第六話 ここにいる

 何も考えられず、呆然としている光陽みつひろの耳に、姿なき声はまた聞こえてくる。


 ――光陽、私も自分の身に何が起こってるのかわからないんだけど、私はよ。にいるの。


 似ているのは、声音だけではなかった。その口調も、真由美の話し方そっくりだった。

 でも、どこを見ても、真由美はいない。その声は、ここにいると言っているが、部屋の中にいるのは青い蝶だけ。

 と、その時、光陽の頭にある思いが生まれた。

 真由美の声が聞こえ始めたのは、この蝶が入ってきてからだ。そしてその声は、ここにいると言っている。……まさか、この蝶が?

 光陽はベッドの端に進み、シーツの上に留まっている蝶を見下ろした。

「真由美なのか?」

 そう呟き、光陽は蝶に向かって手を伸ばそうとした。

 もし第三者がこの光景を見たら、気が触れたと思っただろう。自分でも正気の沙汰とは思えなかったが、非現実的な事象に遭遇している今、光陽の頭は正常には回らなくなっていた。


 ――違う。その蝶は関係ない。私はここにいるの。

 その言葉を受けて、光陽は伸ばそうとした手を止めた。

 青い蝶は再び空中へ浮かび、光陽の周りを二周して窓の外へ去っていった。

「……ここって、どこ?」

 ――中に、私はあなたの中にいるの。

 

 この声は、何を言ってるんだ。

 光陽はその言葉の意味を理解しようとしたが、まるで理解できなかった。

 真由美と同じ声の女は話し続ける。


 ――光陽、今、自分の身に何が起こっているのか考えてるんでしょう? 落ち着いて。そのまま私の話を聞いて。あなたは決しておかしくなったわけじゃないわ。数時間前、私の意識が戻った時、最初に見たのはこの部屋の天井だった。すぐにここが自分の部屋や光陽の部屋ではないことがわかったわ。いったいここはどこだろうと思って、すぐに身体を動かそうとしたんだけど、動かないのよ。身体の感覚が全くないの。呆然としていると、私の視線は勝手に動き続けたわ。カーテンを見たり、ドアを見たり、点滴の袋を見たり……。そのあと、あなたのお母さんが部屋に入ってくるのが見えた。ほっとして話しかけようとしたけど、口の感覚もないから声も出せなかった。そんな私に向かって、お母さんは言ったわ。光陽って。


 ――私の意思とは無関係に視線は動くし、光陽のお母さんに光陽って呼ばれるし、もうその時点で正常な思考力は失われてしまったわ。お母さんは、私を見ながら何が起こったのかを話してくれた。私たちが事故に遭ってこの病院に運ばれたことは理解できたけど、なぜ意識不明のはずの私がこんな風に考えることができるのかはまるで理解できなかった。そんな異常な状況の中で、私はあなたと再会した。あなたがトイレにいった時よ。視線が鏡に向けられた時、私は鏡の中にいるはずの私を必死に探したわ。だってそうでしょう。私はこうやって思考することができている。それなら、絶対に鏡のどこかに私の顔があるはず。でも、私の顔はどこにもなかった。見えているのは、右の頬に痣ができている光陽だけだった。……私は、未だに自分の身に何が起こっているのか理解できていないけど、自分がどこにいるのかはわかった。私は、光陽の中にいる。


 声は聞こえなくなった。


 自分は、頭がおかしくなったのだろうか。それが、光陽が真っ先に思ったことだった。

 精密検査では、脳に異常は見られなかったが、最新の医療機器でも見つけられないダメージを負ってしまった可能性があるのではないか。それなら説明がつくと思った。脳にダメージを負っていたら、愛する人の幻聴が聞こえても不思議ではないだろう。

 そのことを声に出して言ってみた。


「俺は、頭がおかしくなったみたいだ。だって、そうだろう。真由美は集中治療室にいて、意識不明の状態なんだから、俺と話せるはずがないんだ。そうだろう?」

 ――違う。違うのよ光陽。よく聞いて。あなたはどこもおかしくなってない。この声や話し方が私のものだって、わかるでしょう?

「……確かに、真由美とそっくりの声と話し方だよ」

 ――そっくりじゃなくて、本人なのよ。ね、私だったらこういう返し方をするって、わかるでしょう?

