第三部 V.Cは魔狼なのか?
024 母娘
――燃える夜空。瑠璃色に浮かぶ、黄金の三日月。
地上の惨状を嘲笑う無慈悲な夜の女王の下――口角を釣り上げて、その女も三日月を真似た。
「帰りましょう。私たちの家へ――ねえ、
黒く淀み穢れた魔剣を侍らせた妖女が、手を持ち上げた。幼い彼女の頭部を撫でるように、労るように、慰めるように、あるいは含み笑うように、女の手が頭に伸びた。
「ヤダ……ヤダ、触らないで……ッ――ひぅッ!?」
払い除けるのも恐ろしく、わずかに後退るテレジアのすぐ後ろで、生暖かい吐息が首を吹き抜けた。弾かれるようにして振り向くと、人の形を模した影が
息を吹きかけた影――それは、彼女の祖母だった。八十近い年齢だというのにとても元気で、孫であるテレジアを可愛がってくれた大好きなおばあちゃん。
その人が今、
さらに視線を感じて右に目を向ければ、そこには近所に住むお姉さんがいた。よく暇な時に遊んでくれた、カッコいい憧れのお姉さん。彼女も、同じように瞳を黒で塗りつぶして、テレジアを見つめていた。
さらに右、さらに右、さらに右――見覚えのある親しい人物たちを目で追って、やがて正面に母の顔が現れた。
頬を流れる癖毛。可愛らしく跳ねた銀髪は、今では黒く染まり。
テレジアの瞳の奥底を覗き込むそのイロは、やはり周囲と同じように極黒で。
「テレジア。早く帰ってケーキを焼きましょう。クッキーでもいいわ。マドレーヌもいいわね。砂糖をいっぱい入れて、隠し味にチョコを入れてみたりして。ねえ、テレジア。今朝の続きをしましょう? お父さんも、あなたの帰りを待っているから」
「おか……さ、ん……しっかり、してよ……ッ」
もう、目の前の母は母ではない。そう理解しているのに、もしもが拭えない。
お母さんは強いから。S級冒険者で、アルテミシア・ファニーの親友で、綺麗で、そんなお母さんが魔王に負けるはずない。私を怖い目に合わせるはずなんてないと、瞳に涙を溜めて祈る。
その場の誰よりも、状況を受け入れていた。故に、その場の誰よりも、状況を受け入れられなかった。
「お母さん……負けちゃ、ダメ……ッ」
「大丈夫。お母さんは、強いから」
「お母さん……ッ」
再び手が伸びる。緩慢な動き。本能が警告する。彼女に触れられてはいけないと。
けれど、もう逃げ場がない。これ以上、後ろにも下がれない。影に触れてしまえば、一気に奈落の底まで引き摺り落とされてしまうような……そんな予感がしてならない。
「テレジア」
私が強ければ、こんなことにはならなかったのに――と。
「愛しいテレジア――」
「ごめん、なさい……」
私はまだ幼いから、無条件で守ってくれる――そういう考えが甘かった。
死の手招きに年齢なんて関係ない。どれだけ幼くても、年老いていても、死は微笑を
ならばこそ、安心安全という偽りを一蹴し、戦う力を身につけなければならなかった。手本は、すぐそばに、それこそ沢山居たというのに。
「私が、守ってあげられなくて……ごめんなさい……ッ」
悔やんでも悔やみきれない。もし過去に戻れるのなら、私は――あなたを救いたい。
そう願っても、祈っても、全ては遅すぎて。
この世に神様なんていない。
そんなことは、わかりきっていたはずなのに。
それでも助けを乞うて縋ってしまうのは、心の底でまだ諦めたくなかったから。
「大丈夫、怖くないよ。お母さんが守ってあげるから、テレジア――」
母の微笑で、母の声音で、母の腕で。
魔王は、テレジアの頭部に手を置こうとして――刹那、まるで時が止まったかのように静止した。
「……?」
母の視線が、テレジアにではなく、その背後を向いていた。
テレジアも追って、視線を後ろに投げた。
そこには――
「魂が揺れている。
「あな……た、は……」
靴音が止まる。愉快そうでいて喜劇じみた中性的な声音が、言葉を並べる。
おそらくは少年。打ち捨てられたボロボロの外套に袖を通し、フードを被り顔を隠した彼は、ポケットに手を入れた姿勢のまま喉を鳴らす。
「どのみち、逃げるなら今のウチだよ。見た目は健常でも、中身はぐちゃぐちゃだから」
「え、え……?」
「残り少ない母親としての記憶と感情が、きみに触れたいと嘆いているんだ。だから執拗に頭を撫でようとするし、きみを抱きしめようとする。母性が勝ってるんだよ」
少年の言っていることは、なんとなくだがわかった。それはつまり、母はまだ生きていて、なら助かる余地があるのかもしれない――そう考えて、
「助からないよ」
「―――」
全て見通しているとでも言わんばかりに、少年は首を振った。
「残念だけど助からない。きみのお母さんの肉体はすでに
本来なら母親としての記憶どころか人格すらないはずなんだけど、どういうワケかうっすらとだけ表層に出てきている。
「でも、何か手は……ない、の……?」
縋るような声。もう何度もお終いだと理解して、噛み締めて、飲み込んだはずなのにまだ諦めきれないという未練がましさに涙が溢れてくる。
それでも、聞かずにはいられなかった。現状で、物知りな彼の口から真偽を聞くまでは。
「きみは勘違いしている。ボクはきみの味方じゃないよ」
しかし、返ってきたのは、そんな辛辣な言葉だった。
「……っ」
「ボクはね……気になるのさ」
止まっていた足が歩み始める。コツコツと、靴音が炎の中に紛れた。
「母を、家族を、故郷を魔王に奪われ、魔王の気まぐれで一人生き延びたきみが、どういう未来を築くのか。少しだけ興味があるんだ。
絶望するのかい? 希望を胸に秘めるのかい? それとも復讐を、あるいは何もかもを諦めて売女に堕ちる?
まあなんでもいい。ボクはまだきみに期待していない。将来性はありそうだと判断しただけ。だから、きみを見逃そう」
テレジアの正面で
その嗤いには、おおよそ感情と呼べるもの、その全てが凝縮されていた。
愛情、劣情、憎悪、絶望に喜怒哀楽と
まるで腹を抱えながら泣いているようなその歪んだ形相に、テレジアは体を凍らせる。
恐ろしい。押し潰されそうだった。
一介の人間種であるテレジアに、魔王二柱の膨大にして強大すぎる霊格は毒以外のなにものでもない。
全開とは程遠く、抑えられているとはいえ前後から挟められ、テレジアの魂は致命的に損傷を受ける。
胸の奥に穴が空いてしまった感覚。そこから、何かが流れて、失っていく―――
「どうか輝かしい未来を紡いでよ。そしてその果てに、ボクを楽しませてくれ。きみじゃなくてもいい。きみの血を連ね、重ねて鍛え、満を辞して磨き上げた子孫という刃でボクの胸を裂いてくれ」
それは魂の情報。生まれつき備わっている、これより磨かれ尖っていくはずの
俗に、才能と呼ばれるそれらの一部が、彼女の
「忘れないで、小さき花のテレジア。きみは、憎むべき魔王に命を救われたんだ」
フードの奥で、灰色の瞳がテレジアを射抜く。邪悪に歪められたその貌が、朧げになっていく。
意識が、保てない――
「その名を、ヴァルカンという。知る人からは、第七位魔王と蔑まされている業の深い名だ。まあ、兄弟共々よろしく頼むよ」
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