第2話
チャゲこと中谷公則とは中学まで学区が違ったが、チャゲアスの熱狂的ファンとして地元では不良やアスリートとは別枠で目立っていたので、言葉は交わしたことはなかったがよく知っていた。
三国志の関羽を思わせる赤ら顔に大相撲の安美錦関のような善人面を張り付けた福相に警戒心を持つ者はいなく、持ち前の弁舌でどんな人間とも良好な関係を築くことから、やんちゃな俺やクールなキョウジュにチャゲが加わってトリオになると、化学反応を起こした。ビートルズにクラプトンが加わったようなものだ。俺たちのバンドが高校生でありながら岩国のベースキャンプや広島のアシベや福山のダニーボーイのレギュラーになれたのや当時NHKBSでやっていたヤングバトルに出れたのはチャゲの営業力と人間力のおかげと言ってもいい。
久保の新開の路地裏にあるチャゲの店は元々は、平成の初めごろまでご両親が雀荘を経営していたが、しまなみの頃に麻雀人口の低下を理由に観光客向けの街中華に商売替えをしたが、ほどなく親父さんが亡くなり、横浜中華街の重慶飯店で料理人修行をしていたチャゲが呼び戻されたというわけだ。
家督を継いだチャゲは、一躍有名になった尾道ラーメンだけではなく、女性向けの梅とシラスのチャーハンや横浜で覚えたエビマヨや海鮮おこげや夫婦肺片といった当時の尾道では珍しかった本格中華を出す店として駅から離れているにも関わらず、親父さんが戯れで出したような店を押しも押されぬ大繁盛店へと成長させた。近頃では、「チャゲアスファンの聖地」としてガイドブックにまで載るようになった。
新開は元は遊郭街だっただけあって、海と坂と映画の街という尾道の爽やかなイメージにはあまりそぐわない妖しげな雰囲気だが、美味しい瀬戸のお魚で一杯やった後はここいらのいぶし銀のバーやスナックで一丁仕上げたい中高年のおっさんは多いだろう。ただ、歌舞伎町や野毛や宗右衛門町と同様、昼は深海のように眠っている。行き交う人もまばらだ。
俺は本通りから石畳の路地を海のほうへ南に下り、さらにクラウンの看板を右に折れて「万里の河」の赤い看板の前に立つ。この前来たのはまだ親父さんが中華鍋を振っていたころだ。チャゲの味は知らない。
平日のお昼二時前で並びが出てるのは尾道ではつたふじかここくらいだ。
俺は構わず、入り口の間に顔だけ出して、「おーい!チャゲ!」と厨房に聞こえるくらいの声で叫んだ。店内はチャゲアスの『恋人はワイン色』が流れている。赤ら顔の生え際がМ字に禿げかかった短髪の中肉中背のおっさんが麺を湯切りしながらチャゲさんのパートをハモっている。
変わらない。
聴こえていないようなので「チャゲ。タミオじゃ。金髪拝ましちゃるど!」と腹から声を出したら、今度はさすがに気付いたようで、俺のほうを見ると、まるで死人を見るような眼で「タミオ…」と言ったきり凍り付いた。無理もない。二十三年行方知らずだったのだ。死んだと思われても文句は言えない。亀井から俺に関する情報は耳にしていたとしても、幽霊を見たような思いだろう。
「お前、ホンマに生きとったんか?」
「アホ。人間、そう簡単に死にゃぁせんど。それより腹減ったわ。なんか作てぇや」
「そりゃええけど、ちゃんと並べぇや。後ろのお嬢さんがた怒とってで」
チャゲが顎をしゃくると、俺の前で順番待ちをしていた観光客っぽいOLの二人組が舌打ちをしている。俺は大人しく並ぶことにした。
十分ほど待ってカウンター席が空いたので、バイトの若いお姉ちゃんにビールとチャーシューと「チャーシューを薄く切らないように」伝えると、「ワシはそがなケチじゃなぁで」とチャゲが小さく怒鳴った。チャゲがそんな器量の狭い男ではないことは知っているが、慣れというものは恐ろしいものだ。
俺は一寸、すまない思いでビールをコップに注ぎ、一気に飲み干した。ビールはキリンしか置かない。相変わらず、物の価値がよくわかっている。気持ち厚めに切ったチャーシューは香港式の炭火焼きだ。横浜帰りは伊達や酔狂ではない。
「おう。あれはワシの嫁よ。すずちゃんゆうんよ。別嬪じゃろうが」
「え?」
どう見ても地方の女子中学生にしか見えない。フィギュアスケートの本田望結を少しふっくらさせて、田舎臭くした感じで、素直で身持ちのよさそうな子だ。
「チャゲ、犯罪はいけん。親父さんが草場の陰で泣いとってど」
「アホ。一応、二十歳よ。あいつ、すずちゃんのう、ワシの味に惚れてのう。こがなおっさんでも人生で初めてモテたわ。生きてみるもんじゃのう」
それが自慢したかったようで、ニヤニヤしながら、すずちゃんに黄色い歯を見せて、幇間のように俺にビールを注いだ。
「しかし、タミオ。今まで何しとったんなら?亀さんから色々話は聞いたけど全然、付いていけんわ。まぁ、キョウジュと加奈ちゃんのことがあれで尾道から出ていったんじゃろうけど…」
加奈子の名に俺は、悪行をスクリーンに総天然色で見せられているような身を切り刻まれているような気分になった。
「で、キョウジュはなんしょーん?」
「瀬戸田の中学校で音楽の先生よ。時々、尾道市大で非常勤講師もやっとるんよ。まぁ、ワシらの中で音楽でめしが食えとるんはキョウジュだけよ。あれはできと育ちが違うけぇのう」
「ほいじゃぁ、加奈ちゃんは?」
と、問いかけると同時に「チャゲさん。持ち帰りで広東焼きそば。キクラゲ抜きで。急いでね」という声が重なった。その声には聞き覚えはないが、顔を見たとき、俺は三秒ほど心臓が止まった。
「加奈ちゃん!」
ポニーテールを切ったのはきっと俺のせいだ。
俺を不思議そうに見つめる切れ長の目と焦げ茶色の瞳。紛れもなく加奈子だ。しかし、あの鈴が転がるような聴き心地の良い声は鳴りを潜め、くぐもり、少し皺の刻まれた低音だ。ドラマの『流星の絆』で初めて戸田恵梨香を見たとき、俺は「声の低い加奈子」だと思ったが、目の前の加奈子はまるで十余年前の戸田恵梨香だ。
ややこしい。
しかし、俺と同い年の加奈子が二十三年経ってもこんなきめの細かい白肌の小娘でいれるものだろうか?それに、俺が加奈子の幻影を見た戸田恵梨香は、近年すっかり痩せぎすになって見る影もない。
ならば、この娘は一体誰だ?
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