第八話 思案
人が何かを、あるいは誰かを信じる気持ちになる時、その元となるものは様々に存在する。動かぬ証拠を見て信じる場合もあるし、目には見えないもの、言葉を聞いて信じる場合もある。
今、
真由美の声や口調にそっくりだとか、昔の出来事を詳細に知っていたとか、そういった部分も影響はしているが、何よりも自分の直感を信じようと思った。理屈じゃない。真由美の魂は、この身体の中にいる。その感覚を信じることにした。
信じる心が生まれると、新たにこれからどうするべきかという思いが生まれた。
≪真由美の魂を彼女の肉体に戻す≫
言葉にしてしまえば簡潔だが、その方法はあるのだろうか。
そのことについて真由美と言葉を交わそうとした時、医師が診察にやってきた。目を覗き込むようにして見る医師に、何かを感じ取られるだろうかと思ったが、特に何もなく診察は終わった。あと一週間もすれば退院できますよ、という言葉を残して医師は部屋を出ていった。
入れ替わるように、今度は光陽の母親が入ってきた。バッグの中から小説や雑誌を取り出し、光陽に手渡した。
「あんたが普段どんなものを読むのかわからないから、適当に買ってきたよ」
心遣いは有り難かったが、今は本を読んでいる場合ではない。真由美と話がしたかった。しかし母親はパイプ椅子に座って、昨日と同じようにリンゴを剥き始めた。どこかに行く用事はないようだ。
言葉を発せずに脳内で真由美とやりとりできないか試してみたが、どうやら真由美は光陽の思考を直接読むことはできないみたいだった。仕方がないので、雑誌を読むフリをしながら思案に耽ることにした。
真由美の魂を元に戻す方法を思案し続けていると、いくつかの案が浮かび上がってきた。
どんな方法を取るにしても、真由美の身体に直接触れなければいけないような気がした。手を握るとか、抱きしめるとか、キスをするとか、そんな直接的な方法に効果があるのではないか。
ただし現状だと、その行為へのハードルは高い。
真由美の肉体は、まだ集中治療室にあるからだ。集中治療室に入れるのは親族だけである。光陽が真由美の夫なら入れるのだが、まだ正式な夫婦ではない。真由美の母親の許可があれば入室できるかもしれないが、しかし母親が見ている前だとあまり大胆な行動は取れない。難しいところだった。
看護師が昼食を運んできてくれた。母親が剥いたリンゴを皿に載せてテーブルの上に置く。
「それじゃ、私は家に帰ってご飯を食べてくるよ。また四時頃にくるからね」
母親が部屋を出ていったのを確認して、光陽は真由美に話しかける。
「なあ真由美。どうやったら真由美が元の肉体に戻れるか考えてたんだけどさ」
光陽の言葉に、真由美は驚きの声を上げた。
――えっ、その言い方だと、私の魂があなたの中にいるって信じてくれたの?
「ああ、信じるよ。真由美は、俺の中にいる」
――私が昔の出来事をきちんと話せたから信じてくれるの?
