019

 野獣の汗と血と、生臭さに覆われたそこから掬い出すように、女の声が鳴った。瞬間、視界の隅で銀閃が軌跡を描く。惚れ惚れするような一閃。次いで腰をつかみ上げていた感触が離れ、背後の男がドサッと音を立てて倒れた。


 

「な、あ……?」


「……っ?」



 何が起きたのか、理解できていないのは目前の男も同じだった。目をチカチカさせて、エレオノーレを見てから床に転がる男の首を見やり、そしてようやく、声の主へと視線を向けた。


 向けて、体を震わせた。顔面を蒼白にさせて、先まで死にかけながらもそれを感じさせない威勢を誇っていた魔人種の男が、今、たった一人の女の相貌をみて震え上がっていた。



「だ……れ?」


「私かい? 私はテレジア・リジュー。キミを助けに来たついでに、ここを浄化しに来たカッコいいお姉さんだよ」



 テレジア・リジュー。そう名乗った銀髪の長い女は、にっこりと微笑んだ。不思議とその笑顔を見て私は、身の毛もよだつ冷たい何かを感じ取った。

 

 恐ろしい女だ。笑っているのに、笑っていない。それは多分、目だ。そう見せているのは、その目だ。薄桃色の大きな目。まるで星空をそのまま宝石に落とし込んだかのような、そんなきれいな瞳。なのに、それが恐ろしく怖い。


 違う。目もそうだが彼女の口も恐ろしい。あえかに笑うその艶やかな唇に、存在そのものを食されてしまいそうな、妖しい美しさが見てとれた。歳はおそらく二十前後だというのに、有り余るほどの蠱惑に目を吸い寄せられる。


 そして服装からも違和感を感じられた。軍服のような制服をカジュアルに着こなし、肩から羽織らせた漆黒の外套にシワどころか血の一滴も付着していない。新品同様。だというのに妙にそれがサマになっていて不自然さを感じない。


 否、総じて彼女に、不自然ではないところなどなかった。歪で、酷く脆く、しかし触れれば光であろうと飲み込んでやるという重力があった。


 引き寄せられる――視線のみならず、彼女の魅力という名の重力に。私を構成するありとあらゆるものが引き摺り込まれる。


 そう、錯覚して。



「ひッ、ひぃぁぁぁぁぁぁぁぁ―――ッ!!?」



 その奇声によって、エレオノーレは正気を取り戻した。自分という肉体の中に、意識が戻る。じんわりと、額に汗が滲んでいた。



「ひぅ、ひぅ、うぅへえええええ―――ッ!!」


「はっはっは、随分と私の部下に遊んでもらったらしい。どうしたらそう、誇り高き魔人ってヤツがイカれてしまうのかねえ」


「ぁぁぁぁぁあああああ―――ッッ」



 もし奇声によって我に返っていなければ……一瞬か、あるいは永遠とも思えるその時間を、女の瞳の中で生き続けていたかもしれない。そう考えると、悔しいが発狂してテレジアに踊りかかった男には感謝しかない。



「新兵でももう少しまともな剣を振るうが――」

 

 

 カチカチと顎を上下に震わせながら、運足フットワークのカケラもない斬撃を繰り出す男。ただ腕力にのみものを言わせた非力な一撃に、しかし女は構えるどころか興味を失せたように視線を外し――



「ちょ、あなた――」



 その突然の仕合放棄に目を剥いて、思わず声を上げた刹那。



「う……げ」


「……え?」



 シュル、と視界でなにか……糸のようなモノが宙を横切った――気がした。それはたった一瞬の出来事で、錯覚、塵か何かと見間違えたのだと言われれば否定できない。しかし、では床に散らばったこの幾つもの肉片の生成方法は、どう説明すればいいのだろうか。



「ど、どうして……何も、何もしてないのに……」



 そう、女は何もしてない。それどころか戦いを放棄した。文字通り、目前の脅威から興味を無くし、女は剣を持ち上げてすらいない。


 常人の瞳で捉えられぬほどの剣速を持っているのならば、あるいは可能だろう。かの英雄アルテミシア・ファニーの基本戦闘スタイルは、抜剣術と呼ばれる術技だった。その速度はあまりにも速く、抜剣から納刀まで目で追える人物はあまりにも少ない。


 もし、目前の女がそれほどの使い手だったとしたら、納得のいく説明ができる。しかし、並外れた風格を備えているとはいえ彼女が武人だとは到底思えなかった。


 どちらかといえば軍服をまとった深窓の姫君。前線には出てこない、安全な場所で指揮官でもやっている方がらしいといえばらしい。


 ただの勘でしかない。彼女は武人ではない。ただの勘……違う。これ以上は、詮索したくないのだ。本能が、首を横に振っている。深く覗き込むと帰ってこられなくなるぞ――と。


 しかし以外なことに、ことの真相ははからずとも彼女の口から出てきた。



「ふふ、気を付けるといい。私はすでに私のものではない故、怖いこわい悪魔が傷物になるのを防いでいるのさ。不用意に攻撃を仕掛けてくると、ご覧の有様に。誰だって手に入れるなら新品がいいに決まってるし?」


「は、はあ……?」



 言っていることの半分は理解できなかったが、つまり彼女の意思とは裏腹に何者かが彼女を守っている……そういうことなのだろう。その何者かがいったいなんなのか、新たな疑問がエレオノーレの中で沸き立つが、先んじて聞いておかなければならないことがある。



「あの、その……助けてくれて、ありがとうございます……。テレジア、さん?」


「………」



 心からの礼を、不器用ながらも口にすると銀髪の彼女は、息を詰まらせたかのように固まって、次いで不自然なほどに笑顔を深めた。頭部に、女の手のひらが置かれる。



「キミがエレオノーレで間違いないね?」


「は、はい……それで、わたしを助けに来たって、本当ですか……?」


「本当だよ」



 即答に、エレオノーレは逆に困惑した。どうして、いやいったい誰が救援を差し向ける? 疑問は、尽きない。



「簡単に説明すると、冒険者ギルドは悲しい事故としてキミの除名を決めた。もう助からない、あるいは死んでいると決め付けて耳を塞いだ。よくある冒険者の末路として、お偉いさんは聞かなかったことにした」



 想像していたことだったが、改めて他人から聞かされると胸にくるものがあった。

 しかも除名?

