第十一話 奈々子

 真由美の身体が一般病棟に移されるという朗報が届いたその日、光陽みつひろの元にふたりの女性が見舞いにやってきた。

 一人目は、光陽と真由美の上司である笹原部長。年齢は四十三歳だが、三十代前半といっても十分に通用する若々しい外見である。週に三回フィットネスジムに通っている賜物かもしれない。

 部長は、ふたりに対しての寄せ書きと千羽鶴を持ってきてくれた。光陽と意識の戻っていない真由美とに対してでは、色紙に書かれてある言葉には若干の違いがあったが、いずれも温かみのある言葉が並んでいた。その寄せ書きを見ながら、光陽は同僚や先輩後輩の顔を一人ずつ思い浮かべていた。


 入院生活や会社の話をしている時、部長は常に笑みを浮かべていた。光陽を励ますために、明るい表情で話すように努めている感じを受けた。

 そんな部長も、話題が真由美に及んだ時には表情を曇らせた。真由美が顔に傷を負ったことを知ると、下唇を噛んで悔しそうな顔になった。

 どんな姿になっても真由美は真由美です、一生愛し続けますよと光陽が笑顔で言うと、さすが私の見込んだ男だと、部長は光陽の背中を叩いた。部長としては軽くタッチしたつもりだったのだろうが、今の光陽の耐久力は幼子並みである。呻き声を上げて上体を丸める光陽の背中を、部長は申し訳なさそうに擦り続けた。


 部長が帰ろうとする頃、それまでほとんど無言だった真由美の声が聞こえてきた。

 今、自分がリーダーとして進めているプロジェクトは今後どうなるのかを訊いて欲しいということだった。

 そんなの今は気にすることではないだろうと思ったが、口に出すわけにもいかないので、彼女の願いどおり訊ねてみた。すると、期限まではまだ時間があるから、ギリギリまで待つつもりだと部長は答えた。その言葉を聞いて、真由美はほっとしたような息を吐いていた。今度の休みは藤堂さんの回復を祈りに神社に行ってくるわという言葉を残し、部長は帰っていった。


 次にやってきた見舞い客は、真由美の妹だった。三歳年下で、名前を奈々子という。髪型がショートということ以外は、姉と似たような容姿だった。特に鼻と唇の形は瓜二つと言ってもいい。身長も共に一六五センチで、細身の体型というのもそっくりだった。奈々子が真由美と同じように髪を伸ばしたら、本当に瓜二つになるかもしれない。

 パイプ椅子に座った奈々子と、光陽は向かい合う。

「身体の痛みは、大丈夫ですか?」

「目覚めた時に比べれば、ほんの少しマシになったかな」

「さっき、お姉ちゃんの様子を見てきました。手術直後に比べると、顔色は良くなっているように見えました。早く目覚めてほしいな。――あ、光陽さん、お姉ちゃんの顔の傷のことを気にしてるみたいですけど、大丈夫です。お姉ちゃんは強いから、きっと立ち直りますよ」

「できる限りのことはするよ。俺にできることなら、何でも」

「お姉ちゃんの側にいることが、一番の協力になると思います。光陽さんは知らないだろうけど、お姉ちゃん、ああ見えて結構寂しがり屋だから」

 ――ませたこと言って。

 真由美の笑い声が聞こえた。

「真由美が今の奈々子ちゃんの言葉を聞いたら、ませたこと言って、って言うだろうね」

 光陽は真由美の思いを代弁した。

「お姉ちゃん、いつまでも私を子供扱いするから」

「奈々子ちゃんが可愛いんだよ」

 光陽がそう言うと、奈々子は少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「この前、お姉ちゃんと、ちょっと口喧嘩したんです。喧嘩と言っても、私が一方的にお姉ちゃんに当たるだけのものでしたけど」

「喧嘩? 何で? 真由美からは何も聞いてないけど……」

「私が担当していた患者さんが、自殺をしようとしたんです。未遂で済みましたけど、それ以来、私は患者さんたちに信頼してもらってないのかなって考えるようになってしまって。そんなことを姉に話したら、怒られたんです。医師がそんな弱気でどうするんだって。もっと堂々としていないと、患者さんたちも不安になるって。お姉ちゃんの言い分は、頭ではわかってるんですけど、面と向かって言われたから凄く悔しくて……。私はお姉ちゃんみたいに強くないのよとか、実際に働いてみたらそんな余裕は持てないと言って八つ当たりしてしまったんです」

 そこまで話したところで、奈々子は自嘲気味の笑みをつくった。

「自分から相談があるって言ってお姉ちゃんを呼び出したのに、正論を言われて逆切れですからね。お姉ちゃんが私をいつまでも子供扱いするのも、仕方がないのかな……」


 奈々子はこことは違う総合病院で、精神科医として勤務している。仕事内容について詳しく聞いているわけではないが、患者とやりとりする際には細心の注意を払わないといけないのだろうな、というのは想像に難くない。


