013
四方、聳え立つ円形の崖から雪崩のごとく水流が轟き、奈落の底に沈んでいく。底のまったく見えない暗闇の奥底では、着水の音すら聞こえない。ただただ、飲み込まれるような深淵が広がっていた。
「危ないよ、やっと最終階層まで来たのに、落っこちたら元も子もない」
「え、ええ、ありがとう……。でも、子ども扱いしないでくれる?」
「してないよ。立派なレディだ、テレジアは」
「そういうのを子ども扱いしてるっていうのよ、まったく……」
幾度かの激戦を繰り広げて、私たちは欠けることなく、ようやく……本当に、ようやく最終階層に辿り着くことができた。
疲労困憊を通り越して、体の節々に感覚がない。気を抜けば、その瞬間に倒れてしまう――それはきっと私だけじゃない。にへらと笑うマグノリアも、わずかに体を震わせていた。
「……迷宮の最深部なのに、空……?」
「もう時期、夜明けか。よくもまあ、一日足らずでここまで来たものだよ。地図があるとはいえ、無茶をやらかした」
「はぁぁ、もうしばらくは迷宮に入りたくないし、名前すら聞きたくない……」
上空を見上げながら嘆息するアベリア。私も、彼女の視線を追って、息を呑む。
迷宮の最終回層にもかかわらず、そこには夜空が広がっていた。
丸く切り取られたような空。瞬く黄金の星光。
まるで夜空から滝が溢れているかのような、不思議な光景だった。
そしてガーベラ教官の言う通り、夜明けが近いのだろう。空の端が、わずかに瑠璃色に変わっていた。
「迷宮を脱出しよう。転移陣は、目の前だ」
「……ええ」
「そうね……」
「うむ。とっとと帰るぞ」
リリウム迷宮の最終階層は、どこの階層と比べても非常にシンプルな構造だった。入口から伸びた一本道の先に、転移陣のある円形の足場。ただそれだけで、魔物の姿も人の気配もなにもない。
一本道はそれなりに広いとはいえなかった。四人がギリギリ並んで歩ける程度の横幅で、柵も
「あれが……転移陣……」
そして二百メートルほど前方、四十階層の闘技場を模したその足場の中央で、一つの魔法陣が淡く光っていた。
「あれで、迷宮を脱出することができるんですよね?」
「ああ。よくやったよ、お前たち。よくここまでたどり着いた」
私の問いに頷いたガーベラ教官が、ニッと笑みを浮かべた。私たちは、ようやく帰れるという安堵感で肩をすくめた。
「だがお前たち、迷宮を出てからも忙しいぞ。王国までの半日という距離を、休む間もなく走らなければならない。そのあとはことの経緯を説明したり、私の勇士を伝えたりとだな」
「教官、そうやって強い女アピールするからモテないんですよ」
「な…………に…………?」
「そうそう、男って守ってあげたい女に惚れるから。騎士を狙うなら尚更ですよー?」
「……ッ」
マグノリアによって開かれた亀裂に、アベリアが追撃する。さすがはビッチと、したり顔で腕を組むアベリアを罵ってやりたいが、それは帰ってからにしよう。
転移陣との距離が、百メートルを切った時。
不意に、アベリアと先頭を歩いていたガーベラ教官が、後ろを振り返った。
「……貴様ら、先に行け」
「きょ、教官?」
有無も言わず、ガーベラ教官は私とマグノリアの間を通って後方に立つ。何か嫌な予感がして、まさかと口を開いたその時だった。
「――よォ。やっと会えたな、テレジア。カカッ、取り逃したかと思って半ば諦め気味だったンだが、来てみるモンだなァ」
「ヴァレリア……ッ」
私たちが通ってきた入口から一人の男が現れた。悠然と靴音を鳴らし、髪色と同じ漆黒の外套を靡かせた長躯の男。細身でありながら内包する威圧感は常軌を逸し、彼を一回りも二回りも大きく見せた。
知らず、震えていた唇を噛む。
油断していた……ワケじゃないが、危機感が欠如していたのは否めない。
たとえ、転移陣を前にしたとしても、この迷宮にあの男が居る限り……安全な場所はない。そう、私の中の本能が嘯いた。
「見ねェ顔のサルが二人ばかし居やがるが……ウチのランデルをやったのはテメエらで、間違いねェな?」
確信したような口振りだった。獣のように獰猛な瞳で射抜かれた私は、呼吸が止まりそうになる。けれど、隣にはマグノリアがいる。ガーベラ教官もいる。アベリアはまあ、あまり大きな戦力とはいえないけれど、四人で戦えば、勝てない相手じゃない。
「馬鹿なことを考えるなよ、貴様ら」
鞘に伸ばしかけた手が止まる。ガーベラ教官は、こちらを一瞥することなく言った。
「転移陣に向かって走れ。私が時間を稼いでやる」
「な――ッ?! 何を、教官!? 私も一緒に戦います!」
「馬鹿いえテレジア、落ちこぼれの貴様がいても邪魔になるだけだ。マグノリア、貴様ならわかるだろ?」
