第14話

 食後のカプチーノと洋梨のソルベを楽しかった時間の余韻とともに味わっていると、義晴は硬い表情になって、少し発音しにくそうな声で「なぁ、兄さん。これは吉川さんとも相談したことなんじゃけど」と切り出した。

「どしたん?」

「兄さん…」

「怒らんけぇ、ゆうてみ。それとも、奈々ちゃんがおったら言いにくいことか?」

「いや。大事な話じゃけど、おってもろうても構わん」

 奈々には優しい視線を送り、少し酸欠だったのか、一呼吸ついた。

「兄さん。一緒に働く気はないか?」

「何?」

「この店はワシと吉川さんで拵えたもんじゃけど、兄さんの夢でもあったじゃろ?兄さんじゃったら、交渉事が上手いし、語学やワインにも強いけぇ、是非と思うとるんよ」

「それに一応、上海やバンコクで飲食経営しとったけぇの」

「おう!どんぴしゃじゃ!」

 多感な時期に親のいない苦楽を共にした弟からこんな願ってもないことをしかも、向こうから切り出されて、本来なら小躍りして、場にいる全員にキスでもして、天国が降ってきたような、幸福が満ち溢れた気分で感謝を述べ、快諾するだろう。

 しかし、なぜかピンとこないのだ。嬉しくないわけないのに、心の騒めきとかうわつきのようなものが何もなく、極めて冷静だ。

「吉川さんは同意しとるんか?」

「勿論じゃ」

「じゃけどの、ここはお前の城じゃ。ワシは客人に過ぎん」

「兄さん。あんた何を言うとるん?客人じゃのうて身内じゃろ?」

「そうじゃ。身内じゃけん、為にならんってゆうとるんよ」

「わからんな」

「ええか?義晴。ワシは条件吊り上げようとしてわざと綾つけとるんじゃなぁで。何の貢献もしてないワシが『オーナーの兄貴です。以後、ヨロシク』ゆうて横入りしてみぃや、この店は秩序が乱れる。組織が成り立たんようになる。それぐらいのことがわからんお前じゃなかろうが」

「じゃけ、吉川さんは同意の上じゃって」

「吉川さん以外の従業員の方はどう思うんじゃろの?」

「それは…」

 義晴は言葉に詰まった。

 或いは、何か気付きがあったのかもしれない。

 中国でもタイでも同族経営の怠慢と醜態を散々、見てきた俺は「じいちゃんのタンシチューを復活させる」ことと「義晴とビジネスをする」ことは全く別のものとして考えてきたし、義晴が広島では影響力を持ち、誰もが知る有名人だとしても、そのアドヴァンスに頼ったり、利用したりする気もない。弟はあくまで弟なのだ。冷たいと思われるかもしれないが…

「なんぼワシが店に尽くしたところで、鳴り物入りのワシとワシを採用したお前に対する反発がいよいよ強うなって、派閥ができる。悲しいが、人間そんなもんじゃ。そうなったら、吉川さんでもよう調整できんようになる。そうなったらこの店はどうなる?みなまで言わすなや」

 諭しながらも、瘦せ我慢がなかったわけではなかったが、この店に対する吉川の身を粉にした無私の心意気に触れると、俺一人の身の振り方とを天秤にかければどっちが重いかなんて明らかだ。

「人は財産じゃ。お前には身を預けてついてきてくれる人を大事にする義務があるで」

「兄さん」

「タンシチュー。ホンマは二人で作りたかったのう。じゃけど、楽しい夢じゃった」

 俺は何か強い酒が飲みたくなったが、甘いカプチーノを口に含んで、「これでよかったのだ」と頭の中で三回呟いた。

 義晴は何か大きなものを諦めたようなもの悲しさと清々しさが入り混じった表情で「生きて兄さんに会えただけでも幸せじゃというのに、ちいと欲張ってしもうたわ」と自嘲した。

 いや。欲張りなんかではない。情のある身内として当然のことだ。 

 ただ俺は、私利私欲で弟の世界を修羅や空虚にしたくないから、偉そうに兄貴面しただけなのだ。褒められる謂れはないし、批評の対象にもならないだろう。

 ただ気になるのは、奈々が言葉もなく、ぼんやりと俺を見詰めていることだ。

 おっとりしたお嬢様育ちのこの子が時々、違う世界に行ってしまうことは今日一日でよくわかったことだが、戸田恵梨香を彷彿とさせるあの意志の強い目で見詰められると、たじろいでしまいそうになる。何より加奈子を思い出してしまう。

「奈々ちゃん。どしたん?」

 俺が覗き込むと「タミオさん!」とオクターブ上の声で驚いた。元々声か低いのでそれでもソプラノまで行かず、アルトだ。

「ごめん。話、退屈じゃった?」 

「あのう、タミオさんなんか、えーと、つまりですね…」

 赤くなって不自然に慌てだした奈々を見て、「兄さん。結婚式にはちゃんと呼んでぇや。うちの嫁や息子も連れていくけぇ」とアシストし、また絶好のタイミングで吉川が入室してきた。

「藤井惣一郎先生がお見えです。奈々さんをお迎えに来たそうです」

「え?おじいちゃまが?」

「あ。惣一郎先生も贔屓にしてくれとるんよ。ホンマありがたいわ。奈々ちゃん。よう御礼ゆうといてな」

 正直、ワインを飲んでしまった車で来た奈々をどうやって尾道まで連れて帰るか、代車呼ぶのも変な感じだしと食事中、一瞬、思案したが、広島県会議員藤井惣一郎先生がおでましとあらば、悪い虫もつかず、もう何も心配あるまい。多分、吉川が気を利かせて連絡してくれたのだろう。

「よぉ!タミオ君。生きとったか!こないだはクルン飲みそびれたそうじゃのう。いつでも御馳走するけん、また遊びにきんさいや。のう。ガハハハ」

 長身に筋骨隆々の軀に紺のダブルのスーツを纏い、まるで石原慎太郎から知性を取り、豪胆さをマシマシにしたようなこの議員先生がいると場が一気に明るく賑やかになる。しかし、このパワフルで剛毅な親父さんと陽気で変わり者のお袋さんからどうやったらキョウジュのような大人しい秀才肌が生まれてくるのか?きっと、尾道七不思議の一つとして語られているに違いない。

「奈々を連れに来たんじゃが、まだ早い時間じゃけん、飲んでいくか。義晴君。ドンペリのピンク持ってきてつかいや。奈々もタミオ君もご相伴しなさい」

「あれ?惣一郎先生。お車では?」

「ええんよ。あとで秘書に取りに来さすけん」

「おじいちゃま。飲みすぎはいけんよ」

「おいおい。『飲みすぎはいけん』って岸田君が国会で決めたんか?まったく、あ奴はロクなもんじゃない。ワシがようゆうて聞かせてやらんといけんのう。ガハハハ」

 この人ならば、一介の県会議員でありながら、一国の総理に意見するくらいのこと本当にするだろうなと思うと「親父さん。ワシも是非、援護射撃やらしてください」などとついつい軽口を叩いてしまう。

 意外なゲストの参入で兄弟水入らずの時間は去ったが、少し気まずくなっていた空気が一掃され、奈々以外の花が何輪も咲いたように明るく、華やかで、発展的な空気がこの場を支配した。

 

 

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