第十四話 共同作業2

 復帰初日を無事に終えた光陽みつひろは、帰宅するとすぐにパソコンの前に座り、真由美の指示どおりに企画書を作成していった。


 真由美が作ろうとしているのは、手作りのドールハウスだった。動物の人形×人間の職業を掛け合わせたものがテーマとなっている。ハウス内にあるいくつかの凸部分に人形を差し込むと、その職業の特徴的な動きをするというもの。

 ドールハウスは様々な会社から発売されていて、オリジナリティを出すのはなかなか難しいのだが、真由美のアイデアは斬新に思えた。キーボードを打鍵する光陽の指も弾けていた。

 企画書を書き終えた光陽は感想を述べる。


「この玩具、凄くいいよ」

 ――ほんとに?

「ああ。文章を書いてて、凄く楽しかったもん。この玩具の企画は部長が通すと思うな」

 ――そうだったらいいな。

「ただ、一つネックだと思うところがある」

 ――それは何?

「このドールハウスの値段。動物の人形に特徴的な動きをさせるっていうアイデアは独特でいいと思うけど、その分価格が高くなりそうだなって」

 ――そうよね。問題はそこなのよね。企画が通ったとして、製作費用をいかに抑えるかが課題だと思う。

「人形を動かないようにしたら安く済むけど、それだと普通のドールハウスだし、難しいところだなぁ」

 ――時間をかければ、いい考えが浮かんでくるかもしれないけど、今はこれで精一杯。あとはチームのみんなに託すしかないわね。って、まだ企画が通ったわけじゃないけど。

「いや、この企画は絶対に通るよ」

 ――絶対?

「ああ、俺が保証する」

 ――よし。光陽がそこまで言うのなら安心だわ。


 時計に目が留まった。九時十分。

 光陽より先に真由美が声を発する。


 ――ええっ、もう九時回ってたの。

「俺も今知った。どうりで腹がグーグー鳴ると思った」

 ――ごめんなさい。

「謝らなくていいよ。楽しい作業だったから」

 光陽は笑いながら台所に向かった。

 ――何を食べるの?

「カップラーメン」

 ――ダメよ。もっとちゃんとした物を食べないと。

「だって面倒臭いんだもん。今から米研ぐ気しないし」

 ――私、一刻も早く自分の身体に戻りたい。あなたのためにも。

 真由美の大きな溜息が聞こえてきた。


 光陽はカップラーメンにお湯を注ぐと、待ち時間よりも早く食べ終えた。

 お腹が満たされると、少しムラムラしてくる。

 視線は、テレビ画面に映し出されている薄着の女に釘付けになっていた。

 そういえば、入院中、一度も自慰マスターベーションをしていなかったなと光陽は思った。入院中に自慰マスターベーションをしなかったのは、身体が痛かったこともあるが、真由美にそういう行為を見られるのがイヤだったからである。用を足しているところを見られるよりも、遥かに恥ずかしい。


 光陽がずっと女の姿ばかり目で追っていたからだろう。いやらしいという真由美の声が聞こえてきた。

「……さて、風呂に入るか」

 光陽はテレビを消して脱衣所に向かった。

 服を脱いでいると、真由美が突然、あっと声を上げた。

「どうしたの?」

 真由美は答えない。

「なあ、どうしたんだ?」

 ――さっき、何で光陽が女の人ばかり見ていたのかがわかったの。


 何と答えればいいのかわからなかったので、光陽はそのまま浴室に入った。

 真由美はずっと黙っていた。気まずい雰囲気だった。別に言ってしまっていいのだ。自慰マスターベーションのことを考えていたと。真由美とは、下ネタの話はほとんどしないが、これまでに何度もセックスしているわけだし、恥ずかしがるようなことではない。

 シャンプーと洗顔を済ませたあと、光陽は口を開いた。


「真由美の想像どおり、さっきは自慰マスターベーションのことを考えてたんだ」

 ――ずっと我慢してたの? 私があなたの身体に入り込んでから?

「……うん」

 ――私、そういうの疎いからよくわからないんだけど、我慢するのって辛いの?

