022

「ツケを払わされた……とでも言いましょうか。第三は派手にやり過ぎた。結果、派手に壊滅させられた。なんともまあ、因果応報とはこのことですか」


 

 中空に刻まれたひずみが、言葉を放つかのように上下に開かれた。小陰唇のようなそれは、甲高く不快な音を奏でて二人の男女を映し出す。



「たくさんの同胞が死にましたね。たくさんの悲鳴が聞こえてきます。ええ、それはもう、鼓膜が破れんばかりに」



 予想していたとはいえ、まさかこれほどまでとは思いもよらなかった。


 第五方面軍が壊滅したとの報を受けたとき、すでに嫌な予感はしていた。それだけでは終わらないということも。


 故にどの拠点が攻撃されても迅速に動けるよう臨戦態勢を整えていたのだが、まさかたったの一時間弱で、血の気の多い特攻部隊としての特性を持つ第三方面軍が壊滅してしまうなんて。



「マクシミリアン……あなたはとても優秀な指揮官でした。七大将軍の名に恥じぬ生き様と信念を、わたくしは決して忘れません」



 玉座にも似た瀟洒しょうしゃな椅子に深く腰掛け足を組む淑女。煌びやかで露出の多い衣装を身に纏いながらも、滲み出る清らかな風格が一片たりとも淫らさを感じさせない。


 憂う視線は地上の人間種に定めながら、彼女はぽつりと口を開いた。鈴を転がしたかのような、美麗な響きが中空を満たす。



「シガー。わたくしは報いたいと願います。愛おしいみんなの命が、無駄ではなかったのだと胸を張って生きるために。未来に輝く笑顔は、ここで散った英雄たちの礎によって築かれたものなのだと。ええ、それの実現をもって弔いとしましょう。それがいいです」


天子てんし様がお望みならば、きっとかの者らも報われるでしょうな」



 女の傍ら、主人を立てるように目を伏せた燕尾服の老人もまた、控え目な意匠にも関わらず異様な存在感を放っていた。


 滲み出る脅威的な霊格。七十近い齢とは思えぬ溌剌とした肉体。隙だらけな立ち姿だというのに、どうしてか隙がまったくもって見当たらないという矛盾。


 君主よりシガーと召された執事は、目を開ける。その暴力的なまでに研ぎ澄まされた視線が、地上をめつけた。



「天子様、どうかご命令を。我ら十万の軍をもって、卑しき人間共を殲滅せよと……どうか我らにご拝命くだされ。必ずや、期待に応えてみせましょう」



 地上、第三方面軍を壊滅に追いやった人間種の逃げ場を塞ぐようにして、十万の軍が追いついた。


 東より、掲げる旗は第二方面軍を表す双頭の犬オルトロス


 西より、掲げる旗は第四方面軍を表す牝山羊キマイラ


 北より、掲げる旗は第六方面軍を表す獅身人面像スフィンクス


 南より、掲げる旗は第七方面軍を表す水蛇ヒュドラー


 そして中空、歪みの奥底から軍靴を鳴らす女王蛇エキドナの旗。第一方面軍にして大旆を掲げる者フライコールの中枢部隊。


 それらを指揮する存在こそが、高みの見物と言わんばかりに椅子に腰掛ける女だった。



「では——シュティーナ・オールソン・ミカヌエルが命じます」



 天子という称号に相応しい、妖艶にして勇敢な立ち振る舞いをもって、シュティーナは指先を遊ばせた。


 まるで琴を鳴かせるように、長く繊細な指が全十万の軍に命令を下す。



「全軍、終止符を。この悲しき闘争に終わりを」



 答礼は、十万の跫音きょうおんによって返された。超々高密度に紡がれる魔力と気概。その波濤はとうが文字通り地を揺さぶり、全軍がすり潰すように地鳴らしを巻き起こした。



 対して――



「ふふ……ふふふふ、ふふふぁぁふふぁ~ぁぁぁふふふ……っ」


「お……お嬢……?」


「壊れた……お嬢が、変な笑い声をあげている……ッ」



 フリージアとルドベキアが、まるで隠れるように両手で顔を覆ったテレジアを見てさらに表情を歪ませた。エレオノーレも同様に、唇を噛み締めながらテレジアを見つめている。


 そのような状況下であっても冷静だったのは、無口な弓兵ロベリアと、彼らの上司であり戦友でもあるアルマ。そしてテレジアの侍女であるマリィだけだった。



「お嬢、何か策があるって顔だな」


「ふ、ふふ、ふふ……アルマ……どうしてそう思う?」


「こんな状況だってのに、とても嬉しそうだぞ」


「そう見えるかい?」


『!?』


 

 マリィを除くその場の全員が、手を取り払ったテレジアのカオを見て怖気を覚えた。いつもと変わらぬ破顔一笑。そこに怯えや震え、強がりといった類のイロは垣間見えない。


 ただ、そこにあるのは病的なまでの歓喜。戦場において、指揮官の余裕はたとえどのような戦況下であろうと心強い。まだ負けていない、何か策があるのだと信じさせてくれる。土壇場で、苦難を覆す力がある。


