第四話 慟哭
真由美とふたりで海辺を歩いていた。
海は静かで心地良い風が吹いている。辺りには誰もいない。
真由美は黄緑色のセーターと
ふたりは長いあいだ歩き続けた。
不思議だった。どこまで歩いても景色が変わらなかったから。
真由美が立ち止まったので、
どうしたの? と光陽は訊ねた。
真由美は首を傾げて光陽を見ている。表情はどこか悲しげだった。
寒い? もう戻ろうか? と光陽は訊ねた。
真由美は首を傾げたまま動かない。
ふっと彼女は視線を海へと向けた。釣られて光陽もそちらに視線を向ける。
真由美は海に向かって歩き出した。すぐに止まるだろうと思って見ていたが、彼女はどんどん進んでいく。足首が海水に浸かった。それでも真由美は前進を止めない。光陽は慌てて真由美に駆け寄り、右手を摑んだ。
真由美、何してるんだよ! と光陽は強い口調で言った。
しかし真由美は何も言わない。悲しげな表情のまま光陽をじっと見ている。
光陽は不安になった。なぜそんな顔をしているのだろう。なぜ何も言ってくれないのだろう。
真由美は再び海の方に向かって歩き出した。光陽の身体ごと引き摺っていこうとする。凄い力だった。光陽は踏ん張って、もう一方の手で彼女の肩を摑んだ。それでも真由美の前進を止めることはできなかった。
何かに引っ張られるように真由美は歩き続ける。
光陽は真由美の名前を連呼した。何度も何度も叫んだ。
しかし彼女は振り向かない。どんどん進んでいく。下半身はすでに海の中だった。
真由美、どこに行こうとしてるんだよ! このまま進んだら死ぬぞ!
死、という言葉に真由美は反応を示した。それまで遠くの方を見つめていた彼女の視線が、光陽の方に向けられた。視線が交わると、彼女の進む力が弱まった。海水は、胸のところまで達している。
真由美、わかるか? こっちに行っちゃダメだ!
僅かだったが、彼女は顎を引いた。同時に、前進を止めた。
帰ろう。こんなところにいちゃダメだ。家に帰ろう。
今度は、真由美ははっきりと頷いた。
瞼を開けると、オセロ盤のマス目のような天井が見えた。
自分は眠っていたのか……。夢を見ていた気がするが、思い出せない……。
ここは自分の部屋ではない。それは理解できたが、ここがどこなのかということまではわからなかった。
上体を起こそうとすると、全身、特に首と胸部に強い痛みが走った。思わず呻き声を上げる。
右手で胸を擦りながら、なぜこんなに身体が痛むのかを考える。しかし答えは出なかった。
なぜ思い出せないのだろう。酔っぱらったまま眠ったからだろうか。
記憶を呼び起こすように、光陽は頭を振った。だが、その頭を振るという行為自体が、彼に苦痛を与えた。再び呻き声を上げる。
左腕に何かが付けられていることに気づく。チューブだった。ベッド脇には、点滴の袋が取り付けられている器具が立ててあった。
ということは、ここは病院なのか……。
光陽は頭を押さえる。
なぜ自分が病院に……。
思い出そうとしていると、ドアが開く音がした。
見ると、光陽の母親が入ってくるところだった。沈んだ顔をしていた母親は彼と視線が合うと、「あっ」と声を発し、目と口を大きく見開いた。そのままの表情で駆け寄ってくる。
「光陽、ああ……光陽……大丈夫かい? 頭とか、どこか痛まないかい?」
「首と胸の辺りがすごく痛いけど……何でここにおふくろがいるんだ? ここ、病院みたいだけど、俺はどうしてここに?」
「あんた、事故のこと、覚えてないのかい?」
「事故?」
「あんたが車を運転してる時、信号無視した車に横から衝突されたんだよ。その車は、パトカーから逃げているところだったって聞いたよ」
その話を聞いて、記憶が鮮明に蘇った。
パトカーのサイレン音。猛スピードで突っ込んでくる車。眩い光。
その直後に、真由美の顔が浮かんできた。
「真由美は? 助手席に乗ってたんだ」
「真由美ちゃんは……集中治療室にいるよ」
一瞬にして、頭の中が真っ白になった。
「集中治療室……」
「真由美ちゃんのお母さんから話を聞いてるんだけど、容態がなかなか安定しないみたいでね……」
そんな……。
何で……。
真由美……真由美……。
心臓の鼓動が限界にまで達していた。息苦しくなり、胸を抑えて前屈みになる。そうやって身体を動かすと、また痛みが襲った。母親が声を掛けながら背中を擦る。
「今、先生を呼ぶからね」
母親はナースコールのボタンを押した。
すぐに医師と看護師がやってくる。医師に瞳孔や脈拍をチェックされたあと、光陽は訊かれたことに対して答え続けた。そのやり取りの中で、自分が四十時間近く眠っていたことを知らされた。
脳などの検査を受けることになり、ストレッチャーに乗せられて部屋へと連れていかれる。
頸椎捻挫。胸部打撲。肋骨を二本骨折。全治一ヵ月という診断を受けた。ただ幸いなことに、脳への損傷は確認されなかった。
検査結果を聞いたあと、光陽は真由美の容態について医師に訊いた。
「ここに運ばれてきた時は、生死の境を彷徨っている状態でした。内臓は重大なダメージを受けていて、僅かではありますが、頭部にもダメージが見られました。緊急手術で一命は取り留めましたが、依然として予断を許さない状況です」
頭部にもダメージが見られるという言葉を聞いた時、光陽の全身が震えた。
「真由美は、意識が回復しても、何か、後遺症が残るんですか?」
「それは、現状では何とも言えません」
医師の言葉は、とても冷たく聞こえた。
光陽は自分を責めた。自分の判断力の甘さが、真由美を危険に晒してしまった。
あの時、光陽は、パトカーの存在しか頭に入れていなかった。≪パトカーがサイレンを鳴らしながらどこかに向かっている≫という判断だった。あの時、まだサイレン音は少し遠くに聞こえていた。だから交差点に進入しても大丈夫だろうと考えた。
しかし実際は、パトカーは逃走車を追っていた。
パトカーよりも前方に、走る凶器が存在していたのだ。
もし、あの時、その可能性を思いついていたら、もっとスピードを落として交差点に進入していただろう。あるいは一時停止していたかもしれない。≪このまま交差点に入ったら、パトカーから逃走している車に衝突されるかもしれない≫という予測をして運転するべきだった。真由美をあんな目に遭わせたのは、自分の責任だ。
「真由美、ごめん……」
思わず言葉が漏れた。
母親が光陽の肩に手を置く。
「光陽、あんたが悪いわけじゃないんだから、自分を責めちゃダメだよ。悪いのは、警察から逃げてた男なんだから。――気休めにもならないだろうけど、犯人はその場で捕まったよ」
ほんとに、気休めにもならない情報だった。
「そいつ、この病院にいるの?」
「いや、その男は、そんなに大怪我は負わなかったみたいだよ。今は、警察署にいるんじゃないかね」
それは良かったと光陽は思った。そいつがここにいたら殺しているかもしれないからだ。
光陽は窓の外に視線を向けた。
ここから真由美のいる集中治療室は見えないが、彼女のいる病棟を一心に見つめながら祈り続けた。
どうか真由美を助けてください。天に、神様に祈った。
どんな形でもいい。真由美を助けてください。どんなことでもします。真由美が生きていてくれたら、それでいい。本当に、それだけでいい。だから真由美を助けてください。
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