第63話 秘薬

「くそが!」


薄暗い執務室に、激昂の怒声。

次いで、何かが崩壊する轟音が響いた。


男――ベーニュ・ヴァレスが怒りから、自らの執務机に拳を叩き込んだのだ。

ヴァンパイアの持つ圧倒的膂力から繰り出される拳は、容易く巨大な木製のそれを打ち砕く。

もはや使い物にならないだろう。


「ぼっちゃん、落ち着いて」


「落ち着けだと!?40人からの手勢が返り討ちに会い、聖王国ほんきょちの施設が6つも潰されたんだぞ!」


ベーニュは端正な顔を歪め、怒りを露にしていた。

余程腹に据えかねているのだろう。

握った拳の爪が掌に深々と食い込み抉り、血がしたたり落ちている。


「あいつだ!あの筋肉女が余計な手出しをするから!」


筋肉女とは、勿論聖王女の事である。

ベーニュは彼女の介入が今の事態を招いたと思っていた。

実際は介入の有無に関わらず、同じ顛末を辿る事になるのだが、当然彼はその事には気づいてはいない。


彼は知らないのだ。

カオスの圧倒的戦闘能力を。

そして敵に対する、一切容赦のない残忍さを。


「所詮人間などあてにならん!こうなったら俺手ずから始末してやる!これ以上邪魔をするというなら、あの筋肉女も殺す!」


「坊ちゃま、落ち着きなされ。聖王女は、お父上ブラド様と契約を結ぶ聖王の娘。それに手を出したとなれば、ブラド様の面子を潰す事になりますぞ。あのお方を怒らせる気ですか?」


「ぐ……」


ヴラドはベーニュを可愛がっている。

ヴァンパイアとはいえ、実の息子は可愛い物なのだ。

だが例え実の息子であろうとも、自らの誇りに泥を塗られる様な真似をすれば、ブラドも決して容赦しないだろう。

ベーニュもそれはよく理解していた。


「報復としては例の人間達と、聖王女の配下。それで矛をお納めくだされ。始末の為の部隊は、魔物領からこの婆やが手筈致しましょう。宜しいですな?」


「分かった。だがあの2人だけは俺が始末する。これだけは譲れん」


ベーニュの作り上げた哭死鳥にとって、全てのケチの付き始めはカオスにある。

他は老婆に一任しても良かったが、その元凶だけは自らの手で屠らなければ彼の気は済まなかった。


「分かりました。その代わり、遮光薬は必ず携帯くだされ」


遮光薬とは、ブラド・ヴァレスのユニークスキルによって生み出された物だ。

対象への光の影響を遮断する効果を持ち。

これを口にすれば、ヴァンパイアでありながら太陽の元で活動する事さえ可能とする秘薬だった。


ヴァンパイアにとって日の光は最大の弱点である。

だが恐るべき事に、ブラド・ヴァレスはユニークスキルによってそれを克服する術を得ていたのだ。

日の光を克服したブラドの一族は、正に最強のヴァンパイア軍団と称して良いだろう。


「分かっている」


襲うのは夜分である以上、本来日の光を警戒する必要は無かった。

だが相手に逃げ周られ、時間がかかった場合の万一の保険としてヴェーニュは薬を携帯する。


逃げに徹されると手こずる可能性がある。

それがベーニュ達から見た、カオスへの評価だった。


「覚悟していろよ。人間どもが……」


落ち着きを取り戻したベーニュは口元を歪め、酷薄に笑う。

だが彼は知らない。

カオスに対するその浅すぎる評価が、やがて自らの首を絞め落とす事になる事を。

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