 しかし――それをわかっていて尚、歴戦の勇士たちは肌が粟立つ感覚を拭えなかった。


 もとよりおかしな女だとは思っていた。真横を矢が通り過ぎても、目前に敵兵が現れても眉ひとつ動かさず笑っていられるような女だ。おそらく、仲間の一人が死んでも弔いはしない。


 その気概に惹かれたのは言うまでもなく、かと言って彼女の全てを知っているワケではないのも確か。


 その筆頭である侍女姿の少女が、テレジアの正面に立つ。テレジアは、待っていたと言わんばかりにマリィを見下ろした。



「お嬢様」


「逃げ道は塞がれた。千軍万馬せんぐんばんば双頭の蛇アンフィスバエナとて十万を迎え撃つのは骨が折れるだろう。最悪、一人は死ぬかもしれない」



 言って、マリィのあごを掴む。テレジアより頭ひとつ分ちいさいマリィは、上目遣い気味にテレジアを見つめた。桜色の麗しい唇が、光を帯びる。



「お嬢……何を、する気だ……?」


「ふふっ。もちろん、私は一貫しているよ。むしろ手間が省けたと踊り出してしまいそうだ。絶望するにはまだ早い。いいや、この程度のことで絶望してくれるなよ。フリージア」


「お嬢……絶望するなって……手間が……省けたって、お嬢……十万だぜ?」



 目を見開き、喜色満面のフリージアが震えた声で言った。



「どうする気だよ……どうすれば勝てるんだよ……どうすればこの地獄のような状況を覆せるんだよ……ッ?!」


「フリージア。キミも案外、ゲテモノ好きだね」



 迫る十万の進軍。一秒と時間を刻むたびに、甚大にして膨大な圧に身が軋む。時間は一刻とない。魔法や矢による遠距離攻撃がないことだけが、幸いだった。



「答えは単純。策と呼べるものなんてないしこれを策と呼んだら世界中の策士を敵に回してしまう。総じて、私には武に関する全般に才がないらしいからね。機転など利かせられないのさ」



 故に、手札を切る。身銭を切る。



「私はまだ、武器つるぎを抜いてすらいない」



 言ってしまえば、アルマたち双頭の蛇アンフィスバエナはただの保険であり、足枷。


 彼女つるぎを抜かなくて済むようにと、そういった意味をもこめて雇っていた。


 なぜなら、ソレはあまりにも――あまりにも、喰らい過ぎるから。



「しっかり目に焼き付けておくといい。私の切り札を」



 不敵に言って、刹那――マリィの唇へ吸い付いた。



『――なッ!?』


「――んぅっ」



 重なる唇。周囲で驚愕する気配が押し寄せたが、テレジアは構わずマリィの桜色の唇を貪った。


 二人の柔らかな唇が波のように引き合い、喰らい合い、やがて舌をも絡み合わせて唾液が行き交う。


 艶かしく漏れる水音と淡い吐息。周囲に見守られながら、二人は過熱していく。



「――、か」



 糸を引き、ようやく唇を離した二人を視野にアルマが呟く。



「供給って……そんなこと、できるんスか?」


「……古くから、森人族エルフにも肌を重ねて魔力を巡回させ、体内に蔓延る邪気を排出するという儀式がある」


「なんだそのどエロい儀式。どうせ老人が若い女と寝るためだけの口実だろうがよ」


「………」


「あー、せっかくロベリアが珍しく喋ったのに、お前がそんなこと言うから黙っちまっただろ」


「はぁ? あたしのせいかよ、ていうかどっからどう見てもどエロいだろその儀式ッ!」


「騒がしいぞお前ら。状況を考えろ」



 十万の魔人兵はすぐそこまで迫っていた。もはや、逃げるにしても戦うにしても、テレジア頼み。


 アルマたちの視線を一身に受けたテレジアは、濡れた唇を袖で拭いながらマリィに命令を下す。



「マリィ――開門せよ」


御意、我が主イエス、マイ・ロード



 瞳をわずかに細め、その場の誰をも魅了する微笑を湛えたマリィは優雅に一礼する。そしてその姿勢のまま華麗にターンを決めると、迫り来る魔人種へ向かって顔を上げた。



まいれ」



 風が止む。音が消える。進軍を繰り返し、地を鳴らす十万の軍勢が示し合わせたかのように動きを止めて――やがて世界から、音が消える。


 まるで生命が一匹残らず消え果てたかのように。


 ――否。


 否、これは。


 息を、殺しているのだ。


 殺されぬように。見つからぬように。


 毛髪の一本、吐息の一つ、その全てを殺して殺されぬように。


 しかし、しかし。


 時はすでに遅く。


 廻された時を戻す術など、どこにもない。


 其れは知っている。


 其れは視ている。


 もはや、どこに隠れようと意味がない。


 決定付けられた死に――恐れ慄くのみ。



「――地を這う蟲の王ベルゼビュート



 顕現す。


 漆黒の太陽――。

 

 

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