第七話 愛する人は心の中に

 ドアがノックされる音で、思考に沈んでいた光陽みつひろの意識は現実に引き戻された。壁時計を見る。七時二十七分。ドアが開き、若い看護師が朝食を載せたワゴンを押して入ってきた。


「沢村さん、おはようございます」

「おはようございます」

 看護師はオーバーテーブルの上に朝食を載せたあと、光陽の体温と脈拍を計り始める。

「お身体の調子どうですか? 頭痛や吐き気はありませんか?」

「身体を動かすと首や胸は痛みますけど、頭痛や吐き気がすることはないです」

「目が充血されてますけど、どのくらい眠られましたか?」

「ちょっと考え事をしていて、気が付いたら朝になってました」

「ダメですよ、きちんと睡眠を取らないと。怪我の治りも遅くなりますよ」

「はい」

 体温計が鳴る。数字を見ると三十六度七分だった。脈拍も正常だと言われた。

 光陽の肉体に異常はないようだ。

 では、精神こころはどうか……。

「あの、訊きたいことがあるんですが」

「はい、何でしょう?」

「真由美の、私の婚約者の容態はどうですか?」

 瞬時に看護師の顔が曇った。

「藤堂さんの容態は、依然として予断を許さない状況です。ただ、昨日よりは、若干ですが、様々な数値が安定してきています」

 それはきっと、光陽を少しでも安心させるための言葉なのだろうなと思った。嘘ではないのだろうが、それが回復の前兆ではないことはわかった。看護師の表情がそう言っていた。

 何かあったら呼んでくださいと言い置き、看護師は部屋を出て行こうとする。

「あの……」

 光陽は咄嗟に呼び止めていた。看護師は足を止めて振り返った。

「どうかしましたか?」


 看護師に話そうかどうか迷った。

 声が聞こえてくるんです、集中治療室にいるはずの、意識不明のはずの藤堂真由美の声が聞こえてくるんです、と。


「……昨日、私が受けた身体の検査って、脳にダメージがないかもきちんと調べたんですよね?」

「もちろんです。沢村さんもご覧になられましたよね、頭部のレントゲン写真」

「その、別に機械を疑うわけじゃないですけど、脳の異常を見落としてるってことはないですか?」

 看護師は怪訝な表情になった。

「何か気になることでもあるんですか? 痛み以外に気になることでも?」


 いっそのこと話してしまおうかと思った。全てを話した上で、医師の見解を聞こうかと。

 しかし、それを見透かしたかのように、数時間ぶりにあの声が聞こえてきた。


 ――光陽、私の声が聞こえるという話は、しない方がいいと思う。私の魂があなたの中に入ってるなんて話をしたら、ここではない違う病院に連れて行かれるかもしれない。簡単には出られないような病院に。さっき話したとおり、私が元通りになるためにはあなたの力が必要なの。あなたが自由に動き回れなくなったら、元に戻れなくなるかもしれない。お願い、私には、あなたが必要なの。


 今まで一度も見たことのない真由美の悲哀に満ちた表情が脳裏に浮かんでくる。

 胸がぎゅっと締め付けられる。

 光陽は目を瞑り深呼吸した。意を決したように、口を開く。

「いえ、異常はありません。不安になったので、ちょっと訊いてみただけです」

「そうですか。わかりました。朝食を食べて栄養を取ってくださいね。時間がきたら、医師が診にきますので」

 看護師は部屋を出て行った。


 ――ありがとう。

「ああ……」


 光陽は朝食を食べ始めたが、考えを巡らせながら咀嚼していたので、味はほとんどしなかった。

 脳にも精神こころにも異常がないのだとすると、この声は真実を話しているということになる。この声の主は、本当に真由美なのだと。そういう結論になる。


 肉体から魂が離れる現象というのは、漫画や映画でなら何度か観たことがある。俗に言う、幽体離脱というやつだ。光陽は、そういうオカルト的なものを否定はしない。何でもかんでも鵜呑みにするわけではないが、そういう科学では説明できない現象というのは、世の中に存在すると思う。


 しかし、だ。

 一つの肉体に他者の魂が入り込んで、更にその人と会話をするなんてことが、果たしてあり得るのだろうか。コレは多重人格ではないし、映画や漫画でよく見かける設定の人格が入れ替わるというものでもない。もちろん、死んだ人間の声が聞こえるというものとも違う。意識不明ではあるが、真由美は生きている。

 

 果たして、光陽と同じ体験をした者が過去にひとりでもいるのだろうか。人間が初めて体験する現象という可能性もあるのではないか。

 もしそうなら、光陽がひとりでどれだけ考えたところで、正解にはたどり着けないだろう。

 答えの出ない問いに挑み続けるのは止めよう。

 真由美とそっくりの声の言っていることは本当なのか。愛する人は本当に光陽の中にいるのか。今はその一点に絞って話を進めようと思った。

 光陽はご飯を食べ終えた。食べているあいだ、声は全く聞こえてこなかった。


「なあ……」

 光陽は呼び掛ける。

 ――なあに?

「そこは、どんな感じなの?」

 ――最初に言ったとおり、感覚がないのよ。全く。私は、光陽の見ているものを見ているだけなの。だから、あなたが目を瞑れば、当然真っ暗闇になるわ。

「俺の耳に届いた声や音も全部聞こえてるのか?」

 ――ええ。ただ、視覚や聴覚はあっても、味覚や嗅覚はないの。あなたが今ご飯を食べていたけど、何も匂わないし、何の味もしなかった。

「じゃあ、お腹は空かないんだな?」

 ――ええ。そういった感覚はないわ。

「眠気はあるのか?」

 ――今のところ、全く眠くならないわ。これは私の予想だけど、あなたが眠ったら、私も眠るような気がする。

「昔のことを思い出したりはできるのか?」

 ――ええ。幼少の頃からの記憶は全てあるわ。たとえば、あなたが私に付き合ってほしいと告白した場所は、会社裏の公園。あなたが初デートの時に着てきた服は、グレーのチノパンに薄い青のシャツ。初めてキスしたのは、あなたの部屋。ね、ちゃんと記憶があるでしょう。……あなたは忘れてるかもしれないけど。ふふふ。


 全部、正解。

 声音が似ているから当たり前なのだが、その笑い方も、やはり真由美そっくりだった。ますます、本当に真由美と会話している感覚になってくる。

 膝の上に置いていた両手が、しわくちゃになるほどズボンを強く摑んでいた。


 光陽は思い出す。昨日トイレの鏡で自分の顔を見た時に、違和感を覚えたことを。光陽は引き出しの中から手鏡を取り出し、じっと眺めた。

 瞳の奥を、じっと覗き込む。

 顔自体は変わらないのだが、瞳の部分に中性的な色が含まれているような気がした。凝視していると、段々、真由美の目を見ているような気持ちになってくる。自分の目で鏡を見ているはずなのに、別の誰かに見られているような感覚に包まれていた。

 光陽は自分の胸に手を当てる。

 真由美……本当にこの身体の中にいるのか……。


「今、俺の顔を、一緒に見てるんだよな?」

 ――うん。光陽、右の目に、目脂がついてるわよ。ダメよ、レディーの前では身嗜みを整えてないと。

 光陽は目脂を取った。鏡の中の彼は、もう驚いた顔をしていなかった。

「真由美」

 ――なあに?

「俺の中に、いるんだな?」

 ――ええ。私は、あなたの中にいる。

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