023 テレジア・リジューは呼び覚ます。
「出で参れ――
そして謳われた解号が、彼女の奥底に縛り付けていた
吹き荒れる極黒の
研ぎ澄まされた濁流のような
彼女を中心として流出する
「ごめんあそばせ、劣等種の皆さん。そしてご機嫌よう、
そこに、侍女姿のマリィ・フランソワーズはどこにもいなかった。
黒く静かに
総じて気品があり、蠱惑的で魅力に溢れ、傾国の美女と呼ぶに値する容姿と風格を兼ね備えているが反対に、破滅的で暴虐に満ち溢れ、死や嘘、売春婦のような危うさをも内包している。
まるで朝と夜が同時にやってきたかのような出鱈目さ。砂漠で雪が降るような荒唐無稽さが、目の前で起きていた。
今ここに、マリィ・フランソワーズはどこにもいない。
そこに居るのは、一柱の悪魔だけ。
天も地も喰らい散らかさす貪欲にして強欲の王。その上部に漆黒の太陽を侍らせて、彼女は聖女の微笑にも似た嘲笑を浮かべて、
――
「
彼女より、上へ流れる黒い液体が黒穴に帰結する。
太陽にも似た極黒の渦。
たとえ光であってもその暗闇から這い出ることすらできないと思わせる、底なしの暗黒。
それが、一斉に蠢いた。
そう、蠢いている。漆黒の太陽を構成するその一つひとつが、形を変えて蠢きはじめる。
それに付随するように、煩わしい不快音が轟いた。
「謳え
それは虫だった。無数もの蝿だった。太陽と見紛うほどの巨大な黒穴を形成していたのは、数えることすらできない蝿の大群だった。
「出で参れ。そして進軍せよ――喰らい尽くせ」
下された
怖気の走る不快音を撒き散らし、蝿の軍勢が西の軍勢に喰らいつく。止まることなく、速度を緩めることなく進軍は轟き、やがて過ぎ去った後には骨すら残らない。
地に押し付けられた靴跡だけが、そこに魔人兵がいたことを証明していた。
「――なに、これ」
誰かが呟いた。そして、消えた。
その圧倒的な物量の前では、抵抗も陣形も意味はなさず。
西の軍勢は消失し、うねりを上げて北の軍勢を横っ腹から食い破る。そのまま弧を描き、東の軍を犯し、南の軍勢をも
「これが私の武器……ッ! これが私の悪魔……ッ! 私の
鼓膜を不愉快にも満たす羽音と、そこから紛れる魔人種の断末魔。悲鳴。それら大虐殺の中心で、テレジア・リジューは声を震わせた。
「かくして魔王殺しは為される……震え慄けよ、ガタガタと
「まあ。同性とは思えないほどに恐ろしいお顔」
スッと音もなく地上に舞い降りた一組の主従は、テレジアたち人間種の前で呑気にも椅子に座り直した。
そして用意される、もう一つの椅子。
向かい合うようにして設置されたそれらを見て、エレオノーレが呟いた。
「……お茶会?」
「銀髪のあなた。あなたがそちら人間種の代表とお見受けしました。わたくしとお茶でもしませんか?」
瑞々しく澄んだ流水のような声音が、敵意のカケラもなくティーカップを持ち上げた。
着々と、無言のままお茶会の準備を始める老執事。すぐそばで、たくさんの魔人種が虐殺されているというこの状況で、目前の女は平静と液体を喉に流した。
「……どういう了見かな? この私が、魔人とお茶を交わすとでも本気で思ってるワケ?」
「自ずとわかります。そうするしかないのだと。それにわたくし、争い事がお嫌いでして」
「争いが嫌い? だったら首をくくれ。お前が魔人種である限り、私はお前が死ぬまで何度でも鉄槌を振り下ろす。何度でもだ」
テレジアと入れ替わるようにして、マリィが一歩前に出る。ただそれだけのことで、女が呑気にも口にしていたカップにヒビが入った。
「どうしてそう、人間種は野蛮なのでしょうか。わたくしはただ、一緒にお茶でもどうですかと誘っているだけなのに」
「わからないかな……イカれてるよ、お前」
「うふふ……それをあなたが口にしますか。テレジア・リジュー」
「……なぜ、私の名前を――」
