第十三話 共同作業1

 雨がアスファルトを叩く音で目を覚ます。カーテンを開けると、篠突く雨が降っていた。

 光陽みつひろは上体を起こすと、大きく伸びをしてベッドを出た。テーブルの上に置いてあった煙草に目がいったが、手に取らずにそのまま洗面所に進んだ。


 ――煙草吸わないの?

「入院中、一回も吸わなかったからな。気づいたら、吸いたいと思わなくなってたんだよ」

 ――煙草を止めるいい機会なんじゃない。

「そうだな。いい機会かもな」


 光陽は顔を洗って食卓の椅子に座ると、昨日買っておいたパン二個とヨーグルトを食べ始めた。


 ――前は、そのくらいの量でも食べにくそうにしてたけど、あっという間に平らげたね。

「入院中、強制的に朝食を食べさせられ続けたからなあ。いつの間にか、朝起きたら食欲が湧く体質になってたよ」

 ――煙草も止めて朝食も取るようになったら、どんどん健康な身体になっていくわね。

「真由美のためにも健康体でいないといけないからな。……あ、もちろん、いつまでもこのままだからっていう意味じゃないぞ」

 ――ふふ。大丈夫。わかってるわ。


 出勤前の身支度をある程度整えた頃、腹がムズムズしてくる。光陽はトイレに入ると、パンツを下ろして用を足した。真由美が彼の一挙一動を見聞きしているとわかって以来、用を足す時、水を流したり目を瞑ったりしながらするようになった。しかし全てを見ないで済ませることは不可能に近いので、多少恥ずかしい部分を見せるのは仕方がなかった。そこはもう、割り切って生活するしかない。

 姿見を見ながらネクタイを締めていると、真由美が話し掛けてきた。


 ――今日はそのネクタイじゃなくて、他のネクタイにした方がいいんじゃない?

「何で?」

 ――復帰初日で、雨も降ってるし、その黒を基調としたネクタイは重々しい感じがするのよね。もうちょっと明るめのネクタイの方が良いと思う。


 言われてみれば、ちょっと重たいかなと、光陽は鏡を見ながら首肯した。

 箪笥から明るめのネクタイを取り出し、きっちりと締め終えると、背広を着てアパートを出た。

 駐車場の車に乗り込み、アクセルを踏む。

 今光陽が乗っているのは代車である。修理することもできたが、事故に遭った車は廃車にしていた。

 光陽の自宅から会社までは車で三十分くらいだが、雨の日は交通量が多くなっていつもより時間がかかる。案の定、今日もそうだった。


 ――混むわねえ。

「俺の中にいても、やっぱり渋滞はイライラするのか?」

 ――早く進みなさいよ、とは思う。

「つまり、イライラするんだろ?」

 ――うん。

 光陽が笑うと、真由美も笑った。


 ワイパーは忙しなく左右に動いている。前の車との間隔が開いたのでアクセルを強く踏もうとしたが、先の信号が赤に変わったので、ブレーキペダルを踏んだ。

 ――今日からまた忙しくなるわね。

「ああ……。自分が何をしていたか、さっきまで忘れてたよ」


 光陽は、小学校高学年を対象にした本や玩具を作る部署にいて、主任という立場。事故に遭う前は、新作の本を制作している途中だった。


 ――会社にいる時は、私のことは気にしないで、仕事に集中してね。

「それは無理だよ。逆の立場だったらどうだ?」

 ――無理だと思う。でも、光陽の足手まといになりたくないのよ。

 その言葉に抗議しようかと思ったが、真由美は話し続ける。

 ――これは、私が前向きに考えている証拠なのよ。私は必ず『復活』するって誓ったの。だから、その時に、あなたが私のことで頑張りすぎて、職場で気まずい思いをするようなことになってほしくないのよ。私には、本当にもう光陽しか頼る人がいないの。だから病院にいた時のように、起きているあいだじゅう私のことを考えてくれるのはとても嬉しいし心強いんだけど、これからはメリハリをつけてほしいの。仕事は仕事、私のことは私のことって。すごく難しいだろうけど、これは私が未来に希望を持っているからこそ言えることなのよ。


 濡れたフロントガラスを眺めながら、光陽はその話を聞いていた。

 信号が青に変わった。光陽はアクセルを踏む。

「言いたいことはわかるけど、それは難しいな。そんな簡単に慣れないよ。少なくとも、今日明日じゃ無理だ」

 ――じゃあ、なるべく早く慣れてほしい。

「ううん……」

 ――たとえば、一日じゅう私の魂を戻す方法を考えることが最善の策なら、私もそうしてほしいけど、この二週間、ずっと考えても答えは出なかったわけだから、一度肩の力を抜いた方がいいと思うのよ。どんな物事でも、力み過ぎたらいい結果は出ない。そうでしょう?

