第十二話 実行

 予定どおり、真由美の身体は一般病棟に移された。光陽みつひろの病室と同じ階だったのは好都合。昼食を素早く食べ終え、光陽は真由美の病室へと向かった。


 部屋のドアは開いていた。中を覗くと、看護師が機器を操作し、母親が真由美の手を擦っているのが見えた。

「お義母さん、こんにちは」

「こんにちは。どうぞ、入って」

 光陽は会釈して入室すると、真由美の母親と向かい合うようにしてベッド脇に腰を下ろした。

「どう? この子の顔色、また良くなってるように見えるわ」

「はい。俺の目にもそう見えます」

「光陽さんが手を握った効果が出てるのかもしれないわね」

「本当にそうなら、一日じゅう手を握ってますよ」

「お昼ご飯はもう食べた?」

「はい。早く真由美に会いたかったので胃に流し込みました」

「ダメよ。ちゃんと噛んで食べないと」

「それは真由美にもよく言われてます」

 真由美の母親は愉快そうに笑った。


 そんな風に真由美の母親と話していると、頭の中で真由美の思いが響いた。

 ――改めて、こうして自分の肉体を見ていると不思議な気分になるわ。魂の入っていない肉体って、抜け殻と同じはずでしょう。それなのに、この魂の入っていない私の肉体は、今にも目を覚ましそうなくらい生気が満ち溢れている。魂と肉体は二つで一つではなく、それぞれが独立したものだということなのかしら。こういう状況だと、そう考える方が自然よね。


 真由美の思いが聞こえなくなったあと、母親が立ち上がった。

「それじゃ、私は一度家に戻って用事を済ませてくるわ。四時くらいにまたくるけど、それまで真由美をお願いできるかしら。長い時間の面会もできるように病院の許可は取ってあるから」

「わかりました。任せてください」


 看護師と一緒に真由美の母親が部屋を出ていくと、光陽はすぐに真由美の手を両手で握った。

「本当に手を握った効果があるかもしれないから、もう一度握ってみよう」

 ――私も自分の肉体に戻ることを意識し続けてみるわ。


 ふたりの思いが一致した状態で二分、三分と時間が経過していく。


 ――うーん、ダメだわ。このあいだと同じで、戻れそうな気配みたいなのがないわ。

「全く?」

 ――ええ、全く。ねえ、次は頭や胸に手を当ててみて。魂のある場所って、そのどちらかって感じがするし。


 言われたとおり、光陽はまず頭に手を当ててみた。先ほどよりも長めに触っていたが、結果は同じだった。真由美は次に胸に手を当てるように促した。

「胸、触っていいのか?」

 そう訊ねると、真由美は少しだけ笑い声を上げた。

 ――どうしたの。数えきれないくらい触ってるでしょう。

「まあ、そうだけど」

 ――この肉体の持ち主の私が許可してるんだから触っていいのよ。

「了解」


 光陽は真由美の左胸に右手を当てた。一分ほど経って、もう少し強く胸を押してという声が聞こえてくる。

 光陽は頷き、胸に当てている手に少し力を籠めた。柔らかな感触が、右手に伝わってくる。こんな状況になる前の、楽しかった思い出がふっと脳裏を過ぎった。

 ――これも、ダメみたい。変化はなしね。

「手を当てるだけじゃダメってことか」

 ――どうやらそうみたいね。次は身体に抱き着いてみてくれない。

「大丈夫かな。頭部にダメージはないけど、身体は重傷を負ってるし」

 ――そっと覆いかぶさるように抱き着けば大丈夫よ。

「わかった。その前に、カーテンを引くよ。いくら婚約者相手とはいえ、意識不明の人間の身体に覆いかぶさってたら怖いからな」


 光陽はドアの外に誰の気配もしないことを確認したあと、ベッドの横にあるカーテンを引いた。これなら万が一誰かが入ってきても、すぐには見られない。


「それじゃ、抱き着くよ」

 ――お願い。


 身体全体で感じる真由美の温もり。あまり強く抱きしめると傷つけてしまいそうで怖かったので、本当にそっと抱くという感じだったが、十分に温かみが感じられた。同時に、愛おしいという感情が湧き上がってくる。

