023 テレジア・リジューは呼び覚ます。

「出で参れ――地を這う蟲の王ベルゼビュート



 そして謳われた解号が、彼女の奥底に縛り付けていた魔力存在を呼び起こす。


 吹き荒れる極黒の魔力殺意

 研ぎ澄まされた濁流のような魔力暴威

 彼女を中心として流出する魔力嘲笑が、やがて彼女の姿を映し出す。


 

「ごめんあそばせ、劣等種の皆さん。そしてご機嫌よう、お嬢様フロイライン食事破滅のお時間です」



 そこに、侍女姿のマリィ・フランソワーズはどこにもいなかった。


 黒く静かになびく、ネグリジェにも似たドレスから覗く病的な蒼白。太陽に煌めく黄金の髪は白く白く、抜け落ちたかのように雪の純白に染められていた。髪色と同じ瞳は反対に黒く塗り潰され、妖しく光を帯びている。


 総じて気品があり、蠱惑的で魅力に溢れ、傾国の美女と呼ぶに値する容姿と風格を兼ね備えているが反対に、破滅的で暴虐に満ち溢れ、死や嘘、売春婦のような危うさをも内包している。


 まるで朝と夜が同時にやってきたかのような出鱈目さ。砂漠で雪が降るような荒唐無稽さが、目の前で起きていた。


 今ここに、マリィ・フランソワーズはどこにもいない。


 そこに居るのは、一柱の悪魔だけ。


 天も地も喰らい散らかさす貪欲にして強欲の王。その上部に漆黒の太陽を侍らせて、彼女は聖女の微笑にも似た嘲笑を浮かべて、


 ――うたう。



に似て金のかんむりをかぶり、翼とさそりの尾を持つ威厳の獅子」

 

 

 彼女より、黒い液体が黒穴に帰結する。


 太陽にも似た極黒の渦。


 たとえ光であってもその暗闇から這い出ることすらできないと思わせる、底なしの暗黒。


 それが、


 そう、蠢いている。漆黒の太陽を構成するその一つひとつが、


 それに付随するように、煩わしい不快音が轟いた。



「謳え蝿声さばえ。這い擦れ那由多の軍勢。天の川を喰らい、地の屍を啜れ。そして築いた淫虐暴戻いんぎゃくぼうれいの果てに、我らは墜落する神を喰らう」


 

 それは虫だった。無数もの蝿だった。太陽と見紛うほどの巨大な黒穴を形成していたのは、数えることすらできない蝿の大群だった。



「出で参れ。そして進軍せよ――喰らい尽くせ」



 下された命令オーダーを喰らい、那由多もの蝿が列を為して羽撃はばたいた。まるで地上を這う流れ星のように、道示す天の河のように、あるいは命枯らす蝗害こうがいのごとく。


 怖気の走る不快音を撒き散らし、蝿の軍勢が西の軍勢に喰らいつく。止まることなく、速度を緩めることなく進軍は轟き、やがて過ぎ去った後には骨すら残らない。


 地に押し付けられた靴跡だけが、そこに魔人兵がいたことを証明していた。



「――なに、これ」



 誰かが呟いた。そして、消えた。


 その圧倒的な物量の前では、抵抗も陣形も意味はなさず。


 西の軍勢は消失し、うねりを上げて北の軍勢を横っ腹から食い破る。そのまま弧を描き、東の軍を犯し、南の軍勢をも蠅声さばえが轟いた。



「これが私の武器……ッ! これが私の悪魔……ッ! 私の悪魔デモンッ! 私だけのッ!!」



 鼓膜を不愉快にも満たす羽音と、そこから紛れる魔人種の断末魔。悲鳴。それら大虐殺の中心で、テレジア・リジューは声を震わせた。



「かくして魔王殺しは為される……震え慄けよ、ガタガタとさえずれ。お前ら一匹残らず喰らいつくしてやる」


「まあ。同性とは思えないほどに恐ろしいお顔」



 スッと音もなく地上に舞い降りた一組の主従は、テレジアたち人間種の前で呑気にも椅子に座り直した。


 そして用意される、もう一つの椅子。


 向かい合うようにして設置されたそれらを見て、エレオノーレが呟いた。



「……お茶会?」


「銀髪のあなた。あなたがそちら人間種の代表とお見受けしました。わたくしとお茶でもしませんか?」



 瑞々しく澄んだ流水のような声音が、敵意のカケラもなくティーカップを持ち上げた。


 着々と、無言のままお茶会の準備を始める老執事。すぐそばで、たくさんの魔人種が虐殺されているというこの状況で、目前の女は平静と液体を喉に流した。



「……どういう了見かな? この私が、魔人とお茶を交わすとでも本気で思ってるワケ?」


「自ずとわかります。そうするしかないのだと。それにわたくし、争い事がお嫌いでして」


「争いが嫌い? だったら首をくくれ。お前が魔人種である限り、私はお前が死ぬまで何度でも鉄槌を振り下ろす。何度でもだ」



 テレジアと入れ替わるようにして、マリィが一歩前に出る。ただそれだけのことで、女が呑気にも口にしていたカップにヒビが入った。



「どうしてそう、人間種は野蛮なのでしょうか。わたくしはただ、一緒にお茶でもどうですかと誘っているだけなのに」


「わからないかな……イカれてるよ、お前」


「うふふ……それをあなたが口にしますか。テレジア・リジュー」


「……なぜ、私の名前を――」



 問いただすよりも早く、蝿の軍勢が空を埋め尽くした。即ち、十万の軍勢は一匹残らず彼らに喰われたということ。


 残すは、目の前の主従のみ。


 