「二日三日くらいじゃ別にどうってことないけど、二週間もやらないと、さすがにきついかな……」


 真由美はしばらく何も言わなかった。

 光陽は湿らせたタオルにボディソープをつけて、身体を洗い始めた。病院で何度も風呂に入っているうちに、なるべく性器を見ないようにして洗う癖がついていた。

 浴室を出て、寝巻きを着ている時、真由美が話し掛けてきた。


 ――私、気にしないから、していいよ。

「……いや、いいよ。今日は疲れたから、もう寝るよ」


 光陽は電気を消して布団の中に入った。

 暗闇の中で、真由美の声が響く。


 ――でも、ずっと我慢はできないでしょう?

「そうだな。ずっと我慢したことないからわからないけど、一生は無理だと思う」

 ――じゃあ、いつかは空気を抜かないといけないね。

「うん……」

 ――ねえ、そういうことをする時、そういうビデオとかを観るんでしょう?

「大抵の男は観るだろうな。真由美は、そういうものを観たくないだろ?」

 ――女でも観られる内容のものならいいけど、そういうのあんまり無さそう。

 確かに、と光陽は心の中で頷いた。

「まあ、もしやるなら、目を瞑ってするから大丈夫だよ」

 ――目を瞑ってもできるものなの?

「真由美のことを思いながらするよ」

 笑ってほしくて言ったのだが、真由美は何も返してこなかった。

 恥ずかしくなったので光陽は目を閉じた。

「おやすみ」

 ――うん。おやすみ。




 翌日。朝のミーティング後、真由美が作成した企画書を昨日見つけたと前置きして、部長に手渡した。

 部長は五枚のA4紙に真剣な目を向けていた。数分後、読み終わった部長は顔を綻ばせた。


「率直に言って、とても良いアイデアだと思うわ」

「ありがとうございます。……私がお礼を言うのも変な感じですが」

「こんなに面白い企画書なら、藤堂さんから直接受け取りたかったわ」

「真由美も、そこは悔しがっていると思います」

「ただ、この内容だと、費用が掛かりそうなのがネックね。子供向けだから、高額で売るわけにはいかない。そもそも、それだと製作の許可は下りないしね」

「そうですね。真由美もそう言ってました」

 光陽の言葉に、部長は首を傾げた。

「藤堂さんが? この企画書を見つけたのは昨日なのよね?」

「あ、えっと、はい、あの、大まかなアイデアは数週間前に聞かされていたので、その時にそのような話をしてたんです」

「ああ、なるほどね」

 

 部長ひとりで全て決められるわけでもないので、その場で即決というわけにはいかなかったが、部長の口ぶりから採用されるであろうという手応えは感じた。


 部長の元を離れたあと、光陽は自席には着かずにトイレへ向かった。男子トイレの中には誰もいなかった。光陽は便器の前に立ち小声で話しかける。


「あんな感じで良かった?」

 ――ええ。ほんとにありがとう。

「採用されそうな感じだったな」

 ――部長は賛成してくれると思う。あとは費用の問題をクリアできればね。

「チームのみんな次第ってところか」

 ――今の状態だと、私に妙案が浮かんでも、それを伝えることはできない。

「そうだな……。早く元の身体に――」


 背後で足音がしたので光陽は言葉を切った。顔を少し動かして見ると、橋本が立っていた。部署は違うが、同期なので、顔を合わせれば世間話くらいはする仲だ。橋本は、光陽を見て、きょとんとした顔をしていた。恐らく彼の「独り言」を聞いたからだろう。


「よお」

 何事もなかったかのように光陽は挨拶をした。

「お、おお」

 一呼吸置いて、橋本は光陽の隣に立った。


 橋本は便器から二歩下がって用を足すという変わったスタイルの持ち主だ。跳ね返った尿がズボンに掛かるのを防ぐためらしい。しかしそれだけ間を取っているので、陰茎はもろに視界に入る。見る気はさらさらないのだが、どうしても見えてしまう。この日もそうだった。


