第十五話 苦悩

 約束の時間の十分前に待ち合わせ場所に着くと、すでに奈々子はそこに立っていた。白いセーターに淡い青のフレアスカートという恰好。光陽みつひろは路肩に車を停めてクラクションを鳴らした。気づいた奈々子が会釈して近寄ってくる。光陽は助手席のドアを開けた。


「こんにちは光陽さん」

「こんにちは奈々子ちゃん」


 光陽は病院に向かって再び車を走らせ始めた。

 病院に着くまでのあいだ、ふたりの会話はほとんど真由美に関することだった。途中、光陽たちが挙式をする予定のレストラン前を通りかかった。

 挙式をする予定だった、とは言いたくない。たとえその日が延期されても、必ず真由美とあの場所で式を挙げる。そういう思いだった。

 奈々子がレストランの方に視線を向けた。


「あのレストランですよね。結婚式を挙げるところって」

「そうだよ。海も見えるし、綺麗なところだろう」

「はい。素敵な場所ですね。――事故の話はされたんですか?」

「うん。真由美の容態のことも話してあるけど、挙式の日程はそのままにしてもらってるんだ。真由美がその日までに目を覚まさなかったとしても、いつかあそこで式を挙げるつもりだよ」

「お姉ちゃんも、今必死で戦っていると思います。――お姉ちゃん、悔しいだろうな。心配を掛けることが大嫌いだったから、誰よりも早く目覚めたいと思っているはずなんです。でも、ずっと眠ったまま。脳には異常なしという結果が出ているのに、何が原因なんだろう」


 奈々子は独り言のようにして言葉を継いでいた。

 何と言葉を返せばいいのか、光陽にはわからなかった。真由美の声も聞こえてこなかった。


 病室には真由美の母親がいた。最後に会った時よりも、少し頬が扱けているようにも見えた。

 真由美の肉体は、最後に見た時と同じか、それ以上に肌に艶があるように光陽の目には映った。魂が入っていない肉体なのに、生気が満ち溢れている。真由美の言っていたとおり、魂と肉体はそれぞれ独立しているということなのだろうか。


 仮にそれが真実なのであれば、真由美と光陽にとっては幸運だと言えた。心臓が動いているうちは、真由美の肉体が朽ちることはないのだから。


 光陽は以前と同じように、真由美の手をずっと握っていた。優しく握ったり、少し力を入れて握ったり、手の甲や手の平を擦ってみたり、色々と工夫して刺激を与えてみた。だが真由美の表情に変化は起こらない。光陽の中にいる真由美も溜息を吐いていた。

 光陽のその行動が健気に映ったのだろう。奈々子は哀切の表情でふたりを見ていた。


 一時間ほどして病院を出た。奈々子に誘われて、近くの喫茶店で昼食を取ることに。光陽はピザトーストとコーラを、奈々子はパニーニとサラダとマウンテンコーヒーを注文した。真由美が喫茶店でよく注文する品と同じだった。光陽はそのことを奈々子に言った。


「姉妹って、そういうところまで似るのかな? 俺は一人っ子だからよくわからないんだけど」

「私は子供の時からお姉ちゃんが大好きだったから、何でも真似してたんですよ。着る物も観る物も、そして食べる物も。煙たがられていたかもしれませんけど、そのおかげで嫌いだった人参やピーマンが食べられるようになったんですよね。そんなことをずっと続けていたからなのかどうかはわかりませんけど、今では意識しなくても、同じシャンプーや香水を使っていたりするんです」

「ふうん、そうなんだ。初耳だな。初耳だから、煙たがってはいなかったと思うよ」

「お姉ちゃん、もともと愚痴とか言わないタイプですからね。光陽さんにも、仕事の愚痴とか言わないですよね?」

「うん。ほとんど聞いたことないね。人の悪口も言わないからね、真由美は。そういうところが一番好きなんだ」

「あれ、私、今、惚気られてますか?」

「うん」

 ふたりとも声を出して笑った。 

「私、そういう人の悪口を言わないところも、お姉ちゃんの真似をしていたんです。私は小さい時から誰々がむかつくとか、お母さんうるさいとか、しょっちゅう文句や悪口を言っていたんですけど、お姉ちゃんはそういうことを一切言わなかったから、いつの間にか私も、そういう性格になっていったんです。それで人の痛みがわかるようになってきて、ほんの少しだけ人の気持ちがわかるようになってきて、現在に至るというわけです」

