第十六話 閃き

 奈々子の住むマンションは五階建てで、彼女の部屋は五階にある。最近建てられたものらしく、外観も中も西洋風でとても綺麗だった。


 リビングの壁際には大きな本棚が置かれてあり、数多くの本が並べられていた。小説もあるが、『心理』や『精神』の文字が入ったタイトルの本が多数を占めている。学術書というのか、専門書というのか、どれも分厚い本だった。恐らく、光陽みつひろが読んでも、書いてあることの半分も理解できないだろう。


 光陽の目を通して妹の部屋を見た真由美は、相変わらず綺麗に整理整頓してるわねと感想を述べた。確かに、奈々子の部屋はモデルルームのように清潔感があった。真由美と同じように綺麗好きなのだろう。


 光陽がお洒落なファブリックのソファに座っているあいだ、奈々子はキッチンでコーヒーを淹れてくれていた。手動のコーヒーミルで豆を挽く奈々子の姿は、なかなか格好いい。湯気の立つコーヒーカップをテーブルの上に置くと、奈々子は光陽の斜向かいに座った。

 光陽は早速一口飲んでみる。


「うん。これは旨い。お店で飲むコーヒーより美味しいよ」

 光陽は率直な感想を述べた。

「ありがとうございます。でも、それは言い過ぎかも」

 奈々子はそう返したが、満更でもないという表情である。

「いや、ほんとだよ。俺は自分では淹れないけど、味にはうるさいからね」

「じゃあ、信用することにします」


 光陽は本棚に視線を移す。

「それにしても、難解そうな本が多いね。俺の部屋にくることのない本ばかりだ」

「精神科医になっても、日々勉強には変わりないですから。心の弱っている人に少しでも寄り添えられるようにっていう心構えで読んでいます」

「努力家なんだね。奈々子ちゃんみたいな精神科医がいれば、患者さんも、その家族も安心だ」

「ひとりでも多くの人にそう思ってもらえるように、精進します」


 奈々子と話しながら、本棚を眺めていると、一冊の本が目に留まった。

『魂と肉体』というタイトルの本。

 心臓の鼓動が、どっくんと高鳴った。真由美も同じ気持ちだっただろう。


「ねえ、あの『魂と肉体』ってどんな本なの?」

 光陽が指差した先を、奈々子が目で追う。

「ああ……あれは、オカルト的なことが書かれている本です。死んだあと魂はどこへ行くのかとか、肉体と魂は二つで一つなのかそうではないのか、とか……。その手の話に興味があるんですか?」

「いや、興味があるってわけではないんだけど……奈々子ちゃんは、魂っていう抽象的なものを信じてるの?」


 奈々子は少し考えた風な顔になる。


「ううん、難しいところですね……。テレビ番組とかで、前世の記憶を持ったまま生まれてきたっていう人が出てくることありますよね」

「ああ、いるね」

「あの人たちの言っていることが本当か嘘なのかはわかりませんけど、興味は惹かれますね。魂は滅びることなく生き続ける、そんなことがあってもおかしくはないのかなと」

「そうなんだ……」

「でも、神秘的なものって、触れないままの方がいいと思うんです。言い方が難しいですけど、実際に目の前で『私には前世の記憶がある』とか、『死者の声が聞こえる』とか言われたら、途端に胡散臭くなりますよね。そんな感じです」


 奈々子の言い分はよく理解できた。

 さっき、光陽たちが置かれている状況を誰にも話さないと真由美と約束したが、もし奈々子がオカルト的な話を信じると言っていたなら、真由美の制止を振り切って真実を話していたかもしれない。

 だが、やはり真由美の言ったとおりだ。こんな常軌を逸した話は誰にも受け入れてもらえない。


「魂の話をしていて、一つ思い出したことがあります。先輩から聞いた話ですけど、亡くなった奥さんの声が聞こえるという患者さんがいたみたいなんです。今、妻がこう言っているとか、生きていた時にはこういうことを考えていたとか、ずっと話しかけてくると。頭上を見上げるようにして会話をするらしいんですけど、その時の表情が凄く穏やかだというんです。喜びに満ちたような顔だと。真偽はわかりませんけど、私はその話を聞いて、その男性は奥さんのことを心から愛してたんだなって思いました。心が疲弊するまで誰かを想うのは、治さなければいけませんけど、そこまで愛してくれる人がいるというのは、羨ましいという気持ちもあります」

「ひとりの女性として、羨ましいと?」

「はい」

「昨日彼氏はいないって言ってたけど、デートに誘ってくる男はいないの?」

「残念ながらいません。大学生の時は、言い寄ってくる男の人は何人かいたんですけどね。今じゃ全然です。大学生の時、男性の誘いを全部断って勉強一筋だったから、その報いがきたのかもしれませんね」


 奈々子が言い終わると、真由美の大きな溜息が聞こえてきた。


 ――報いだなんて大袈裟ね。ねえ光陽、奈々子に何か言ってあげて。あなたならいつでも彼氏を作れるわよって。

「報いだなんて大袈裟だよ。昨日も言ったけどさ、いずれ素敵な人が現れるよ。俺が真由美と付き合い始めたのは二十三歳の時だけど、それまでの四年間はひとりの状態だったから。四、五年恋人がいないと、次に付き合う人はそれだけ大事な人になる可能性が高くなると思うから、本当に次の相手が運命の人になるかもね」


 奈々子は、光陽の目を、覗き込むようにじっと見つめた。


「お姉ちゃんと出会った時、運命の人だって感じがしました?」

「したよ。真由美を初めて見た時、身体中に電気が走ったもん」

「ふふ。お姉ちゃんも同じこと言ってましたよ」

「奈々子ちゃんもいつか、そういう人に出会えるよ。あれだな、今は見る目のある男が周りにいないんだよ」

 光陽がそう言うと、奈々子は少し寂しそうに笑った。


 午後五時の時報が鳴り響いたあと、また一緒に真由美のお見舞いに行く約束をして光陽は奈々子の部屋を出た。


 帰りの車中――。


「真由美の言ったとおりだな。さっき奈々子ちゃんと話しててわかったよ。やっぱり、俺たちの状態を話しても、誰も信用してくれないんだなって」

 ――ええ。悲しいけど、普通の人には理解してもらえない。

「普通の人……」

 光陽は反芻する。その変哲の無い言葉が、なぜか胸に引っ掛かった。


 普通の人には理解してもらえない。

 では、普通の人ではなかったら?

 常人とは違う思考の人間なら、光陽の言うことを信用してくれる?


「なあ真由美。普通の人じゃなかったら、俺の話を信じてくれるかな?」

 ――普通の人じゃなかったらって……それ、どういう人?

「俺の中に、自分以外の人間の魂が入っていると言っても、笑わない人のことだよ。話を真剣に聞いてくれる人」


 しばらくの沈黙。


 ――そんな人がいるの?

「ああ。たとえば、霊媒師とか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る