第15話

 酒での暴言や失敗や失禁、飲みすぎで勤労を放棄したり肝臓を痛めつけたりとは全く無縁の人生だったが、キョウジュの親父さんのペースで賑やかにドンペリを飲んでいると、一時間ほどでバッテリーが切れるようにブラックアウトしてしまって、記憶が途絶えてしまった。

 気付いたら、雨上がりの白い靄の降るまだ人もまばらな早朝の尾道駅。

 海さえも銀青に霞む幻想のような白い朝。

 奈々はキョウジュの親父さんに託し、俺は、義晴の店で仮眠して終電か始発で帰ったのだろうか?

 酒で記憶を失くすなんて、昭和平成を超え、初めてのことだ。若い頃に酔いつぶれたキョウジュを介抱したことなら何度もあるが、俺はいつでも取りなし、いなし、煽てて連れて帰る役割だった。

 しかし、ここまでハッキリと記憶が遮断されると、昨夜の空白が何やら恐ろしくなるのだが、大酒飲んだ割りには頭は五月の青空みたいに蟠りなく晴れ渡っているし、軀もレジストリをクリーンアップしたハードディスクみたいに軽く、且つ、ひどくのどが渇いているので俺は駅のセブンイレブンで角ハイボールのロング缶を買い、腰に手を当てて半分ほど飲み干した。

 朝酒は甘美だ。

 許されない恋の口づけがあんなにも甘く、蕩けてしまうのは、罪悪感という小粋なスパイスが効いているからだ。

 朝酒もそう。これが通学や通勤の時間帯であれば、その目には見えない一匙で角はジョニーウォーカーいや、ロンガンにグレードアップされるはずなのに、なとど戯けたことを想いながら、向島から入ってくる始発のフェリーをぼんやりと観ていた。   

「タミオ」

 背後から聴こえたきたその声は、絶対にこの世では聴こえてくるはずのない声。だけど、俺がこの二十三年、もう一度だけでも聴くことができたら、理不尽な要求や法外な言い値でも受け入れたいと想い続けた声。

 俺は恐る恐る振り向くと、一生分の運と奇跡と偶然がここに集結したかのように、夢ですら逢えなかった女がそこに立っているのだ。それも、年を取らず、ポニーテイルとピンクのルージュと強気な眼光と奈々と寸分違わない甘い体臭で!

「な、奈々じゃなかった加奈ちゃん!」

「何?ウチの名前忘れるくらいあの子に夢中なん?」

「アホ。違うわ。お前ら二人似すぎじゃけん、どっちがどっちかやいこしいんじゃってどしたん?加奈ちゃん」

「『どしたん?』って、冷たい男じゃなぁ。もうちぃと喜んでぇや」

「ごめん」

 栗鼠のように頬を膨らませてこれ見よがしに拗ねる加奈子を抱き寄せ、男らしくというよりも母親の愛情に飢えた男の子のように甘ったれ、しなだれるように唇を重ねた。百の言い訳よりも感触があった方がいい。尤も、加奈子はハイボールの味がすると怒るかもしれないが…

「加奈ちゃん…」

「タミオ…」

「加奈ちゃん…相変わらず、かわええで」

「タミオ…こすいくらい変わってない」

 まるで神話の伊弉諾と伊弉冉みたいに愛おしく名前を呼びあう。

 死んでいる、乃至は、ここは本当はこの世ではない場所なのかもしれないとは言え、人妻だった人だ。実際、俺と加奈子は決してプラトニックな恋をしていたわけではないが、その罪悪感は二十三年ぶりに交わした口づけを快楽と情念と吐息と蜜と口紅を煮込んだ官能的なスープのような悩ましい味に変えるのだ。

「ごめん。ワシ、ホンマに気持ちが変わらんのんよ。軀はなんべんも裏切っとるくせに、心だけはずっと加奈ちゃんなんよ。別に信じてくれんでもええけど」

「うん。知っとる。ウチもじゃもん」

 キョウジュには死んでも聴かせられない台詞。

 両想いを確信した喜びもそこそこに加奈子は俺の目を見据えて続ける。

「でも、奈々はタミオに惚れとるんよ。ウチの娘をどうする気なん?」

「え?」

「え?じゃないんよ。あれだけ思わせぶりして、知らんって言うつもりなん?いつまでウチに似とるけぇって言い訳をするつもりなん?」

 加奈子は全てお見通しだった。

 思わせぶりをしたつもりはない。奈々に泣かれたとき、会話が途切れたとき、義晴に誤解されたとき、ああするしかなかったし、あれ以外の選択肢は俺のメソッドにはない。ただ、それは奈々の心を俺で満たすように誘導する悪魔のマジシャンズセレクトでもあったわけだ。それは故意ではない。故意ではないが、無邪気であるだけ悪質と言えるかもしれない。

「タミオの気持ちはどうなん?」

「そりゃキョウジュと加奈ちゃんの娘じゃし…」

「そんなん訊いてない。本気じゃったらウチは今度こそタミオのこと諦めることができるんじゃけ、タミオも奈々にウチの幻影を見るんじゃのうて、奈々のことを本気で好きになってあげてほしいんよ。母親としてあの子には何もしてあげられんかったけぇ、これはウチからの一生の、いや。最後のお願い」

「加奈ちゃんはそれでホンマにええん?」

「うん」 

 覚悟を決めた「うん」だった。そうなると是非もないことだ。俺も力強く頷いた。

「ウチな、あの日、花嫁衣裳のままタミオと一緒に上海に逃げとったら、幸せになれとったって、生きとった時も死んでからもずっと後悔したけど、そうじゃなかったってやっとわかったんよ」

 加奈子は、執着も思念も全て尾道水道の底に棄て、沈めてきたような晴れ晴れとした黄金ともいえる表情で続けた。

「ウチはウチの想いを奈々に託すところまでがウチの運命じゃったんよ」

 どこか俺の諦観に近いものがあったが、加奈子がその境地に至れたことを俺は淋しくも喜ばしく思った。

「奈々ちゃんも加奈ちゃんくらいハッキリものをゆうてくれたら楽なんじゃけどのう」

「まぁ、そこは総ちゃんの血じゃけ、こらえて(許して)あげて」

 結ばれなかった二人はまるで結ばれた二人であるかのように満たされた気持ちで笑った。

「タミオ。最後にもう一回抱いて」

「それはお願い?」

「何を調子に乗っとるんね?命令に決まっとるじゃろうがね」

 それが本当の別離であるのに、二人はまだ結ばれた二人であるかのように笑っていた。

 

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