 ――私もちょっとはっきり言い過ぎたのよね。落ち込んでる妹に言うべき言葉ではないものもあったかもしれない。頑張ってほしくて、励ますつもりで言ったんだけど。

 真由美の声音は落ち込んでいた。

「真由美も、ちょっと言い過ぎたって言ってたよ」

 光陽はまた代弁した。

「え、お姉ちゃんがですか?」

「うん。落ち込んでる妹に言うべき台詞じゃなかったとか、まあ、そんなことをね」

「そうなんですか……。でも光陽さん、さっき喧嘩のことは何も聞いていないって言いませんでしたっけ?」

 そう指摘され、辻褄の合わないことに気づいて光陽は慌てた。

「ああ、えっと、そうだっけ? それは、ほら、口喧嘩って言うから、もっと凄いのを想像したんだよ。その話自体は、真由美から聞いてたよ。それは口喧嘩とは言わないと思うな」

 奈々子は笑みを浮かべ、納得したように頷いた。

「そうですよね。あの時は私が闘牛で、お姉ちゃんは突進してくる闘牛をひらひらと躱す闘牛士みたいでしたから」

「その患者さんが何に悩んでいたのか、奈々子ちゃんの対応がどうだったのか、俺には判断しようがない。でもその出来事を経験したことで、これから患者さんの微妙な変化に気づくこともあるんじゃないのかな。完璧な医師なんかいないんだし、プラスに変えていけばいいと思う。奈々子ちゃんならきっとできるよ」


 伝えたいことの半分くらいしか言葉にできなかなったが、奈々子にはそれで十分伝わったようだった。


「ありがとうございます。医師も完璧じゃないって台詞、お姉ちゃんと一緒ですよ。お姉ちゃんにも似たようなことを言われました。その時は反駁したけど、今なら素直に聞けます」

「それは良かった」

「でも、精神科医が励まされていたらダメですよね。もっと強くならないと」

「別に精神科医が励まされたって良いと思うよ。毎日それじゃダメだけど、どんな人間だって落ち込むことはあるんだからさ」

 ――そのとおり。さすが光陽。良いこと言う。

「そうか?」

 真由美の言葉に返答した瞬間、光陽はヤバいと思った。案の定、奈々子は訝しげな顔になっている。

「そうか?」

「あ、いや、何でもないよ。とにかく、元気出して。眠っている真由美の周りには、明るい表情の人たちがいた方が良いような気がするんだ」

「そうですね。私もそう思います」

 奈々子はにっこりと微笑むと、お洒落なデザインの腕時計に目を向けた。

「それじゃあ、あまり長居しても悪いので、この辺で帰ります」

「うん。わざわざお見舞いにきてくれてありがとう。気をつけて帰ってね」

「はい。――あ、そうだ。光陽さんの携帯電話の番号、教えてもらえますか? お姉ちゃんの意識が戻るの、光陽さんが退院したあとになるかもしれないので。もしそうなったら、私かお母さんがすぐに知らせられるようにしておきます」

 光陽は頷き、番号を伝えた。

「それじゃ、またきます。お大事に」

 そう言って背中を向けた奈々子だったが、光陽が驚くくらいの速さで振り返った。そのままじっと光陽の目を見つめる。

「ど、どうしたの?」

「……いえ、すいません。今、光陽さんの目が、一瞬、違う人の目に見えたので」

 光陽の心臓がどくんと跳ね上がった。

「違う人って、誰? 知ってる人?」

「いえ、ただの錯覚です。最近、あまり寝てなかったから、疲れてるんだと思います。すいません、変なこと言って」

「いや、大丈夫だよ」

「それじゃあ、失礼します」




 奈々子が帰ったあと、光陽は引き出しから手鏡を取り出し、自分の顔をじっと眺めた。

「俺の目、どこかおかしいのかな? 真由美の魂が入っていることで、真由美の影が出てるとか?」

 ――こうやって見る限り、そんなことはないと思うけど。どういう角度で見ても、光陽の目だよ。

「そうだよな……」

 ――ねえ、さっきはありがとうね。

「ん? 何が? ああ、代弁したこと?」

 ――それもあるけど、妹を励ましてくれてありがとう。この前話した時は、あんな笑顔見せなかったのに……今日は笑顔を何度か見せてくれたし。光陽のおかげね。

「でも、心の底からの笑顔じゃなかったな。満面の笑みにさせてあげられるのは、真由美しかいない」

 ――そうね。早く私が目を覚まさないとね。

「明日は、考え付くありとあらゆる方法を試そう。大丈夫だよ、きっと明日戻れる」

 ――明日、私は元の身体に戻る。

 真由美の言葉は力強かった。

「そう。真由美の魂は、明日本来あるべき場所に戻る」

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