第3話
BGMがリズミカルな『DoYADo』から『SayYes』に替わる。
偶々だと思うが、演出だとしたらできすぎだ。
加奈子でも戸田恵梨香でもないその娘は首をかしげて、目をぱちくりさせて所在なさそうに苦笑している。その仕草は見紛うことなく加奈子そのものなのに、望まれていない邂逅のように、怯えと小さな拒絶を感じるのはなぜだろう?
「加奈ちゃん」
俺は確証の持てない心許ない声でもう一回言った。
するとカウンターの一番端の席で巨体を揺らしながら盥のような器に入った中華丼をかきこんでいた昔、巨人にいた槙原投手を横に拡大させたような男が「こりゃ傑作じゃ!」と破顔し、笑い袋が堰を切ったように豪快に笑いはじめた。
酒屋の茶谷先輩だ。
柔道部の主将で「尾道の山下泰裕」と呼ばれていたますらおだ。確か、高校卒業後は自衛隊に入隊していたはずだ。
「茶谷先輩!お久しぶりです」
「がははははは。おう。『加奈ちゃん』はえかったのう。その子は、奈々ちゃんゆうてキョウジュと加奈ちゃんの娘で。ほうかほうか。タミオは浦島太郎じゃけんなんも知らんのんよのう」
「え?あなたがタミオさん?」
「キョウジュと加奈ちゃんの娘?」
「藤井奈々です。市の観光課でタウン誌の編集を担当してます。パパ、いえ、父はお酒を飲むとタミオさんの話ばぁしょうるんですよ。『あいつしか親友がおらんのにかわいそうなことした』ゆうて、しまいには泣きよるんですよ。ええおっさんが」
奈々は頬を赤らめ、自嘲するように鼻を鳴らした。
キョウジュに加奈子そっくりの娘がいること、キョウジュが家では「パパ」と呼ばれていること、キョウジュが俺のことをまだ親友と呼んでいてくれること、キョウジュが酒を飲むと俺のことを思い出し、泣いていること。
相も変わらず、泣き虫のキョウジュ。
俺だってこの二十三年、キョウジュや加奈子のことを考えなかった日なんて一日もないが、押し寄せてきた現実は想像したものを大きく超越している。もう、これ以上のことを知るのは危険とすら思える。
身軽さが信条の俺は、少しでも危険を感じると人であれ、場所であれ、さっさと逃げ出す。二十三年にも及ぶ海外生活を生き抜けた基盤は、俺の商才や語学力や順応能力よりもそこにあると思う。
しかし、キョウジュと加奈子の娘に背を向けることがどうしてできようか?
寧ろ、それはこれから受け入れていかなければいけない現実と運命。
「はい。奈々ちゃん。広東焼きそばきくらげ抜きお待ち!大根餅と杏仁豆腐はサーヴィスじゃけな」
言葉が続かいない俺の放送事故に場違いなチャゲの明るい声。
チャゲから焼きそばの入った折りを受け取る奈々の細い右手の手首にはルキアの腕時計。キョウジュと同じ左利きなのか。そういえば、勿体ぶったくぐもった声もキョウジュの特徴だった。外見が加奈子で、内面がキョウジュってわけか。血は争えない。
奈々はレジでペイペイで代金を支払い、すずちゃんと二言三言、先週食べたスイーツの話をにこやかに話し、「タミオさん。家にも顔出してくださいね。父も喜びますし、会いたがっとったですよ」と半分は社交辞令、半分はキョウジュの代弁をし、ちょこんと頭を下げて去った。
たった五分やそこらの出来事だったが、今のは何だったんだ?
俺は、神隠しにでも遭って、いきなり二十三年後の世界にでも連れ去られてしまったのだろうか?
「こりゃ、説明が必要みたいじゃのう」
「二曹殿。そのようでありますね」
チャゲが茶谷先輩を自衛隊の階級で呼ぶと、食後の熱いプーアル茶を飲みながら茶谷先輩が神父様か大僧正のような厳粛で慈愛を秘めた表情で切り出した。
「タミオが知っとるんは、キョウジュと加奈ちゃんが結婚したとこまでよのう?」
「はい」
忘れるわけがない。式の前夜に絶望の涙があふれるままに春雨舞う尾道駅を発ち、翌日には神戸から上海行の船に乗っていた。
「その一年後にさっきの奈々ちゃんが生まれるわけじゃけど、加奈ちゃんが臨月の時に体調が急変してのう。キョウジュは『子供はまた作れるけど、加奈ちゃんは一人しかおらん』って加奈ちゃんを守ろうとしたんじゃけど、加奈ちゃんは『産む』ゆうて、ホンマに命懸けじゃったんよのう」
悪い予感しかしないが、俺は黙って聞くしか術がない。
「奈々ちゃんを産んで三日後に…」
茶谷先輩が目を伏せると、チャゲが首を振り、「それ以上は言わせるな」と鋭い視線を送ってきた。
「幸い、あれの家は裕福じゃけん、物資的には苦労してないじゃろうけど、なんよのう、かわいそうよのう。キョウジュも奈々ちゃんも」
それに比べて俺なんぞは、当初は失恋の痛みを癒すことが大義名分だったが、足掛け二十三年も世界中を転々とし、気の向くままに旅したり、商売したり、現地の女にも惚れてみたりしていただけの極楽とんぼだ。加奈子がもうこの世にはいないという苛酷な現実よりも、その間にキョウジュが味わい尽くした孤独と悲哀と苦悩を思うと、俺は居ても立ってもいられなくなった。
「加奈ちゃんの墓はどこにあるんです?」
「筒井先生のとこじゃ。場所はお前のほうがよう知っとろうが」
祖父を亡くしたほとんど同時期に親父が失踪し、お袋が別の男に走って途方に暮れるしかなかった俺たち兄弟を離れに住まわしてくれ、生活を面倒見てくれた恩人であり、恩師でもある筒井先生の寺は海岸通りにあった祖父の洋食屋よりも尾道における俺の居場所であり、本来なら最初に戻るべき場所であった。
加奈子はそこに眠っている。
俺は「ウチの心にはタミオしか住んでないけぇ。タミオにしか抱かれとうないんじゃけぇ」とキョウジュの切迫した想いを伝え、説得する俺を拒み、俺の胸で宝石のような涙を流した加奈子を思い出し、胸が切なくなった。
「説明はこれくらいにして、ビジネスの話をしょうか」
茶谷先輩は、急に媚び諂う商人の顔になって、おどけるように両手を広げた。
「タミオ。ボジョレー買うてぇや。十本とは言わん。五本でええけぇ」
「は?」
「ワシんとこの酒屋、赤字続きじゃけぇ、去年からコンビニにしたんよ。ほしたら、本部からのノルマがきつうてのう。助けてくれぇや」
「あんなまずいワイン、生産者であるフランス人がバカにしてますよ」
俺は、三年ほどアルザス地方のワイナリーで働いていたので、ボジョレーのような若くて、味のないワインをありがたがる日本人の舌が理解できなかったが、なるほど。商戦として、無理矢理に売り買いしないといけないのか。日本らしいな。
「ホンマに、恵方巻にクリスマスケーキに鰻にボジョレー。催事さえなかったらええ人なんですけどね、二曹殿は」
チャゲも毎度、いくらか買わされているようだ。
「そこのポプラじゃけん、予約待っとるけぇの」
どこでだって、生きていくのは大変だ。
俺はぬるくなたビールを飲み干し、茶谷先輩にパンフレットをもらった。
そんな俺の心を知ってか知らずか、マルチマックスの『勇気の言葉』が過去から逃げがちだった俺の背中を押している。
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