006

「あ、あ……ッ」


「カカッ、イイねえ。イイ反応してくれるじゃあねえの。こっちも暇してたんだ、少しくらい遊んでってくれやァッ!」


「――うゥッ!?」



 長身の男は、短い黒髪を揺らして咆える。地を蹴り、男は一番近くにいたバウエラへ蹴りを放った。ほぼ反射で防御の構えをとったバウエラだったが、その守りごと振り抜かれ、剣が破砕。呆然とした表情に、男の手が吸い込まれた。



「一番まともそうな男がこんなモンかよ。つまらねえ、そこで派手にコキやがった騎士よりかはうまそうかと思ったンだが……オレの見込み違いか?」


「あ、が、やめ、やめろ、離せッ」


「ハッ、懇願してンじゃねえよテメエ、それでも男かよ。離して欲しけりゃなァ、自力でなンとかしやがれサルがァッ」


「―――」



 顔面を掴まれたバウエラが、力任せに地面へ叩きつけられた。地面にちいさなへこみを形成し、そこから赤黒い血と目玉が飛び跳ねた。



 ――何が、起きているのだろう。



 まったく、目の前で起きている光景が理解できなかった。

 死んだ?

 バウエラが?

 ファセリアちゃんも?

 どうして? 

 ……わからない。


 理解が、追いつかない。

 ただ、目の前で、誰も悲鳴を上げることもできず、思考を停止して、黒髪の男を見つめていた。


 そう――黒髪だった。



「――く、ろ」



 胸の奥底で、心臓が確かに脈打った。次いで、熱が込み上げてくる。吐気にも近い嫌悪感。忌避感。視界がクラクラしてしまうほどに体温が上昇し、全身の総毛が逆立つ。



「……さ、なきゃ」



 黒髪は、



「殺さなきゃ」



 なぜなら、黒髪は。



「魔人は――殺す」



「――あ?」



 瞬間、私は駆けていた。


 アベリアへと手を伸ばしていたその魔人へ、私は剣を駆る。おそらく過去最高、自分でもどうやったのかわからない速度で抜き放たれた剣は、しかし魔人の腕を浅く切りつけるだけに留まった。


 

「な……っ!?」



 驚くべきは、その強度。決してなまくらではない鉄剣の刃が、まったく通らない。まるで城壁に切り込んでいるかのような、常軌を逸した硬さ。



「威勢はいい。度胸も及第点だ、しかしテメエ……舐めてンのかゴラ、もらってやったってのに腑抜けた斬撃見舞ってンじゃあねえぞォォッ!?」


「――ッ」



 鉄剣を振り払うこともなく、容赦なく顔面に向かって振り抜かれた拳。間一髪のところで避けられたのは、アベリアが執拗に目を狙ってきたおかげで攻撃の方向性がなんとなく感じることができたから。


 私の髪を穿ち、通り抜けていく拳。恐ろしいことに、当たっていないのに頬が深く切れた。滲み出る血。しかし、今さらそんなモノで臆す私じゃない。


 死ね。



「――死ね」



 魔人は、ことごとく死に絶えろ。



「死ぃぃねえええぇぇぇッ!!」


「カカッ――人間にしておくにはもったいねえ、最高だな女。気に入ったぜ、オイ」



 全身全霊、渾身の力を込めて振り下ろした一撃は――魔人を絶命に至らせることはなく。魔人が羽織っていた外套に切れ目を入れるだけに留めた。



「名乗りな、女。オレぁ、ヴァレリア・ルスチアーノだ」


「……テレジア・リジュー」


「テレジアか。おぼえたぜ」



 鼻と鼻が触れ合うその距離で、ヴァレリアは舌舐めずりをしたかと思うとおもむろに踵を返した。


 ……退くつもり?


 一瞬、胸中で淡い希望が灯った。灯って、自分を恥じた。



 ――何を安堵している、私。魔人が……目の前にいるんだぞ!!



 両親を、故郷を滅した魔王とは、おそらく関わりのない魔人種だ。しかし、だからどうした。魔人種は忌むべき存在。魔人種が存在するから、争いが終わらない。それに、コイツは目の前で、二人も……殺したのだ。


 退くだと? そんなこと許されてなるものか。今ここで、確実に殺す。


 だから――



「残念ながら、テメエらはここで殺さなきゃならねえ。本来ならオレぁ、気に入った相手は逃がしてやるンだがよ……今回ばかしは事情が事情でな」



 再び曲がり角まで後退したヴァレリアは、振り返る。どうやら退くつもりはないようだが、ではなぜ距離をとったのか?



