010

 リザードマンから隠れ、動く枯れ木の魔物から身を隠す。ジメジメとした暑さと疲労、セリンセから伝わる体温が、汗を分泌する。肌と服が張り付き、気持ち悪い。そこら中にある水溜りで水浴びをしたい気分だった。


 でも、そんな鬱憤も、すぐそばから聞こえてくる荒い息と苦悶の声にかき消される。顔色は、さっきより悪くなっている気がした。どこか、意識も朦朧としている。瞳に力がない。



「セリンセ、しっかりして」


「ん……ん、わた、し……死にたく、ない……」



 ぽつりと、セリンセが漏らした。前方では、大きな池が広がっていた。



「死ね、ないの……家で、妹が待ってるから……」


「妹がいたなんて、知らなかった」


「もう、妹しかいないの……お父さんも、お母さんも、労役で死んじゃった……わたしたちは、帝国から逃げてきたの」


「……そう」



 帝国。その言葉だけで、セリンセが味わってきた地獄の一部を知った。


 ゲトマリア帝国は、根強い人種主義国家だった。人間種を除くすべての種は異端だと糾弾し、魔人種は滅ぼすべき敵、獣人などの亜人種は人間種に仕える奴隷だと声高らかに謳っている。都合のいい話だった。さらには、人間種の中でも区別を図る始末。


 帝国民以外の人間種は劣等遺伝子である。


 そんなふざけたことを他国にまでしたり顔で言えるゲトマリア帝国は、なるほど大陸随一の強豪国という名に恥じない傲慢さだろう。


 そういう国に限って、魔王は手を出さない。まったく、どいつもこいつもふざけた連中ばかりだった。



「大変だったのね、セリンセ」


「えへへ、がんばったよ……」



 数百年前よりかは体制が変わり、幾分か人種主義も和らいだと聞いたけれど、それでも亜人種が生きていくには過酷な環境なのには間違いない。

 

 逃げおおせただけでも、私はよくやったと賞賛してやりたかった。抱きしめて、キスの一つや二つくらいなら注いでやりたい。



「お父さんとお母さんが、いつか帝国から逃げるために貯めていたお金を使ったの。三つ下の妹とわたしだけなら、その少ない路銀でなんとか帝国を出ることができたんだ」



 うっすらと笑みを浮かべて、明滅しかけている意識を繋ぎ止めるセリンセ。私は、涙を堪えて相槌を打った。



王国クアシャスラは獣人にも優しくて、温かった。役所のお姉さんが手続きをしてくれて、なんとか支援金を受け取ることができて……狭いけど、貸家も紹介してくれたんだ。そこで妹と暮らして……」



 大きな池を沿って左に進む。今にも朽ちてしまいそうな橋が霧の中から現れた。向こう岸に繋がるその橋を渡れば、三十一階層は目前だった。


 アベリアが先行して橋を進む。慎重に一歩ずつ進み、通っても問題ないかを見極めていた。私とセリンセは、アベリアが対岸から合図を送ってくれるのを待つ。


 セリンセは、言葉を紡ぐたびに、瞳に精気を取り戻していっているようだった。



「妹には……働かないで、学校に行ってほしい。わたし、頭悪いし……お父さんやお母さんのように重労働で死んでほしくないから。でも、入学費とか授業料とか、高くて」


「そうね。他国に比べればクアシャスラは安い方だと聞いたけど、それでも平民が気軽に手を出せるものじゃない」


「うん……だから、わたし、騎士団に入ったんだ。そうすれば多額の給付金が受け取れて、その後も安定してお給料がもらえるから……」



 対岸にたどり着いたアベリアが剣を高く掲げた。その合図を確認して、私たちは橋に足をかけた。ぎぃ……と不気味な音が鳴る。壊れないでと願いながら、私は一歩ずつ、足を前に置く。



「尚更、生きて帰らなくちゃね。給付金だけじゃ、入学金で消えちゃうし、セリンセがしっかり稼いで授業料を賄わなきゃ」


「うん……」


「それに、食費や生活費だってバカにならない。そこを考えると、ボーナスは死に物狂いでS判定を取りに行く必要がある」


「うん……」


「美味しいもの、いっぱいあるわよ。私も驚いた。マグノリアと外出した時に教えてくれたの、たくさん露天が並んでて……。次の休暇は、あなたと、妹さんも連れて……そうね、不服だけれどアベリアも呼んであげましょう。マグノリアを入れた五人で、美味しいものをたくさん食べに行きましょう」


「うん……楽しみだな。妹も……エレオノーレも、きっと喜ぶよ」



 涙を堪えるのに必死だった。どうして、世界はこんなにも残酷なのだろう。

 辛い思いをたくさんしてきて、これからようやく幸せになれる時が来たのに。

 


「元を……元を取り返さなきゃ、ダメよ。ええ、そうよ。あなたは、これからたくさん幸せにならなきゃいけないの。そうじゃなきゃ、おかしいわ……っ」


「テレジア……泣いてるの? どうして」



 セリンセが欄干に手をついて、よろよろと不確かな足取りで正面にまわった。私の頬に流れた涙を拭って。

 

 お門違いだというのは、わかっていた。けれど、止まらなかった。対照的に、セリンセは笑っていた。


 私なんかよりも辛いのに、痛いのに、理不尽だと叫びたいに決まってるのに、セリンセは、私の頬に手を伸ばす。



「テレジアは、やさしいね。ありがとう、いつも……助かってたんだ」


「セリンセ、私は……っ」


「あなたはブレないから、心強かった。密かに、憧れてたんだ。わたしも、テレジアみたいに強く在れたらいいなって……えへ、そうしたら、妹にもっと尊敬してもらえそうじゃない?」



 私は、強くなんかないよ。いつもアベリアにボコられてるし、マグノリアがいないと笑うこともできなかった。魔王を滅ぼすとか言ってるくせに、魔人から逃げるのに精一杯ときてる。それに、それに……。



「おかしいよね。テレジア、実技だと私より弱いのに……魔人に襲われた時、真っ先に飛び出したんだから。きっと、あの時、テレジアがそうしてなかったら、今ごろわたしたちみんな死んでた」



 だから、ありがとう――セリンセは、とても綺麗に微笑んだ。



「テレジアは、大丈夫だよ。きっと勝てる。負けないよ。――っ、だから」


「え」



 水が割れる音。突き飛ばされた私の目の前で、セリンセが連れ去られた食われた

 


「―――」



 盛大に打ち上げられる水飛沫。鉛色の、巨大な魚だった。弧を描くように橋の上を跳ねた巨大魚が、セリンセを――



「あああああああああああああああああああああ―――ッッッ!!?」


「テレジア……テレジア、早く逃げるわよッ!?」


「セリンセを、セリンセを返せぇぇぇッ!! ぶっ殺してやる、くそ、出てこい――くそぉぉぉぉッ!!!」


「テレジア!! あなたまで失ったら……私、どうすればいいのよ!?」


「私を食ってみろ、私を食ってみろよッ!? セリンセを、どうしてセリンセなんだよぉぉぉ――ッッ!!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る