「西も喰らった。北も喰らった。東も喰らい、南も喰らい潰した。さあ、大旆を掲げる者フライコールに残ったのはお前たち二人だけ。どうする? 泣いて命乞いでもしてみる? それとも蛆の母体にでもしてあげましょうか?」



 マリィが嗤う。彼女の命令一つ、指先一つで上空を埋め尽くす那由多の蝿が、気取った二人の魔人を飲み込むだろう。


 圧倒的戦力。覆らない勝敗。逆立ちしようが負けるはずのない盤上で、しかし目前の女に危機感などなく、むしろ表情でティーカップをテーブルに置いた。



「西を喰らった? 北を喰らった? 東を喰らい、南を喰らい潰した? ふふ、ええ。ええ。まだ貯蔵量おなかに余裕がおありでしたら、ぜひご馳走を振る舞いましょう」



「―――っ」



「申し遅れました。わたくし、大旆を掲げる者フライコールを束ねております。シュティーナ・オールソン・ミカヌエルと申します。――テレジアさん、たぁんと召し上がれ♪」





「――魔力の供給、か」



 唇が糸を引いて離れる。甘い香り、ねっとりとした感触。唇と舌が蕩けるように熱い。

 


「供給って……そんなこと、できるんスか?」


「……古くから、森人族エルフにも肌を重ねて魔力を巡回させ、体内に蔓延る邪気を排出するという儀式がある」


「なんだそのどエロい儀式。どうせ老人が若い女と寝るためだけの口実だろうがよ」



 さっきも聞いた声。会話。デジャブとはまた違う、鮮明なソレに体の奥底から震えが走った。



「………」


「あー、せっかくロベリアが珍しく喋ったのに、お前がそんなこと言うから黙っちまっただろ」


「はぁ? あたしのせいかよ、ていうかどっからどう見てもどエロいだろその儀式ッ!」


「騒がしいぞお前ら。状況を考えろ……お嬢?」



 アルマの声が鼓膜を揺する。私は、姿の肩を掴んだ状態のまま、中空をめつけ叫ぶ。



「……、シュティーナ・オールソン・ミカヌエル……ッ」



 返答は、彼女の薄く細まった瞳だけ。しかしそれだけで十分だった。


 

「マリィ、キミは覚えてる?」


「はい。ギリギリで防壁が間に合いました。とはいえ、私とお嬢様だけですが」



 喰らい潰したはずの跫音が鳴り響く。砂煙がまるで嵐のように吹き荒れ、すぐそばまで熱気とともに迫って来ていた。


 臨戦態勢に入ったアルマたちの表情から察するに、さっきまでの記憶があるのは私とマリィだけ。さらに——



「それともうひとつ……消費した魔力が戻っていないようです」


「……チッ。席につくしかないって、こういうことか」



 全てがすべて計算尽くってワケではないだろうが、おそらくシュティーナの予想の範疇。時間が逆行していることに気が付けたのは不幸中の幸だった。


 もし仮に、逆行に気がつかず同じように対処していたら、魔力切れとなって致命打を受けていたかもしれない。



「おいお嬢。時間がないぞ。戦うのか、逃げるのか……命令をくれ」


「アルマたちに説明を……してる暇はなさそうだな」


「はい。何度喰らっても時を戻されるのでしたら、やるだけ無駄。それどころかこちらの魔力を消耗するだけです」


「それは向こうも同じはず……けど互いの魔力総量がわからない以上、危うい賭けだ……」


「とはいえ、どこかに対処法があるはずです。それを見つけ出すまで、魔力の限り何度も繰り返すというのも策ですが」


「そう簡単じゃないだろうね」



 うなずくマリィ。私は、笑うしかなかった。



「はぁぁぁ……嘘でしょ。まさか殺しきれないなんて……」


「お嬢……?」


「みんな、喉乾いてない?」


「「「「は?」」」」



 唐突な私の提案に、エレオノーレを含めた四人が頬を引き攣らせた。私も同様に、頬を引き攣らせながら両手を上げて、



「おーい、シュティーナ・オールソン・ミカヌエル。特別だぞ、話し合いに応じてやる」


「——懸命な判断ですね」



 またしても、音もなく地上に降り立った女と老執事。構えるアルマたちを手で制して、私は肩をすくめた。



「なにか言いたいことでもあるって顔してるけど。お茶の前にテーマでも聞いておこうかな」


「取引をしましょう」



 そう、即答したシュティーナは椅子に深く腰掛け、ティーカップを持ち上げた。



「わたくしとあなたで、魔王を滅ぼしましょう。きっと、互いの手は取り合えるはず」



 確信したような笑みで、シュティーナはあえかに微笑わらった。

 


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