「しかしまあ、アレだ。惚れた弱みってヤツだな。できるなら殺さず、覚醒を煽りてぇオレは考えたワケよ。――イイ感じに追い詰めてやるから、必死に逃げろや。サル共」



 ゾワリと――全身の肌があわ立つ。


 本能が叫び散らかす。逃げろ、逃げろ――今すぐ逃げろ、と。

 

 そして案の定、私は今すぐ逃げなかったことを後悔した。

 判断を、誤った。

 私が、一番近くで感じていたはずなのに。



「死圧に揺蕩たゆたえ――」


「――みんな逃げてぇッ!!」


黒穴の特異点シュワルツシルト・コラプサー



 叫び、全速力で私は踵を返した。すぐそばに立っていたアベリアの腕を強引に掴み、走る。走って、背筋をなぞる冷ややかな殺気に、体を震わせる。



「て……てれ、じあ……、なに……これ」


「……っ」



 アベリアの震える声を聞いて、私は走る速度を緩めた。振り向きたくなかった。けれど、確認しなければならなかった。だから、私は背後を振り返った。



「み、ん……な」



 私の叫びに反応できたセリンセともう一人を残して、その全てが消えていた。


 まるで巨人に踏み荒らされたかのようにぐちゃぐちゃになった地面。血痕や毛髪一本残さず、この世から消えていた。



「ハッハァッ!! 最ッ高だなァ……その表情を見れただけでオレぁ、本部に帰ったっていいンだがよォ」



 曲がり角から一歩も動いていないヴァレリアが、腹を抱えて笑っていた。満足そうに、目の端に雫をためて、その惨状を笑う。



「あ、あ……ああぁっ!?」


「っ、セリンセ、立って!!」


「て、テレ、テレジア……っ!!」



 地べたに尻をつけて、腰を抜かしているセリンセに駆け寄る。彼女の傍らには、誰かの腕が落ちていた。綺麗に切り取られたかのような、女の子の腕。それが誰かを特定するには、あまりにも時間がなさすぎた。


 早く逃げなければ。

 ガクガクと体を震わせ、失禁したまま動けないセリンセを無理やり担ぎ、私は後方へ走った。



「プリムラは大丈夫!?」


「う、あ、あ、うん、大丈夫、けど――」


「いいから、全速力で走りなさいッ」



 半ばパニックに陥っている小柄なプリムラの腕をアベリアが掴み、先導して走る。



「女のケツを追うのは久しぶりだな。久しぶりに追う側の気持ちってヤツを堪能させてくれや」



 下卑た笑みを浮かべたヴァレリアが走り始めた。ちいさな悲鳴を上げるプリムラとセリンセ。アベリアは、顔面を蒼白にさせながら走る速度を上げた。



「ど、どうすんのよテレジア!?」


「逃げて、他の班と合流するわ!」


「それでなんとかなるの!?」


「できなかったら迷宮を出て、応援を呼ぶしかない、わね……っ!」



 それは、最悪のパターンだった。しかし、信じるしかない。少なくとも、あと三人は現役の騎士がいて、マグノリアだっているのだ。四人がかりなら勝機はある――



『ぎぃやッ!!』


「――ひやぁッ!?」


「プリムラ―――ッ!?」



 走るプリムラの腹部に、錆びたナイフが突き刺さる。物陰に隠れていたゴブリンが、横から強襲してきたのだ。


 プリムラにしがみつき、錆びたナイフを押し込むゴブリン。吹き出す血液。さらに三体のゴブリンが、物陰から押し寄せてきた。



「た、助け、たすけてアベリア―――」


「……っ、!!」


「いや、嫌――いやあ、たすけてアベリアぁぁぁっ!!?」



 手を離すアベリア。血を這い、ゴブリンに組み伏せられたプリムラ。そのさらに後方で、嘲笑を上げるヴァレリアの姿があった。



「……ごめん……ごめん、ごめんなさい、プリムラ……っ!」


「………っ」


「もう、やだ……やだよ、やだ……っ」



 涙を振り撒きながら必死に走るアベリアと、恐怖に顔を歪めるセリンセ。私は、セリンセの額に頭突きした。



「ひゃがッ!?」


「セリンセ、死にたくなかったら自分の足で走れッ! 絶望するなら死んでからにしろッ!」


「……っ!」



 痛みが恐怖を上回ったのか、セリンセは唇をへの字にしながらも頷いた。そして私から離れ、涙を拭いながら走る。



「はぁ、ぁ、っ」



 セリンセの体重がなくなり、幾分か走るのが楽になった。けれど、失った体力は戻らない。脂汗が額に浮かび上がり、心臓が破裂しそうなほど痛かった。もはや、肩を並べて走る二人の安否も確認できないほどに。


 今すぐにでも襲われるかもしれない――その恐怖に追われながら、走って、走って、そして前方に見知った顔を見つけた時、私は涙が出そうになった。



「――コリウスっ!」


「―――」



 前方のカーブの奥。剣を抜いた状態のコリウスが、私の悲鳴にも似た呼びかけに反応して目を剥いた。

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