問いただすよりも早く、蝿の軍勢が空を埋め尽くした。即ち、十万の軍勢は一匹残らず彼らに喰われたということ。
残すは、目の前の主従のみ。
「西も喰らった。北も喰らった。東も喰らい、南も喰らい潰した。さあ、
マリィが嗤う。彼女の命令一つ、指先一つで上空を埋め尽くす那由多の蝿が、気取った二人の魔人を飲み込むだろう。
圧倒的戦力。覆らない勝敗。逆立ちしようが負けるはずのない盤上で、しかし目前の女に危機感などなく、むしろ全て視てきたかのような表情でティーカップをテーブルに置いた。
「西を喰らった? 北を喰らった? 東を喰らい、南を喰らい潰した? ふふ、ええ。ええ。まだ
「―――っ」
「申し遅れました。わたくし、
*
「――魔力の供給、か」
唇が糸を引いて離れる。甘い香り、ねっとりとした感触。唇と舌が蕩けるように熱い。
「供給って……そんなこと、できるんスか?」
「……古くから、
「なんだそのどエロい儀式。どうせ老人が若い女と寝るためだけの口実だろうがよ」
さっきも聞いた声。会話。デジャブとはまた違う、鮮明なソレに体の奥底から震えが走った。
「………」
「あー、せっかくロベリアが珍しく喋ったのに、お前がそんなこと言うから黙っちまっただろ」
「はぁ? あたしのせいかよ、ていうかどっからどう見てもどエロいだろその儀式ッ!」
「騒がしいぞお前ら。状況を考えろ……お嬢?」
アルマの声が鼓膜を揺する。私は、侍女姿のマリィの肩を掴んだ状態のまま、中空を
「……時間を巻き戻したか、シュティーナ・オールソン・ミカヌエル……ッ」
返答は、彼女の薄く細まった瞳だけ。しかしそれだけで十分だった。
「マリィ、キミは覚えてる?」
「はい。ギリギリで防壁が間に合いました。とはいえ、私とお嬢様だけですが」
喰らい潰したはずの跫音が鳴り響く。砂煙がまるで嵐のように吹き荒れ、すぐそばまで熱気とともに迫って来ていた。
臨戦態勢に入ったアルマたちの表情から察するに、さっきまでの記憶があるのは私とマリィだけ。さらに——
「それともうひとつ……消費した魔力が戻っていないようです」
「……チッ。席につくしかないって、こういうことか」
全てがすべて計算尽くってワケではないだろうが、おそらくシュティーナの予想の範疇。時間が逆行していることに気が付けたのは不幸中の幸だった。
もし仮に、逆行に気がつかず同じように対処していたら、魔力切れとなって致命打を受けていたかもしれない。
「おいお嬢。時間がないぞ。戦うのか、逃げるのか……命令をくれ」
「アルマたちに説明を……してる暇はなさそうだな」
「はい。何度喰らっても時を戻されるのでしたら、やるだけ無駄。それどころかこちらの魔力を消耗するだけです」
「それは向こうも同じはず……けど互いの魔力総量がわからない以上、危うい賭けだ……」
「とはいえ、どこかに
「そう簡単じゃないだろうね」
うなずくマリィ。私は、笑うしかなかった。
「はぁぁぁ……嘘でしょ。まさか殺しきれないなんて……」
「お嬢……?」
「みんな、喉乾いてない?」
「「「「は?」」」」
唐突な私の提案に、エレオノーレを含めた四人が頬を引き攣らせた。私も同様に、頬を引き攣らせながら両手を上げて、
「おーい、シュティーナ・オールソン・ミカヌエル。特別だぞ、話し合いに応じてやる」
「——懸命な判断ですね」
またしても、音もなく地上に降り立った女と老執事。構えるアルマたちを手で制して、私は肩をすくめた。
「なにか言いたいことでもあるって顔してるけど。お茶の前にテーマでも聞いておこうかな」
「取引をしましょう」
そう、即答したシュティーナは椅子に深く腰掛け、ティーカップを持ち上げた。
「わたくしとあなたで、魔王を滅ぼしましょう。きっと、互いの手は取り合えるはず」
確信したような笑みで、シュティーナはあえかに
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