 ではいったい、ここにいる私が戻った時の扱いはどうなるのだろう――そう、否応なく考えさせられてしまう。



「何故ならクアシャスラ王国、冒険者ギルド王都支部に千の魔人種を相手取るだけの戦力がないからだ。十年前ならいざ知れず、今は腰抜けと腑抜けと雑魚ばかりの弱小ギルドごときが、国に働きかけようとする気概なんて持ち合わせていないだろうし、たかがC級冒険者一人のために命を張る熱いバカは騎士団に取り込まれてる。

 そこで私の出番が来た――というワケ」



 ニヒルに口角を釣り上げて、テレジアは膝を床につけエレオノーレと視線を合わせる。



「私はね、魔人種が大っ嫌いなんだ。とても憎い。この世から一匹残らず滅してやりたいと思う。けどそんなことをどれだけ言葉にして想いを募らせても、魔人は消えないし魔王は死なない。なので――」



 手を広げ、意気揚々と、神に盲従する信徒のように、あるいは悪魔にそそのかされた咎人のように、テレジアは森羅万象を語るように言った。



「私が魔王を殺すことにした。魔人種を滅することにした。他の誰もがやらないのなら私がやってやろう。

 そこに見返りを求めないしメリットなんてなくていい。ただの自己満、趣味の延長線。あいつはバカだと指を差す大馬鹿は絶えないが、そいつらが日和っていられるのは私のおかげなんだと高笑いできるくらいが報酬だけれど、実にやりがいのある仕事だ」


「……っ、っ……!」



 胸が、何故だろう。胸が、心臓が……高鳴っている。まるで、胎動を始めたかのように。彼女の言葉一つひとつから滲み出る熱意に、心を掴まれる。



「そう、私はこれを仕事にしている。魔人狩り、魔人滅し隊、魔王ぶっころ騎士団……まあ肩書きはたくさんある。そんな私の元へ、どこから噂を聞きつけたのか二人の冒険者が助けを求めてきた。言わなくてもわかるね。キミの仲間たちだ」


「シナモ、クマリ……っ」


「ちょうど私も次の獲物を探し回っていたところでね。いいタイミングだった」



 瞼に浮かぶ、二人の仲間たち。よかった、無事だったんだと安堵して、思わず涙が溢れてきた。それを、手袋を噛むようにして取ったテレジアの指が掬い上げる。



「改めて、エレオノーレ。キミを助けに来た。よかった、無事で。キミを助けることができて、本当によかった」


「……っ」



 言って、エレオノーレは引き寄せられ、テレジアの胸元に落ちた。ふくよかな胸。異国を思わせるエキゾチックな香水の匂い。優しく抱かれ、エレオノーレはふと姉の姿を瞼に蘇らせていた。



「お姉ちゃん……っ」


「……。……、……っ」



 胸に顔を埋め、安堵に涙を浮かべたエレオノーレは、気が付かなかった。彼女を優しく抱き留めるテレジアの表情が、二転三転もして複雑な表情に変化していたことに。



「さて、では帰ろうか。それと申し訳ないんだけど、私の用事に付き合ってもらえるかな?」


「用事、ですか……? あのでも、せっかく助けてもらったのにアレなんですけど、わたしまだやらなくちゃいけないことが――」



 顔を上げたエレオノーレの唇に人差し指が押し当てられた。その先は言わなくてもわかる。そう言いた気な表情で、テレジアは目を細めた。



「言っただろう。私の仕事は魔人種を根絶やしにすること」


「――っ」


「そう。まだここには、うじゃうじゃと蛆のように湧いてるじゃないか。いかんな、実にいかんよこれは不衛生極まりない。私が、消毒してやらなくてはいけない」



 不吉に笑い、あえかに嗤い、とても年頃の女性が浮かべるとは思えない悪鬼のような微笑をたたえて、テレジアはエレオノーレに背を向けた。


 ひるがえる漆黒の外套。その背には、金色の刺繍が施されていた。まるで絵画のように。神話の再現のように。


 荘厳な髭を生やした老獪に一対の有翼。下半身には通常足と呼べるものがなく、代わりに幾匹もの巨大蛇がとぐろを巻いていた。不吉を示す三匹の鷲が肩に並び、七匹の獣が守護するように周囲を囲んでいる。


 そこから伝わってくる異形の力強さ、星々さえ堕としめる暴威にエレオノーレは体を震わせた。



「テュポーン……っ」



 かつて神に反旗を翻し、宇宙を破滅の片隅に追い込んだ忌まわしき天災。魔物たちの祖とも呼ばれる怪物。テュポーン。


 それを背に乗せるという業の深さに、エレオノーレは一周回って感服した。感動すら覚える。それほどの決意と覚悟が、身に染みて感じた。この人は、本物なのかもしれない。



「忌まわしい。不吉。不謹慎……されど結構。魔王を殺すためなら怪物の力だって借りるさ。悪魔にだって魂を売った」



 テレジア・リジューは笑う。



「さあ、エレオノーレ。私の狩りを見せてやろう」



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