 瞬間、真由美の大音声だいおんじょうの悲鳴が聞こえてきた。

「うおっ!」

 光陽は思わず声を上げてしまった。

 視線を右に向けると、唖然とした表情で橋本が光陽を見ていた。

「いや、その……お前、大きいな。ははは」

 は? というような顔を橋本はしていた。

 光陽は逃げるようにしてトイレを出ると、ひそひそ声で真由美に話しかける。

「真由美、声を出すのはいいけど、大声は止めてくれ。心臓が止まるかと思った」

 ――だって、さっきのは……わかった。注意する。




 その日の夜、同じ班の六人が、光陽の復帰を祝って飲み会を開いてくれた。

 真由美のことがあるので、呑気に酒を飲んでいる場合ではないと思ったのだが、その真由美に勧められたので行くことにした。


 最初に注文した生ビールを飲んでいる時、そういえば酒を飲むのは久しぶりだなと光陽は思った。事故に遭う前日に飲んだのが最後か。


 真由美に肩の力を抜いて日常生活を送れと言われたが、やはりそれは無理な話で、どうすれば真由美を元に戻せるのかということを常に意識していた。数分なら集中できるが、完全に切り離して生活するなんてことは不可能なのだ。こうやって酒を飲んでいる時も例外ではなかった。どうすれば真由美の魂を肉体に戻せるのか……どんな些細なことでもいい、ヒントが欲しかった。


 着信音が鳴った。

 初めて聴く着信音だったので他人の携帯かと思ったが、誰も携帯を見ようともしない。それで自分の携帯が鳴っているのだとわかった。謎はすぐに氷解した。掛けてきたのは奈々子だった。先日、病院で奈々子に番号を教えてから、今日初めて掛かってきたのだ。光陽は席を外して電話に出た。


「はい、光陽だけど」

「こんばんは、奈々子です。お久しぶりです」

「ああ、久しぶりだね」

「今、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫だよ」

「明日はお仕事ですか?」

「ううん。休みだよ」

「明日お姉ちゃんのお見舞いに行くので、良かったら一緒にどうですか?」

「ああ、そうだね。じゃあ、迎えに行こうか?」

「いいんですか?」

「もちろん。何時に行く?」

「そうですね……今、居酒屋に居ますか?」

「えっ、何でわかるの?」

「わかりますよ。だって後ろから生中五杯とか、つくね二人前とか聞こえてきますもん」

「なるほど。さすが精神科医だね」

「職業は関係ないですよ」

 奈々子の笑い声が聞こえてきた。


 不意に光陽は罪悪感のようなものに包まれた。

「あ、今日居酒屋にきたのは、自分からみんなを誘ったわけじゃないんだ。復帰祝いということで、同じ班の人たちが場を作ってくれてね」

「大丈夫ですよ。光陽さんの声を聞いていたら、楽しめていないってわかりますから。でも光陽さん、お姉ちゃんのことばかり考えていたら、身体に悪いですよ。お姉ちゃんが私の立場でも、きっと同じことを言うと思います」

 ――正解。さすが私の妹。

「明日は、午後一時に待ち合わせということでどうでしょうか?」

「わかった。一時だね」


 待ち合わせ場所は奈々子の自宅近くにあるファーストフード店前に決まった。

 話している時、それにしてもと光陽は思った。それにしても、奈々子の声音は本当に真由美とそっくりだった。電話だと、顔が見えないから余計にそう思うのかもしれない。

「ほんとに、声がお姉ちゃんとそっくりだね」

「昔からよく言われます。一緒に実家に住んでいた頃は、よく悪戯をしてたんですよ。あ、この話、以前にしましたっけ?」

「うん。お母さんに何回も怒られたんだよね」

「はい。そうです」

 奈々子の後ろから、何か音が聞こえてきている。テレビだろうか。

「今、何してるの?」

「自宅でひとり寂しくお酒を飲んでます」


 奈々子に恋人がいないことは知っていた。大学の二回生の時を最後に、ずっといないらしい。特に深い意味があってのことではなく、仕事が忙しいのだろうと真由美は言っていた。


「ひとり寂しくっていう言い方をするってことは、恋人は欲しいのかな?」

「そうですね。欲しくないことはないですね」


 奈々子ちゃんならすぐに彼氏をつくれるよ。

 そんな軽口を叩こうかと思ったが、自重した。


「まあ、運命の人はどこかに必ずいるから、今は出会うのを楽しみに待っている時間だと思えばいいよ」 

「ロマンティックな言い方ですね」

「俺がロマンティストだって真由美から聞いてない?」

「えーっと、こういう場合、どう答えるのが最善なのかな」

 そう言って奈々子は笑った。


「先パーイ、いつまで電話してるんですかぁ。みんな待ってますよぉ」

 突然、後輩が背後から手を回してきた。こいつ、こんなに酒癖悪かったっけ。

「皆さん待ってるみたいですね。そろそろ切ります。また明日」

「ああ、ごめんね。また明日」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 光陽は電話を切って座敷に戻った。

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