第16話

「タミオさん、タミオさん」

 夢と現の境界線で二の足を踏んでいる俺の覚悟を試しているかのように奈々の俺を呼ぶ声が聴こえてくる。目を開ければ、俺は加奈子との約束を果たすために奈々の想いに答えるべく、運命が敷いた軌道を一寸のブレもなく辿る日々がはじまる。

 もう迷うことはないし、逃れようもない。

 奈々は加奈子なのだ。

 正確に言うと、加奈子は、夜明け前に降った雪のような無償で穢れのない心から不埒で卑猥で利己的な闇まで俺に対する想いのすべてを奈々に託したのだ。そのことで本来持っていた奈々の宿命が証拠を残さず、綺麗に上書きされ、それを知らず知らずのうちに心に命じられ、顔まで加奈子に似てきたのだろう。だからこそ、それを受け継いだ奈々は、父親ほど年の違う俺のことを不器用ながらもこれほどまでに慕うのだろう。勿論、奈々にそんな記憶や意識はない。

 象牙海岸からリヴァプールまで嵐のような航海を終えた水夫のようなくたびれ果て、愛しい人の待つ暖かな港へとたどり着けた安堵によろめきそうになりながら、俺はゆっくりと目を開けた。

「タミオさん」

 奈々は泣いていた。

 生暖かい涙は俺の顔に降り注いでいた。

 きっと俺が死んでしまったとでも思ったのかもしれないし、或いは、さっき、異界で加奈子と話した内容を全てを聴いてしまったのかもしれないが、その涙の訳を訊くのは野暮天もいいところだ。

「タミオさん」

「ここはどこ?」

「タミオさん」

 名優は「そうですね」という短い台詞だけでも百八つのヴァリエーションを持っていると言うが、奈々の「タミオさん」は雄弁だった。ここがどこかなんてことはさして重要ではない。奈々にとっては俺が生きて動いて喋っていることが重要なのだ。たとえ俺がすでに人間の体をなしていないのだとしても。

 奈々は、俺の頬に落ちた涙を指で拭いながら、「タミオさん。絶対に無理せんといてくださいね」と病床で咳きこむ子供の背中をさするような優しさを込めて言った。

 その言葉を額面通りに取るなら、「無茶飲みはダメですよ」になるが、加奈子との約束のことを言っているようにも思える。寧ろ、後者の意味で捉えるのが正しいように思える。奈々自身も加奈子に託された想いの重さと俺に惹かれてゆく説明不能の抗い切れない引力に戸惑い、これから先、それに耐えていけるのかどうか不安で仕方がないのだろう。まだ泣いている。

「奈々ちゃん」

「ハイ」

 道標にならねば。

 恥も明日の見えない不安も全部俺が受け持つ。

「奈々ちゃんの涙を好きになってもええかな?」 

「タミオさん…」

「奈々ちゃんこそ無理しちゃいけん。大事なものに力や圧を加えるとめげて(壊れて)しまうけぇ、そっと抱くもんじゃ。そっとな」

 奈々の頬にかかる涙に口づけた。

 優しい女の涙だった。

 計算高い女や冷酷な女やマウントを取ってくる女の涙は、獲物を咀嚼しながら涙を流す鰐のようなどこか血の匂いのする、ただ上っ面が美しいだけの偽りの涙を流すものだが、くだらない駆け引きや人を陥れることなど知らない、少女の面影と淡い花の匂いに縁どられた美しい春の細雨のような涙。

 涙だって色んな涙がある。

 俺がこの世界で信じるのは奈々の涙だけだ。

 それを好きになっていいかなんて訊くまでもなく、好きなのだ。

 そんな涙を自分にも他人にも流せる奈々が。

 好きなのだ。

「奈々ちゃん。大事にするけぇな」

「ハイ」

 壊れてしまわないように奈々をそっと抱きしめた。

 世の男どもが抱きがちな暗い欲望や女どもが抱きがちなヒステリックな嫉妬など入る隙がないほど、地続きになった大陸には戦争や飢餓や憎しみの欠片さえ探し出せず、青く澄んだ豊穣の海の波打ち際で全裸で戯れる俺と奈々を古今東西、高下正邪入り混じったありとあらゆる神々が微笑みながら見下ろし、守護しているような、そんな幸福な時間。

 軀も金も使わないのに日差しのように幸福が素肌に降り積もってゆく。

「タミオさん」

 奈々もきっとそう感じているに違いない。

「奈々ちゃん。大事にするけぇな」

 大事なことなので、俺は二度言った。

「ハイ」

 奈々は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。

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