第12話


 社長室というか、応接室は、デスクワークをする事務室を兼ねていて、雑居ビルの一室でありながら、深い木の匂いが漂っている。

 フローリングはウィスキーの樽を思わせるラワン材だが、壁は幾何学模様のようなデザインで、現役時代の13番のユニフォームと沢村賞の賞状やトロフィ、同期の新井監督や東出コーチとスリーショットの写真が飾られている。デスクには長澤まさみによく似た女性が満面の笑みで二人の腕白そうな男の子を両腕に抱えている写真。おそらく、まだ見ぬ義妹と二人の甥っ子だろう。時は確実に流れている。

 奈々のことを理路整然と説明すると、怪奇現象に種と仕掛けがあったことがわかったように、「吉川さん。大丈夫じゃ。えらいことではあるけどのう」と鷹揚なオーナーの顔に戻って平静を装った。

「ははは。総司さんの娘の奈々ちゃんか。カープに入る前に挨拶に行ったときに抱っこしてやったん覚えとるか?」

「はぁ…写真は残っとるんですが…」

「あれは九十九年じゃけん無理もなぁわの。じゃけど、兄さんはなんで奈々ちゃんを連れとるん?まさかそういうことなん?」

「こんなはよいよ慌てもんじゃのう。娘ぐらい年が違おうが」

「おかしゅうはなぁで。似合うとるが。兄さんと加奈子さんは真夏の空に太陽が二つある感じじゃったが、二人は夜空に星と月じゃ。なんか秘め事みたいでええ感じじゃ」

 義晴の美しき誤解が解ける前に、その惰性な空気が変わってしまう前に、例の件を切り出してみることにした。

「実はのう、奈々ちゃんは尾道のタウン誌の編集をやっとるんじゃけど、今度、『秋冬の広島おススメデートコース』ゆう特集を組むんよ。ほいで、義晴の店が取材出来たらええなぁって、朝からずっと言いよるんじゃけど…」

「取材?別にええよ。将来のお姉さんの頼みは断れんじゃろ」

 食事中にお醤油を取ってもらうかご飯をよそってもらうかくらい簡単に願いが聞き入られたことに俺はそうでもないが、奈々はまだ奇跡が起こったことを信じられず、動作が固まっている。

「条件は一つだけ。うちは著名人の贔屓筋が多いけん、客の顔は撮らんでほしいんよ。それでえかったら取材受けるけど、食事の前にやってしまうか?」

 著名人が多いというのは確かなようで、先ほどの達川さんの他に、ローカルタレントの西田篤史さんがカープの菊池選手と談笑しているし、奥の方のボックス席では世界チャンプの竹原慎二がジムの若手を引き連れてワイワイやっている。平日の早い時間でこれなので、週末ともなると、もっと華やかになるのだろう。

 奈々は、お礼も言わず、いまだに目をぱちくりさせているので。俺は奈々の目の前で手のひらをヒラヒラ動かせながら「奈々ちゃん。取材オッケイじゃと。聞いとる?」と気付くまで繰り返した。


 インタビュアーとしての奈々の仕事ぶりも見事だが、現役時代のヒーローインタビューや引退後のメディアの露出で慣れているせいか、義晴の受け答えも堂々と且つ、ユーモア交じりで、カープを去るときの失望感やオープン当初の苦労話さえも闊達な活字になりそうな勢いがあった。

 奈々がカウンター越しにポーズを決める義晴を数枚写真に収めると、「奈々ちゃん。こんなもんでええかな?」と白い歯を見せた。

「ありがとうございます。なんかもう、夢みたいです」

「かわいいだけじゃのうて、仕事もできるんじゃね。料理のレポートと写真もしっかり頼むで。吉川さん。そろそろ料理を」

「承知しました」

 俺はさっきから義晴の影になり日向になり、機敏に働くこの初老の男になぜかなつかしさと親しみを感じていた。きっと縁のある人物に違いない。曖昧な記憶の糸を手繰り寄せてみるが、どうも思い出せない。白黒はっきりしないと気持ちが悪い性分の俺はすぐに質問を投げる。

「あのう。吉川さんとはどっかで会うたことがあるような気がするんじゃけど、もしかしたら若い頃、うちにおられませんでしたか?」

 すると、あまり私情を出さない吉川が福耳を真っ赤にし、襟元を正し、張りのあるバリトンボイスで腹に力を入れて言った。

「タミオさん。よく覚えておいでで。おじい様の下で見習いのコックをやっておりました吉川でございます。お二人ともご立派になられて」

「え?そうなん?」

 かすかな記憶のある俺よりも義晴のほうが素っ頓狂な声を上げて驚いた。

「オーナーが十八年前にカープを辞められて、おじい様の店を復活させると聞いて、居ても立ってもいれなくなって、南青山のフレンチレストランを畳んで、馳せ参じました」

 万感胸に迫る想いがあるのか、吉川の頬には一筋の涙が伝わっている。それでじいちゃんに対する想いとこの店に対する想いが千言万語を尽くすよりも伝わる。

「吉川さん。なんでそんな大事なことを今まで…」

「恩返しは黙ってするものです。それに、私が身分を明かしたら、オーナー、義晴さんは、遠慮をなさる。滅私奉公する人間に遠慮や情は要りませんから」

「そうか。それでじいちゃんのレシピのフランス語を解読できたんか」

 難解な謎が解け、吉川の無私の高潔さを知り、今度は俺が驚く番だった。言葉は悪いが野球しか知らない義晴がどうやってじいちゃんの料理を覚え、再現させたのか?「努力」や「気合」だけではどうにもならなかったはずだ。吉川という諸葛亮の智慧と尽力なくして、今日の義晴の成功はない。

「すいません。ここを去るまで明かすつもりはなかったのですが…」

 そうだった。顔の長い眼鏡のお兄ちゃんにはよく遊んでもらったし、失敗した焼きリンゴやカスタードプリンを隠れて食わしてくれた。義晴は物心の付く前だったので、覚えているはずもない。

「私のことはこれくらいにして、食事にしましょう」

 吉川はばつが悪そうに片目を瞑って、キッチンへ踵を返した。 

 

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