第五話 困惑

 どれくらいの時間、真由美のいる病棟を見つめながら祈っていただろう。ふっと背後で物音がした。

 振り返ると、二人の女性が立っていた。ひとりは、光陽の母親。もうひとりは、真由美の母親だった。

 そう認識した瞬間、光陽みつひろは頭を下げていた。


「すみません。俺の不注意で、真由美さんをあんな目に遭わせてしまって」

 真由美の母親はパイプ椅子に腰掛けて、光陽の手を両手で包んだ。

「悪いのはあなたじゃないわ。気にしないでと言っても無理だろうけど、本当にあなたのせいじゃない」

「俺がもっと注意深く運転していれば、こんなことにはならなかったはずなんです。俺にも責任はあります」

 真由美の母親の両手に、力が籠められた。

「真由美は死んだわけじゃない。ちゃんと生きてる。大丈夫よ。真由美は必ず目を覚ますわ」

「はい。俺もそう信じてます。また笑顔を見せてくれるって」

「ええ。あの子は強いから、きっと目を開いてくれる。――顔の傷は、治せるかどうかわからないみたいだけど、それも含めてあの子なら乗り越えてくれると信じてるわ」

「顔の傷?」

 初めて耳にする言葉に、光陽の心臓がどっくんと跳ねた。

「ああ……まだ聞いてなかったのね。衝突の時に窓ガラスが割れて、その破片で顔に何ヵ所か傷を負ってしまったのよ」


 鈍器で殴られたかのような衝撃が光陽を襲った。

 脳裏に浮かんでいた真由美の顔が、朱に染まっていく。

 そんな……自分の判断力の甘さで意識不明の重体にさせたばかりか、顔に傷まで付けさせてしまったなんて……。

「真由美……」

 光陽は両手で頭を抱え嗚咽する。

 真由美の母親が、光陽の背中を擦りながら言葉をかけていたが、頭には入ってこなかった。罪悪感に包まれ、もう顔を上げる気力もなくなっていた。心の中で、真由美に謝り続けた。



 

 次に顔を上げた時、真由美の母親はいなくなっていた。

 光陽の母親が、椅子に座ってリンゴの皮を剥いている。

「今は自分の身体を治すことに専念してって、真由美さんのお母さんの伝言。またお見舞いにくるからって」

「うん……」

 光陽はゆっくりと起き上がり、スリッパを履いた。

「どこにいくの? ダメよ、寝てないと」

「トイレだよ」

「ああ……ひとりで大丈夫かい?」

「痛いけど、ひとりで歩けるし、トイレの中まで付き添うわけにはいかないだろう」

「そうだね……。ああ、トイレは部屋を出て右に歩いていくとあるよ。エレベーターの横だよ」

 ありがとうと言って光陽は部屋を出た。


 一歩足を前に出すごとに、呻き声が出るほどの強い痛みが襲ってきたが、真由美の置かれた状況に比べれば些細なことだった。

 病室からトイレまでは五十メートルほどの距離だったが、着くのに一分くらい掛かった。顔を顰めて歩いていたからだろう。擦れ違った車椅子のお年寄りに「お大事に」と声を掛けられた。

 トイレの中には誰もいなかった。用を足したあと洗面台で手を洗う。ハンカチを持っていなかったので、濡れた手をシャツで拭った。


 鏡に映った自分の顔を見る。


 右頬のところに痣ができていたが、考えるのは真由美のことだった。

 せめて、と思う。せめて真由美の顔の傷を自分が負ってあげられれば、いくらか救われるのに……。


「ん?」


 何だろう……。自分の顔をじっと見ていると、ふと違和感を覚えた。具体的に何がおかしいのかは説明できないが、いつも見ている顔とは違うように見えた。痣ができていること以外は、何もおかしなところはない。だが、何か胸に引っ掛かるものがあった。

 光陽は目を強く瞑った。心身ともに疲れているから、そんな風に感じるのかもしれない。足を引き摺るようにして病室に戻り、ベッドの上に腰かけると、母親がリンゴを手渡してきた。食欲はゼロだったが、受け取って食べることにした。