「……俺の中に、真由美がいるって?」

 ――そうよ。

「……意味がわからない。どういう理屈なんだ? 何で声だけが聞こえるんだ。そんなこと、あり得ないだろう」

 ――それは私にもわからないわ。さっき言ったとおり、私だって全てを把握しているわけじゃないのよ。こうやってあなたに話し掛けることも、物凄く勇気が要ったのよ。今わかっているのは、私の肉体と意識みたいなものが、乖離してしまっているということだけ。

「……真由美の意識が、俺の中に?」

 ――ええ。意識と言った方が適切なのか、それとも魂という言い方の方が正しいのかはわからないけど、あなたの中に、私はいるの。

「……そんな話、誰が信じるんだ? どう考えたって、俺の頭がおかしくなったと考えた方が妥当だろう。そうだ、やっぱり俺はおかしくなったんだ。真由美への罪悪感が、こんな幻聴をつくり出してしまったんだ」


 光陽は両手で頭を抱えてベッドに腰を下ろした。

 次にその声が聞こえるまで、少し間が開いた。


 ――私、こんなことになったのは、光陽のせいだなんて全然思ってないよ。光陽はただ車を走らせていただけ。飲酒運転もしてないし、脇見運転もしてない。何の落ち度もないわ。だから、気にする必要はないのよ。私が何を言っても、光陽の性格だから気にするんだろうけど……ほんとに、私はあなたを恨んでなんかいない。むしろ、呑気に眠ってた私に腹が立つわ。私が起きていたら、あなたと話して危険を回避できたかもしれないんだから。

「……悪いのは、突っ込んできた奴だ。真由美じゃない」

 ――そう、悪いのは私たちじゃない。だから、光陽も気にする必要はないのよ。

「……いや、俺が言いたいのは、そういうことじゃなくて、不測の事態から真由美を守ってあげられなかった自分が許せないんだ」

 ――何言ってるのよ。不測の事態だからこそ、光陽が気にする必要はないんじゃない。

「……でも、あの時、パトカーのサイレン音が聴こえてたんだ。左側から……。注意深い人間なら、予測できた事態だったかもしれない……」

 ――光陽らしい考え方だとは思うけど……。でも、もう事故は起きてしまったことなの。時間は戻せない。今は、あなたに早く元気になってもらわないといけないのよ。私は、いえ、私たちは他にやらなければいけないことがあるんだから。

「……やらなければいけないこと?」

 ――私の意識か魂……面倒くさいわね、呼び方を統一しましょう。私のこの魂を、元の肉体、つまり私自身に戻さなければいけないでしょう? ずっとこうしているわけにはいかないんだから。

「……どうやって元に戻す?」

 ――それはわからないけど、方法はあるはずよ。離れられるのなら、もう一度くっつく方法があるはず。その方法を探すには、あなたの力が必要なの。光陽が協力してくれないと、きっと元には戻れない。だから、私の話を信じてほしい。


 ずっと言葉を交わし続けてきた光陽だったが、そこで黙り込んだ。

 返す言葉がなかったから。信じてほしいと言われても、わかったとは言えなかった。

 

 ――光陽、まだ信じられないのはわかる。逆の立場だったら、私だってすんなりとは受け入れられないかもしれない。だから、今日はもう寝ましょう。時間はかかっても、こんな風にやりとりしながら、最終的に信じてもらえればいいわ。それに、さっきも言ったように、早く怪我を治して欲しいから、夜更かしはダメ。睡眠はたっぷり取って。


 最後の言葉は、真由美が言いそうなことだなと思った。私の言っていることを信じてと言い続けるのではなく、一旦冷静になる時間を与えるというのは、真由美の性格だと十分考えられるやり方だった。

 時計の針はすでに零時を回っている。

 ベッドに横になったが、当然こんな状況で眠れるわけはない。

 まだまだ、疑う気持ちの方が大きい。真由美の声で何を言われても、他者の魂が身体に入り込んで会話ができるなんて、そんな現象受け入れられない。

 しかし、その疑う心の片隅に、ほんの僅かに芽生え始めていた。この声の主は本当に真由美かもしれないという思いが。

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