 真由美の両腕で、自分の身体も抱きしめてほしい。強くそう思った。

 

 五分ほど経っただろうか。真由美の溜息が聞こえてきた。

 ――はぁ……。この方法もダメみたい。あと思いつくのは、キスくらいね。

「そうだな。今のところ、それが思いつく最後の方法かな」

 ――歯磨きしてないから、口臭が気になるんだけどね。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 ――それはそうだけど、気になるものは仕方ないじゃない。

「何も飲み食いしてるわけじゃないから、口臭はしないと思うよ」

 ――そうだといいんだけど。

「それじゃ、キスするぞ」

 ――お願い。


 光陽は真由美の肩に手を置いて、口づけをした。自分の中にいる彼女の魂を吹き込むような感じで、長いあいだ唇を重ねていた。


 光陽としては、今までで一番、魂を戻せそうな可能性のある行動だと思ったのだが、キスをしている真由美の目は開かれず、再び脳内で彼女の声が響いた。


 ――ダメだわ。戻れない。

 どこまでも沈んでいきそうなほど、真由美の声は落胆していた。

 光陽は何か言葉を返そうと思ったが、適当な言葉が思い浮かばなかった。


 それからしばらくのあいだ、沈黙が室内を支配し続ける。




 今まで光陽は、この事態を楽観視していたきらいがある。彼だけじゃない。真由美もだ。やり方を変えていけば何とかなる、時間が経てば戻れる、そんな風に考えていた。自分たちの置かれている現状が非現実的すぎるから、窮地に立たされているという感覚が乏しかったのかもしれない。とりあえず、今歩いている道を進んでいけば何とかなるだろう。そんな思考。


 だが、手を繋いでもキスをしても時間がどれだけ経っても、真由美の魂が肉体に戻れる気配すらないとなると、さすがにその「何とかなるだろう」的な甘い考えを改めざるを得なかった。


 もし真由美が自分の肉体に戻れなかったら。


 初めて、そんな考えが頭に浮かんできた。

 このままずっと真由美との「共同生活」が続くとしたら……どうする?


 真由美は、光陽の身体を動かすことはできない。思案したり話したり、光陽の目と耳を通して何かを見聞きすることはできても、それ以外の行動を取れない。お腹も空かないし、眠くもならないかわりに、そこに自由はない。光陽が眠れば強制的に意識を切断される。目を瞑ることも耳を塞ぐこともできない。彼に縛られた生活しかできないのだ。


 いや、それは生活とは言えないだろう。

 この状態がずっと続くとしたら……それはとても恐ろしいことのように思えた。光陽の立場ではなく、真由美の立場から見ての話だ。光陽と真由美の立場は対等ではない。光陽は、多少の我慢をすれば、今までと同じように生活できる。好きな物を食べられるし、好きなだけ酒を飲める。行きたいところへ行けるし、望む物を見られる。今までどおり、自由だ。しかし真由美は何もできない。光陽に頼まなければ、何も見られないし、何も聞けない。自由は、どこにもない。


 気づくと、両腕に鳥肌が立っていた。


 どうすればいいのだろう。どうすれば真由美の魂は自分の肉体に戻れるのだろう。どんなに知能の高い科学者でも、今の光陽たちの状況を説明できないだろう。誰も説明できない状態なのに、果たして当人たちだけで解決できるのだろうか。もっと強大な力が必要なのではないか。人知を超えた力が。

 しかしその強大な力が何を指すのか、光陽には皆目見当がつかなかった。




 午後三時三十五分。真由美の母親が戻ってきた。光陽の顔を見た真由美の母親は首を傾げた。

「どうしたの、深刻な顔して?」

「いえ、ちょっと考え事をしてたんです」

「そう……。実はさっきね、知り合いの整形外科医に、顔の傷のことを相談したのよ。どのくらいまで元に戻せそうかって。写真はまだ見せてないけど、担当の医師から聞いた傷の状態をそのまま話してみたの」