「さっきお父さんに電話したけど、今日の夕方、仕事を早く切り上げてくるって」

「そう……」

「事故の一報を聞いた時、いつも冷静なあの人が取り乱してたからね。今日は仕事も手につかなかったんじゃないかね」

 あまりというか、ほとんど慌てた顔を見せたことのない父親の慌てた顔を想像してみたが、その表情をうまくつくることはできなかった。


 午後五時を過ぎた頃、父親がやってきた。光陽の顔を見ると、父親は安堵の息を吐いて笑顔を見せた。光陽の無事を喜び、元気づける言葉をかけ続けてくれた。

 しかしそんな父親も、真由美の話題になると、沈痛な面持ちになった。

 三ヵ月前、初めて会わせた時から、両親は真由美をとても気に入っていた。特に父親の方は、ぞっこんという表現が当てはまるほど顔を綻ばせていた。そんな父親を見て、本当は娘が欲しかったのかなと思ったほどだ。

 自分が愛する人を、両親も気に入ってくれる。こんなに嬉しいことはない。

 また真由美と話して目尻を下げている父親を見たい。光陽の子供時代のエピソードを両親から聞いて笑う真由美を見たい。強くそう思った。

 やがて面会時間が終わる。帰り際に父親は言った。今度の休み、病気や怪我の回復にご利益のある神社に行ってお守りを買ってくると。今の光陽は、どんなものにも頼りたい気持ちである。だからその言葉に対し、よろしくお願いしますと頭を下げた。真由美の回復を願う言葉を残し、両親は帰っていった。




 消灯時間は過ぎていたが、光陽は寝付けず、真由美のいる病棟を見ながら祈りを捧げていた。開けた窓からは、少し冷たい風が入ってきている。

 ベッドの上で目を閉じている真由美の姿を想像して祈っていたが、不意にその顔に傷が付いている姿が浮かび上がってきた。


 真由美は必ず目を覚ます。その思いは揺るがない。

 しかし、目を覚ました真由美が鏡を見た時、何を思うだろう。

 その姿を想像すると、胸が張り裂けそうだった。


 ほんの数日前までは幸せなふたりだったのに……挙式まであと少しで、いつもの休日と変わらない一日だったのに……。


 真由美……真由美……。

「真由美……真由美……」

 心の中で名前を反芻していたつもりが、いつの間にか声に出ていた。

「真由美、ごめん……」

 謝罪の言葉を涙声で何度も口にした。頬を涙が伝い、床に一滴落ちた。


 ふっと、窓の外を何かが横切った。

 視線を合わせると、それは青い蝶だった。

 青い蝶? 珍しいなと思った。

 テレビ等で見たことはあるが、実際に青い蝶を見るのは、覚えている限りでは初めてのことだ。

 この辺に生息している蝶なのだろうか。何という種類の蝶なのだろう。

 そんなことを考えていると、蝶は室内へ入り込んできた。まるでそこが目的地だったかのように、青い蝶はベッドの端に留まった。

 その直後だった――。



 ――光陽。



 思わず、「えっ」という言葉が漏れる。

 今、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声音は、真由美に似ていた。

 室内を見回したが、誰もいない。ドアを開けて左右を確認してみたが、そこにも誰もいなかった。

 光陽は首を傾げて窓際へと戻る。

 さっきのは幻聴だろうか。周りに誰もいないのだから、そういうことになるのだろう。

 悔恨の情が、幻聴となって表れたのだろうか。


 ――ねえ、光陽。


 その声は、先ほどよりもはっきりと聞こえた。

 いや、これは幻聴じゃない。そう断言できるくらいに、耳の奥に届いていた。

 そして、さっき感じたとおり、その声は真由美そっくりだった。


「……真由美?」

 真由美はまだ集中治療室にいる。彼女の声が聞こえるわけはない。普通ならそう考えるところだが、そう問いかけたくなるほど、その声は温かで懐かしさを感じさせた。

 ――ええ、そうよ。今、あなたに話しかけているのは、私よ。


 光陽の問いに対して、真由美とそっくりの声がはっきりと返答した。

 何だ、これは?

 光陽の頭の中は真っ白になっていた。

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