第13話

 さっきの達川さんの推薦通り、高級な紅茶のよう色合いのコンソメスープは、肉と野菜、特に玉ねぎの甘さがストレートに来るタイプで、具沢山の家庭で作る濁ったタイプのとは異なる。多分、少量シェリー酒を隠し味に使っている。このへんの味のアドヴァイスは吉川によるものだろう。

 スターターのエビとトマトの冷菜とマッシュポテトは店で余るとよく食卓に上っていたので懐かしい。よく冷えたシャブリの白と合う。

「どう?兄さん。これ懐かしい味じゃろ?」

「お前、トマト嫌いじゃったけぇ、ようワシの茶碗に乗せようたろうが」

「その代わり、兄さんのグリンピースはワシが食べてあげとったんで」

「アホ。あんな豆、食いもんじゃなぁわ」

「あはは。『三つ子の魂百まで』じゃのう」

 義晴が呆れたように片頬に笑窪を作って笑うと、「なんか兄弟漫才聞いとるみたい」と奈々も釣られて笑った。

「ホンマに奈々ちゃんは、ガキみとうな兄貴のどこがえかったん?尾道ゆうても若い男の子はえっと(沢山)おるじゃろうに」

「それは…」

「全部って言え、全部」

 俺は奈々の恋人でもないくせに、なんか一寸、悔しいので、冗談っぽく促したが、内気な奈々には少し無茶ぶりが過ぎると思って、咳払いひとつして、「いや。実は、ワシの一目惚れなんよ。四十過ぎると、若い子の柔肌に飢えるけぇのう」と心にもないことで咄嗟に取り繕った。奈々を見ると、当然、そんな答えは用意していなかったようで、一難去った後のように軽く深呼吸をした。

「ふーん。要は、兄さんは果報者というわけじゃな」

「うん。逆じゃったら、面白いんじゃけどのう」

「そろそろ、赤に換えますか?タンシチュー出来立てですよ」

「そうじゃね。吉川さん。お願いできる?あ。ワインは折角じゃけん、九十八年のにしょう。ブルゴーニュでええのあったかな?」

「承知です」

 吉川は絶好の頃合いで義晴に声をかけると、去り際、俺の肩をポンと叩いた。その手はものすごく暖かく、俺が奈々を庇ったことを見透かし、「ちゃんとわかってますよ」というメッセージを込めた男の義務を全うしたことを称えるような父親的な強さと親しさを感じた。

「九十八年ゆうたらフランスワインの当たり年じゃ。義晴。流石じゃのう」

 俺はこれまたじいちゃんの得意料理だった鱸のムニエルを咀嚼しながら、「惜しいのう。九十八年じゃったら、ボルドーなら尚ええのに」と少し意地の悪いことを思いながら、義晴を褒めた。

「いや。取材してくれたお礼に奈々ちゃんと同い年のワインを出そうと思うたんよ。兄さんこそ、なんでヴィンテージに詳しいん?」

「アルザスのワイナリーで三年働いとったけん、厭でも覚えるわ」

「無理矢理覚えさせられた系?でも、すごいじゃない?うちもそろそろソムリエ雇わんといけんって話しとるんよ。吉川さんに負担掛かりすぎとるけぇな」

「私はいいのですが、この頃ではワインにお詳しいお客様も随分と増えましたから」

 吉川が謙遜の笑みを浮かべ、九十八年物のセリエ・ド・ラ・クロワ・ブランシュのレベルを見せて、義晴のワイングラスにそのワインレッドというよりも煉瓦の色に近い液体を注ぎ、義晴は一口舐め、「滑らかでふくよか。ベリー系も少々。奈々ちゃんも好きになるはずじゃ」と頷いた。

「パリのビストロで飲んだことあるけど、流石に九十八年産じゃなかったわ。これそこそこ高いんじゃなぁんか?」

「まぁ、再会を祝したワシの気持ちじゃ。やいこしいことは抜きにして、機嫌よう飲んどき」

「おいおい。取材のお礼じゃゆうてなかったか?よいよ調子がええのう」

 一斉に笑いが起きる。

 まるで離散した一家が失った時を一気に取り戻すように、俺は皆を笑わそうとしている。そんなことをしなくても義晴と吉川が合作で復活させたじいちゃんの料理で十分に笑顔になっているというのに、愚兄はあくまで道化者でなくてはならないという強迫観念みたいなものが俺の中にあった。それに、こんな軽口でも叩いていないと、懐かしいじいちゃんの味に泣いてしまうそうだ。

 奈々はその隙に抜け目なくライカを取り出して、ワインとタンシチューの写真を角度を変えながら何枚か撮っていた。このへんの勤勉さは大雑把で楽天的な加奈子よりもキョウジュの血筋を感じる。

「さぁ、うちの一押しのタンシチューじゃ。兄さん。ええおっさんが泣くなよ」

「アホ。泣くか」

 とは言ったものの、一口匙を運ぶと、昔の味にずっと堪えていた涙が一気に溢れた。

 そう。じいちゃんの味、昔の味。

 昭和生まれならばわかってもらえることだと思うが、ラーメンでもカレーでもパンでも野菜でもいわゆる、平成令和ではない子供の頃食べていた味というものがあるが、俺にとってタンシチューは寸分違わずこの味であり、それ以外のものは「タンシチュー風」なのである。柔らかく煮込まれたタンはほどよい脂分があり、口の中でほどけ、それを追いかけようとしてワインを欲する。しかも、合わせるのは添加物だらけの安ワインではない。マリアージュはエクセレントの上をいく言葉が欲しいくらいだ。

「タミオ。男の子が何泣きよううんなら。シチューくらいで」

 確かに、俺の頭上でコック服を着たじいちゃんが温かく笑いながら叱ったような気がした。

「兄さん…兄さん」

「おう。今、じいちゃんに『泣くな』ゆうて怒られたところじゃ。しかし、お前、ようここまで完全に再現させたのう」

「二人で約束したじゃろ。つらいこととか淋しいことがあったら『大人になったら、じいちゃんのタンシチューを復活させよう』って」

「それだけじゃ説明がつかんど。吉川さんにも手柄を分けてやれや」

「バレた?」

 義晴は苦笑しながら吉川のほうを見たが、「私はほんの手ほどきをしただけです。義晴さんの努力と情熱が勝ったんですよ」とあくまで黒子に徹する。

「でも、これ、隠し味が一つだけわからんのじゃけど」

 奈々が首を傾げ、遠慮がちに言った。

「あれじゃね」

「あれですね」

「あれって何なん?」

「そりゃ、門外不出よ。なぁ、吉川さん」

「はい。こればっかりわ」

 俺に知る権利があるとはいえ、ここにたどり着くまでの苦労を思えば、「奈々ちゃんが知りたがっとるじゃろ」とは言えなかった。

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