「それで、その整形外科医は何と?」

「三ヵ所の傷の内、左頬と顎にできた傷は、完璧に近い形で修復できると思うと言っていたわ。口頭で伝えた傷の具合だから、絶対ではないかもしれないけど、希望は持っていいと思う」

「……最後の傷は?」

「おでこのところにできた傷が一番深くて、これは手術しても、ちょっと目立ってしまう可能性が高いと言っていたわ。でも、おでこだから、髪で隠すこともできるからね。この子は、前髪はいつも下ろしているでしょう。だから、目立たないようにはできるはずよ」


 その言葉を聞いても、光陽は素直には喜べなかった。完璧に近い形ということは、完璧ではないのだ。化粧や髪型で目立たなくすることは可能だろうが、傷は傷として残るわけだし、風呂上がりの鏡などで見る度に、きっとイヤな気持ちになるだろう。

 いや、今は顔の傷について考えている場合ではない。そもそもこのままだと、真由美に整形手術を受けさせることはできないのだから。


 整形の話をしている時、真由美は一度も話し掛けてはこなかった。どうやったら元に戻れるのか。きっとそれだけを考えていたのだと思う。


「あとはこの子が目を覚ましてくれるだけね」

 真由美の手を擦りながら母親が言った。






 それから光陽が退院するまでの約二週間、様々な方法で真由美の魂を肉体に戻そうと試みた。手の握り方を変えたり、キスをするところを変えてみたり、最後はふたりとも裸の状態で抱擁もしてみた。


 その全てが不発に終わった。一ミリの前進さえなかった。


 医師は言った。真由美の肉体はいつ目覚めてもおかしくないくらいに回復していると。それなのに昏睡状態から目覚めないことをとても心配していた。なぜ真由美が目覚めないのか、光陽はその理由を知っている。真由美の魂が、そこにないからだ。

 ふたりは途方に暮れた。




 退院を翌日に控えた夜の病室で、光陽は真由美と話し合っていた。

「肉体の方は回復してるんだから、そんなに落ち込む必要はないさ。もっと簡単なやり方で魂を戻せるのに、灯台下暗しというやつで、俺たちが気づいていないだけかもしれない。時間はあるんだ。魂を戻す方法を考え続けよう」

 ――うん……。


 真由美はすっかり弱気になっていた。しかしそれも当然だろう。解決の糸口すら見つけられていないのだから。

 正直なところ、光陽も弱気な気持ちに支配されそうになっていたが、こういう状況だからこそ自分が励まさなければいけないと自らを奮い立たせていた。真由美を助けられる人間は、自分しかいないのだから。


「俺たちの置かれた状況というのは、誰も彼もが体験することじゃないけど、前進し続ければ解決できるさ。出口のない迷路なんてないんだから。出口は、きっとどこかにあるよ」

 ――そうだよね……大丈夫だよね。

「ああ、悄気返しょげかえる必要なんてない」

 ――うん……。でも、光陽、明後日には職場復帰するから、あんまり時間取れなくなるんじゃない?

「何言ってるんだよ。俺が今一番やるべきことは、真由美の魂を元に戻すことだ。仕事に追われて時間が取れなくなるんだったら、俺は迷わず辞めるよ」

 ――ごめん。

「何で謝るんだよ」

 ――私、今頃になって事の重大さに気づいた。

「そうだな……。でも、この世に答えのないことなんてないと思うんだ。それがどんなに特殊な出来事でも。俺たちに課せられた難題の答えも、必ずどこかに存在してる。絶対にそれを見つけてみせる。だから真由美も前向きに考えてくれ。俺たち、ふたりで一つなんだからさ」

 ――そうね、光陽の言うとおりよね。元気が戻ってきたわ。ありがとう。

「暗くなってたら、運まで逃げちゃうからな」

 ――わかったわ。この状況を打破できるように、前向きに考える。

「よし。それでこそ俺の惚れた女だ」


 光陽が真由美に掛けた数々の言葉は、彼自身に言い聞かせた言葉でもあった。

 その日、眠りに落ちる間際、いつか真由美が言っていた言葉を思い出した。


『あなたの身体は、もうあなただけのものじゃないのよ』

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