「なるほど」


 光陽は合点がいった。どうりで真由美と奈々子は仕草や趣向が似ているわけだ。


「じゃあ、真由美から、俺に関する愚痴なんかも聞いてないんだ?」

「全く。光陽さんのことで聞かされるのは、最初から最後まで惚気話だけです」

 ――私があなたの悪口なんか言うわけないでしょう。まして妹に話すなんてありえないわ。

 真由美の声音はちょっと怒っていた。


 ふたりが注文した料理が運ばれてきた。しばらくのあいだ黙って料理を口に運ぶ。食後のコーヒーを飲み始めた奈々子が、先ほどの話を続ける。


「さっきの話ですけど、愚痴を全く言わないというのは、時として精神衛生上あまりよくない面もあるんですよね。愚痴を言わない人って、ストレスを溜めやすい人が多いんです。仕事の愚痴や人の悪口を積極的に話せというわけではないですけど、たまには思っていることをぶちまけた方がいい時もあるんですよ」

「泣きたい時は泣けってやつ?」

「はい」

「真由美は我慢強いからね。カラオケとかで、適度にストレス発散はしてるはずだけど……」

 同意を求めるような言い方をしたが、真由美の声は聞こえてこなかった。


 そんな風に、奈々子と会話をしていると、ふとある思いが脳裏を過ぎった。


 奈々子に真実を話したら、どんな顔をするだろう。


 お姉ちゃんの魂は俺の中にいるんだと言ったら、どんな言葉を返すだろう。普通の精神科医だったら、いや、職業に関わらず、苦笑いするか哀れな目で見るかのいずれかだろう。少なくとも、身を乗り出して彼の話を真剣に聞く人間なんていない。


 そもそも、信じてもらおうにも、証明する手段がないのだ。X線検査で真由美の魂が写るわけでもないし、真由美の声を聞かせられるわけでもない。


 そこまで考えたところで、一つの思いが生まれた。

 たとえば、真由美と奈々子だけしか知らないエピソードがあって、それを光陽が話せば、少しは耳を傾けてもらえないだろうか……。


「ねえ、変なことを訊くけど、奈々子ちゃんと真由美だけしか知らないような話ってないかな?」

「私とお姉ちゃんだけが知っている話、ですか?」

「うん。特別な意味があって訊いてるわけじゃないんだけど、それだけ真由美にべったりくっついていたら、そういう話の一つや二つくらいあるのかなって思ってね」


 奈々子は頷き、視線を右斜め上に向けて考え始めた。その表情で、右手の人差し指を顎に当てている。考える時の仕種も真由美と同じだな、なんて思っていると、その真由美が話し掛けてきた。


 ――ねえ、光陽。ちょっとトイレに行ってもらっていい?

「ごめん。ちょっとトイレに行ってくるよ」


 過去を振り返っている奈々子に声をかけ、トイレに向かう。トイレには誰もいなかった。洗面台の鏡の前で、光陽は自分の顔を注視した。


「真由美、どうかしたのか?」

 ――光陽、もしかして、奈々子に≪このこと≫を言おうとしてない?

「……さっきの話からそう推測したのか?」

 ――ええ。

 光陽は鏡を見たまま首肯した。

「まず、俺の中に真由美の魂がいることを話す。そのあとで、真由美と奈々子ちゃんだけしか知らないエピソードを話してもらう。起承転結の起の部分だけを話してもらって、そのあとの展開を真由美に聞きながら俺が話せば、信じてくれるかもしれないって思ったんだ」


 真由美が返答するまで、しばし間が開いた。


 ――言わない方がいい。

「何で? 俺が変な目で見られるかもしれないから?」

 ――それもあるけど……それ以上に、言ってどうするの? 奈々子に限らず、誰かに話して解決の糸口になるんであれば話すべきだけど、何も進展しないと思う。仮に、この状態を奈々子が信じたとしても、ただ悲しませるだけだわ。無力な自分を責めるかもしれない。


 光陽は「その光景」を思い浮かべてみた。

 確かに、話すべきではないのかもしれない。助けてあげたくても助けられない。すぐそこにいるのに、何もしてあげられない。そんなもどかしさを、奈々子にまで背負わせる必要はない。真由美の言うとおりだった。


 ――もし、このことを誰かに話すとしたら、私が元通りになった時だけだと思う。

「そうだな。このままふたりで、この状況を打開するしかないよな」

 誰かが入ってきたので光陽はトイレを出て席に戻った。奈々子はコーヒーを飲み干していた。


「私とお姉ちゃんだけしか知らない話、記憶を辿ってみたら結構ありましたよ」

「へえ、そんなに。じゃあ、帰りの車の中で聞かせてもらおうかな」


 奈々子を自宅まで送ったあと、光陽はそのまま帰宅しようとしたのだが、コーヒーでも飲んでいきませんかと奈々子に誘われた。断る理由はなかったが、真由美がどう思うだろうかと考えた。そんな光陽の思考を読み取ったのか、妹相手に嫉妬なんかしないから飲んでいきなさいよ、という真由美の笑い声が聞こえてきた。光陽はその言葉に従うことにした。

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