「うん……そうだな……。でも、それに慣れる前に、真由美の魂を元に戻せるよう頑張るよ」

 ――その言葉が聞けただけで嬉しいわ。


 光陽たちが勤める会社、八階建ての自社ビルが見えてきた。地下にある駐車場に車を停め、エレベーターに乗り込み五階のボタンを押す。真由美と話そうかと思ったが、途中で人が乗り込んできたので口を閉じたままにした。その状態で真由美が言った。


 ――それじゃあ、私はしばらく話し掛けないでおくね。仕事、頑張ってね。


 朝のミーティング後、光陽はみんなの前に立ち、千羽鶴や寄せ書きの色紙を貰ったお礼を言った。その場でも、みんなに温かい言葉をかけてもらったが、真由美がまだ目を覚まさないということもあってか、場の雰囲気はどことなく暗かった。


 久しぶりに自席に着くと、新鮮な気持ちが湧き上がってきた。デスクの上には、新作の本に載せる漫画や小説、試作品として作られた袋綴じなどが載せられている。

 それらを採用する、しないの最終的な判断は光陽の上司が下すが、主任である光陽の意見も尊重されるので、彼が納得すれば大体その案は通った。光陽は一つずつ手に取り、作品の表現に誤りや不備がないかを調べていく。


 久しぶりの仕事ということもあり、緊張感を持って仕事に取り組んでいたが、頭の中は真由美が大きく占めていた。どれだけ仕事に集中しようとしても、真由美の顔が頭から離れることはない。


 光陽の視線は、数メートル先にある真由美の席に向けられていた。主のいない席は、とても寂しげに見えた。事故に遭う前は、彼女の活き活きとした背中が見えていたのだが……。


 ふっと、こちらを向いて座っている新人の女性と目が合った。彼女は光陽と目が合うと、一度視線を外し振り返るような仕種をしたが、身体を少し動かしただけで、すぐに光陽に会釈して仕事に戻った。気まずい顔をしている。きっと、光陽が寂しい気持ちで婚約者の席を見ているのだと思ったのだろう。


 ――ほら、だから仕事に集中しないとダメだって言ったじゃない。


 突然真由美の声が聞こえてきても、もう驚くことはない。光陽はパソコンのキーボードを打鍵して、真由美とやりとりをする。


≪だからそんなにすぐは無理だって≫

 ――今プリントアウトした文章、誤字だらけだよ。

≪どこが?≫

 ――『成功する確立は』『天才は忘れた頃にやってくる』『自身を取り戻す方法』。普段の光陽なら、こんな間違いはしないわ。


 光陽は指摘された誤字を打ち直して再びプリントアウトした。

 ――ねえ、『天才は忘れた頃にやってくる』がそのままになってるわよ。

≪これはこういう企画なんだよ≫

 真由美の笑い声が聞こえた。

 ――なるほど。ねえ、そろそろ一休みしたら?


 時計に目をやると、針は十時三十分を指していた。光陽たちの会社は、休憩時間も昼食時間も各自が取りたい時に自由に取れるようになっている。自由な時間が増えるかどうかは、個人の能力次第である。


 光陽は自販機で缶コーヒーを買って休憩室に入った。社員の姿はまばら。光陽は誰も座っていない端にある長椅子に腰かけた。周りに聞こえないように、小声で真由美と会話をする。


 ――ねえ光陽、一つお願いがあるんだけど。

「何?」

 ――私が任されている企画が今、中断したままでしょう。このあいだ部長がお見舞いにきた時、ギリギリまで待つって言ってたけど、このままだと私抜きで企画が進行することになる。それは仕方ないんだけど、私のアイデアは採用してほしいと思ってるの。だから、私の考えた企画を、光陽に纏めてもらって、部長に渡してほしいのよ。

「え、部外者の俺が企画書を書くのか?」

 ――うん。

「俺にできることなら何でもするけど、部長にはどう説明するんだ?」

 ――すでに企画書は書いてあったっていう設定にすればいいわ。退院した光陽が、そのプリントアウトした企画書を見つけた、と。

「なるほどな」


 こんな時にも仕事のことを考えるなんて、真由美らしいと言えば真由美らしかった。ただ、打開策の見えない現状では、仕事のことを考えていた方が精神的には良いのかもしれない。


「わかった。帰ったら早速取り掛かろう」

 ――ありがとう。

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