「そういう部分もあるけど、こうやって会話していると、真由美と話している時の感覚に包まれるからさ。声が似ているってだけじゃ、絶対にこんな気持ちにはならない。だから、真由美の話を信じるよ」
――嬉しい。私、やっぱり男を見る目があったわ。
「でも、すぐには信じてあげられなかった。ごめんな」
――気にしないで。立場が逆だったら、私だっていきなりは受け入れられなかったはずだもの。誰だって混乱するわ。……この状況は、不幸中の幸いというのかな。入り込んだのが光陽の中で、本当に良かった。
「他の人だったら、真由美の言葉を信じなかったかもしれないから?」
――それもあるけど、赤の他人の中に入っていたら、今とは比べ物にならないくらい孤独感に包まれていたと思う。最悪、その人が犯罪者だったら、私もその行為を強制的に見続けないといけないわけだし。今も恐怖心はあるけど、光陽と一緒だから平常心を保っていられるの。本当に、入り込んだのが光陽の中で良かったわ。
「愛する人の魂と一緒というのは、見方によっては素敵なことかもしれないけれど、決して健全な状態ではない。早く真由美の魂を肉体に戻さないとな」
――うん。早く戻って、自分の目で光陽を見たい。自分の口であなたと話したい。……問題は、どうすれば戻せるのか、よね。
「その方法をいくつか考えてみたんだけど、真由美の肉体に直接触れることが一番効果的なような気がする」
――ええ。それは私も考えてた。
「手を握ったり、抱きしめたり、あとは、キスをしたり……」
――キスをして目覚めたら、現代版の白雪姫ね。
真由美の声音は明るい。
さっき彼女自身が話したとおり、恐怖心はあるはずだ。こんな状況に陥ったら誰だって怖いだろう。でも、元来がポジティブ思考の真由美だ。必ず元に戻れると考えているはず。だから光陽もネガティブな思考にならないように、成功することだけを考えることにした。
「今から真由美のいる集中治療室まで行ってみようか」
――入れるかな? お母さんがいるなら面会を許可してもらえるかもしれないけど。
「たとえ今入れなくても、真由美のいる集中治療室がどこにあるか、周りがどんな風になっているか見ておきたいんだ。最悪、強行突破することになるかもしれないし」
――強行突破……。
「万が一、面会が許可されない場合の話だよ。真由美の身体に触れれば魂を戻せると確信しているのに、部屋に入れさせてもらえないのなら、あとで拘束されることになっても強引に進入するしかないからな」
――ええ、そうね。
「とにかく、まずは偵察しにいこう」
光陽は部屋を出ると、渡り廊下を渡って隣の棟まで進み、階段で五階から二階まで下りた。廊下を歩くだけでも身体に痛みが走ったが、階段を下りる時はその痛みが強まった。小さな呻き声を上げる度に、真由美の励ましの声が聞こえてきていた。
普通に歩けば二分くらいで着くであろう距離を、光陽は七、八分かけてたどり着いた。
集中治療室のあるフロアは、しんと静まり返っていて、緊迫した空気が漂っていた。一般病棟とは、明らかに空気が違う。
少し進むと、ナースステーションが見えた。看護師や医師と思われる男女が数人椅子に座っている。天井からは複数のモニターが吊るされていて、心電図のようなものが映し出されている。あのモニターで、各部屋の患者の容態を観察しているようだ。
ナースステーションの向こう側には、部屋が複数あった。窓はブラインドが下ろされている。どこに真由美の肉体が眠っているのかはわからない。
この配置だと、光陽が強引に部屋に入ろうとしてもその手前で止められるだろう。今の光陽の身体だと、小柄な女性看護師にさえ簡単に拘束されてしまう。
その光陽の考えに呼応するように、真由美が言葉を発する。
――これだと、あそこにいる看護師たちの目を盗んで入室するのは無理ね。
「ああ……」
気配に気づいたのか、モニターを見ていた男性がこちらに振り返った。光陽と視線が合うと、すぐに歩み寄ってくる。医師かと思ったが、服装からして看護師のようだ。
「こんにちは。どうかされましたか?」
「私、沢村光陽と言います。私の婚約者の藤堂真由美が、そこの集中治療室で眠っていて、会えないのはわかっていても、気になってきてしまいました。すみません」
全てを理解したという表情で看護師は頷いた。
「いえ、ここまではこられても構いませんよ。お気持ちはわかります」
「朝、担当の看護師の人に聞いたんですが、まだ回復の兆しはありませんか?」
「そうですね……まだ予断を許さない状況です。ただ、できる限りのことはしました。あとは、藤堂さんの気力次第です」
「あの、一応訊きますけど、私は真由美のいる部屋には入れないですか?」
「はい。申し訳ありませんが、親族以外の方の面会はできない決まりになってるんです」
「わかりました。藤堂真由美の母親は、今いますか?」
「いえ、今日はまだきておられません」
光陽は礼を言って踵を返した。
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