「……ですが」
「貴様と共闘して斃せるような相手なら、こうは言わん。私だって、死にたくはないからな」
「――っ」
教官が、何を言っているのかわからなかった。
「教官……一緒に、帰りましょう……婚活、手伝いますから……っ」
「そ、そうですよ、教官……! 全力で走れば、みんなで逃げられますから……っ!」
「………」
私とアベリアの言葉に耳を貸さず、ガーベラ教官は剣を抜いた。マグノリアは、何も言わず唇を噛み締めていた。
「貴様たちは、優秀な騎士だよ。もう見習いとは呼べぬほど、この数時間で立派になった。誇りに思うよ」
「……きょう、かん……っ」
「行け。マグノリア、引きずってでも連れて行けよ」
「――っ、っ、……ご武運を」
悔しそうに顔をしかめて、マグノリアが私の腕を掴んで走り出す。私は、教官の背中に手を伸ばした。
「教官!?」
「っ、の、喚くんじゃないわよテレジアッ!」
アベリアが、教官に向かって伸ばした私の手を強引に掴んで走った。
二人に引っ張られながら、私は後ろに顔を向けた。ガーベラ教官と、ヴァレリアとの距離が縮まっていく。戦闘が、始まる。
「教官の覚悟を無駄にしないで、テレジア」
「でも、それじゃ教官が――」
「あなたまで死なせるわけにはいかないの」
真剣味の帯びた表情で、マグノリアが言った。
「無駄死にしないで……お願いだから」
「……っ」
目尻から溢れた涙。私は、もう何も言えなかった。ただ、ひたすらに足を動かして、ようやく――私たちは魔法陣にたどり着いた。
「これで、帰れる――ッ」
アベリアが転移陣の上に足を踏み入れようとした瞬間だった。突然、発光を始める転移陣。青白い光がアベリアの目前で弾けて、
「うむ? ついつい、反射的に切り捨ててしまった。ヴァレリアでなくて安心したぞ」
「――ぁ」
蒼白に、赤が混じる。膝を折り、脱力して倒れたアベリアの体から、赤い液体が広がった。
「あ、あ、あ」
「さて、これでようやく鬼ごっこも終いだな! 観念しろ、人間っ! この
一向に微動だにしないアベリアの横で、赤いドレスの魔人が剣を持ち上げた。アベリアの血で濡れた長剣。その切先が、私に向けられる。
「――遅かったじゃあねェか、バルベリト。なに道草食ってやがったよ」
背後から、ヴァレリアの低い声が響いた。私は、目に涙を溜めながら振り返った。
「状況を察するに、お主も今し方来たばかりであろう? 文句を言うでない。それに、人間どもの援軍を片付けてきたところなのだ、
「援軍だァ? ずいぶん早い到着じゃあねェか」
「うむ、随分と予定が狂ってしまった。一度、帰還して拠点の位置を再考するとしよう」
「まあ、そうだな。こちとら、一睡もできず迷宮を歩き回ってるもンで、そろそろ一服キメェところなンだ。鬼ごっこにも飽きちまったし、もうどうすることもできねェだろ。なあ、テレジアちゃんよォ」
笑声と嘲笑が左右から近づいてくる。
私は、胸に穴を開けて倒れるガーベラ教官から目を逸らせなくて……何も、できなくて。
「……ごめん、テレジア」
「マグ、ノリア……?」
マグノリアが、私を抱きしめる。強く、押し付けるように抱きついてきた。私は、彼女の背中に腕を回す。
「ごめん、ごめん……あたし、あなたを守れそうにない……」
「……ううん。頑張ったよ、私たち……」
退路はない。アベリアも死に、ガーベラ教官も死んだ。魔人を切り抜けて逃げる気力もなければ、体力もない。
今度こそ、もう、本当に……為す術がない。
「あたし、あなたに会えて、人生が変わったの。あなたのためになら、死んでもいいと思った。あなたのためなら……っ」
「マグノリア、私もだよ。あなたと出会ってなかったら、私、こうして笑えてなかった」
涙が溢れる。互いに見合わせた顔は、やっぱり涙に染まっていて。迫る死の恐怖から逃げるようにして、私たちは強く肌を重ねた。
「テレジア……あたしの、わがままに付き合ってくれないかな?」
「うん……」
「あたし、テレジアを他の誰かに殺させたくない。触れさせたくない。だから」
「――うん」
頷いて、瞬間――私はマグノリアに抱かれた体勢のまま、虚空に投げ出された。
「あたしね、テレジアのことが好きなんだ。愛してる。……おかしいよね」
「ううん……私も、マグノリアのことが――」
激しい音を奏でて奈落に吸い込まれていく滝。付随するように私とマグノリアは、真っ逆さまに落ちていった。
みんな、ごめん。
私、約束、果たせなかった。
みんな……ごめんなさい。
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