尾道スロウレイン

野田詠月

第1話

 長い旅だった。

 二十三年だから、人生だと短すぎるが、旅もしくは、一人の女と寄り添う時間ならば、他人から羨まれ、憎まれるほど長すぎる年月だろう。

 俺がいない二十三年の間に尾道は、しまなみ海道を車や自転車を使って四国と行き来できるようになり、それを機に県内では広島市と比肩するほどの観光地になり、尾道ラーメンは全国に誇れるブランドとなり、野球小僧だった弟の義晴は、猛練習の甲斐あって、甲子園こそ逃したものの尾道東高校からドラフト三位でカープに入団し、ルーキーイヤーに十三勝、二年目に十勝、肩を壊し引退した最終年ですら八勝をあげ、その針の穴をも通すコントロールと精度の高い変化球から「北別府学の再来」とまで言われた。

 ということを知ったのは全て旅先。それも他人の口を通してだ。

 遮断されていた故郷は、どこか遠い国のお伽噺を聴いているようであったが、俺はそれを棄ててしまおうとか忘れてしまいたいだなんて思ったことは一度だってなかったので、情緒たっぷりにそれを誇り、不思議と東京にも香港にもバンコクにもパリにもニューヨークにもコンプレックスを感じたことはなかった。ゲストハウス龍のねどこの亀井に至っては、俺のそんな故郷自慢を聴いて、尾道に移住してきたくらいだ。実家に帰りずらい俺は外国人ゲストの面倒を見るという条件でそこの個室をあてがってもらっているが、このご時世なのでそんな物好きは半年に一組も来ない。亀井の粋な計らいだ。正に近くの親より遠くの何とやらという奴だ。

 今尚、世界中で猛威を振るっているコロナがなければ、俺は尾道に帰ることはなかったかもしれない。

 SARSの時は、バンコクのスクンビットのソイ奥でお好み焼き屋を経営していたが、現地はあまり緊張感がなく、売り上げも変わらず、至って暢気なものだったが、今回、フリーペーパーの編集員として滞在していた台湾では問題が発覚し、大きくなる一か月も前に大陸との往来が禁止になったので、これは人民解放軍が攻めてくるのではないか、或いは、大陸で何かとんでもない疫病が蔓延しているのではないか、と噂で持ち切りになった。

 その時俺は「中国人になど殺されたくない。死ぬのなら尾道で自分の意志で死にたい」と思い、夏の暑さ以外は何の不満もない満たされた台湾での生活を断腸の思いで終わらせ、二十三年ぶりに故郷に戻ることになった。

 事実、日本行きの飛行機は二月末から飛んでいないし、臨時便のエア代も常識外れだ。もう一週間、決断が遅かったら、俺は現代の阿倍仲麻呂になるところだった。月を見て、望郷の念を募らせ涙する、阿倍仲麻呂に。

  

 俺の昼寝スポットだった千光寺グランドは現在、俺の母校土堂小学校の仮校舎が建っているが、逆にお留守になった土堂小学校が絶好の昼寝スポットだ。東校舎の屋上なんて日当たり良好。おまけに音楽の時間にもなると、千光寺方面から児童の吹くリコーダーが聴こえてくれば、もう半分夢の中だ。

 ルクプルの『ひだまりの詩』か。

 二十三年経てば、時のヒット曲も文部省や日教組のお眼鏡にかなえば、小学校の音楽の教科書に載るようになる。もっとも、十代の頃の俺はそんな音楽は唾棄すべきものと考えていたが、なぜか全身全霊でメロディが沁みてくる。

 想えば、俺はこの曲がヒットしていた頃、尾道を離れたんだった。

 俺と加奈子とキョウジュ。

 今の能力をもってして、あの頃に戻ることができたら、きっと誰も傷つかない算段を提案することができるだろう。

 しかし、俺はあまりにも中途半端な独善者だった。俺さえいなくなれば、五月の青空のように俺に真昼の明るさと美しさを教えてくれる加奈子と俺とガキの頃から何をするのも一緒だったキョウジュは幸せになれる。だが、あの頃の俺に残されたものの気持ちなんて理解できなかった。優しい加奈子と神経質なキョウジュが俺の心の痛みを理解できなかったわけがなく、あれからずっと俺に負い目を感じながら生きているとすれば、それは徳を装った劫だ。

 そんなほろ苦い昔へと一瞬で誘ってくれる曲だ。

 涙が溢れ、青空と尾道水道の青い海が滲む。

 あの頃には帰れない。

 恋も若さも去ってしまった。

 そして、人生は黄昏時へと進む。

「タミオさん。またここでしたか?いい加減、通報されますよ」

 淀みのない標準語。だが、東京の人間でありながら尾道で唯一、よそ者扱いされない男であり、俺とはラオスの安宿いらいの仲の亀井があきれて果てても端正な顔で上から俺を見下ろしている。

「ワシの母校じゃけん、出入り自由じゃ」 

「知らないんですか?尼崎の事件以来、どこの小学校も外部の人間には神経質なんですよ。まぁ、そういう僕もときどき来てますけどね。下の階段なんて映画の『ふたり』に出てきますもんね」

「大林のおっちゃん。ヘビースモーカーじゃったけど、ええひとじゃった」

「タミオさん。会ったことあるんですか?」

「この辺で撮影ゆうたら、偉そうにディレクターチェアーにふんぞり返ってタバコばぁ吸いよるんよ。で、ワシが『監督。一本頂戴や』ゆうたらニャッと笑ろうてのう」

「あれ?タミオさん、タバコお嫌いでしたよね?」

「十代の頃にやめたんよ」

 ロックバンドやったり、バイク乗ったりしていた俺は当然、十代の頃は粋がってリベラマイルドなんか吸っていたが、加奈子に「タバコ吸う人は嫌い」と言われていらい、俺の周囲ではちょっとした禁煙ブームになったものだ。禁煙に成功した俺とキョウジュが加奈子を賭けて競ったのは自然の流れだった。もっとも、そんなこと亀井が知る由もない。苦い青春だ。

「あ。そうじゃ、亀井君。腹減らんか?」

「鍋に昨夜のアコウの煮つけ残ってますよ。煮凝りできてて美味いですよ」

「昼から酒飲みとうなるけぇ、ええわ。チャゲんとこでラーメンでもすすってくる」

「金持ってます?」

「エロ本でも渡しとくわ」

 いくら俺に恩義を感じているとはいえ、部屋と飯だけでなく、酒や金まで用意させるわけにはいかないので、俺はそんな冗談とも本気ともつかないことを言って、亀井を笑わせ、「ほいじゃぁのう」と言って亀井の肩をポンと叩き、軽快に階段を下った。

 勘のいい亀井のことだ。

 涙の跡には気づいただろう。

 鼻の頭がツンと痛い。


 

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