってる?

 薄目を開けてみる。

 筒井先生の気を感じる。まだ殴らないのか?

 完全に目を開けると、筒井先生は慈愛溢れる僧侶の顔になって、微笑んでいた。

「タミオ。ワレもおせ(大人)らしゅうなったのう」

「え?」

「テストは合格じゃ」

「え?どういうことです?」

「よっちゃんからみな聴いた。『人は財産』か。御大師様でもよう言わんど。弟想いのええ兄貴じゃ」

 そう言って、俺の髪をくしゃくしゃに撫でたかと思ったら、隣接した台所の水屋からグラス二つと山崎の十二年を持ってきて、「おう。飲め!今日は徹底的に飲め!」と言う。

「いやの。こんながよっちゃんのとこで働くってゆうたら、ブチ喰らわさんといけんところじゃったが、ワシは無性に嬉しいで。ホレ、飲め」

 山崎はカポカポ音を立て、グラスを満たし、俺も返杯し、グラスを合わせた。

「海外で二十三年もご苦労じゃったのう。その目は底辺や絶望もちゃんと見てきた目じゃ。そこらへんの坊さんでもそうはなれんで。お帰り。タミオ」

 俺は涙が溢れないように山崎を一気に飲み干した。少し噎せはしたが、美味い酒だ。余市から上のクラスのジャパンウィスキーは海外に持って行っても恥ずかしくない。二杯目以降は舐めるように飲みたいものだ。

「ははは。かけっこした後のサイダーじゃないんじゃけん、そがに一気に飲むなや。誰も取りゃぁせん」

 筒井先生は笑いながら俺の背中をさすり、次の一杯を注いだ。

「せ、先生はワシの気持ちをわかってくれるんですね?」

「当たり前じゃ。なんも言うな。ちゃんとわかっとるけぇ、なんも言うな。こないだはブチ殴って悪かったのう。ああでもせんと、藤井の大奥様にカッコがつくまぁが」

「そんなことだろうと思ってましたよ」

「こいつ」

 冗談っぽく、俺の額を小突くと、「おい。聖榮。チーズかなんか持ってこいや。よいよ気が利かんのう」と森本君に怒鳴った。

「センセ。何してはるんですか?あれほど医者に休肝日こさえるように言われてはんのに、ほんにしょうのない」と読経をやっていた森本君は厭味を言いながらも、メルティキスとキリのクリームチーズを箱ごと持ってきて、「タミオさん。センセにあんまり飲ましたらあきませんよ」と眉間に皺を寄せて奥さんみたいなことを言った。ちゃんと話せば、こいつは存外いい奴なのかもしれないと思いながら、俺は二杯目のグラスに軽いキスをした。

 

 

 

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