『裸婦』3

 成美先輩の絵は写実的で、とにかく「綺麗だな」という印象を受ける絵だった。けれど卒業制作では「もう少し荒れたい。荒らしたい」と語ってくれた。私はいつもの先輩の絵が好きだったので不安もあったが、応援することにした。


 ひたすら二人、特訓と称して毎日アトリエで絵を描いた。先輩は急激に技術を高めていった。いや、それは美術部の顧問や他の部員の評価で、私の目にはどんどん感性が研ぎ澄まされているというように見えた。


「大人になってる気がする、アトリエに居る間は」


 アトリエと相性が良かった、と先輩は漠然と捉えていた。その正体は、多分匂いだ。先輩を誘うにあたって必死に消臭したが、染み付いたタバコと酒の匂いが微かに残っていた。


 そしてついに、成美先輩に本気のお願いをする時がきた。

 勿論、ヌードモデルの依頼だ。

 この為に特訓中、少しずつ意識を慣らしていたのだ。お互いの肖像画を描き、徐々に大きくポーズをとってもらうように指示し、服装も出来るだけ脱いで薄着にしてもらっていた……少し早めの暖房もつけた。


 先輩は初めて来た時と同じカウンター席に座り、床に座る俺を見下ろしていた。スムーズに土下座に移行できる体勢である。身長が高いこともあり、先輩の胸はやや小ぶりに見えるが、柔らかそうだなぁと思いながら眺めていた。少し泣きそうな、悲しそうな顔でぐっと唇を噛んでいたが、やがて大きく息を吐いて


「……コーヒー、沢山淹れてくれたから、その分くらいは、いいよ」


 と言ってくれた。


「ありがとうございますっ!」

「ただし下は隠すから。あと絶対に触らないで」

「勿論です!ありがとうございます」


 かわりにお前も脱げ、とは言われなかった。振り返ってみると、頼み続けて7ヶ月のことである。先輩は確かに力をつけた。しかし自身の創作に何か引っかかっているようだった。先輩の中に、何か挑戦したいという欲を感じた。だから今しかないと判断し、今日は大事な話があると先輩を呼んだのだった。


私の願いが成就したのを見届けたかのように、病が再発して入院していたあの親戚が亡くなった。これで本当にうちの土地になったのか。あまりのタイミングの良さに、家で訃報を聞いて思わず笑ってしまった。あの人を嫌っていた母も笑った。父だけがぶすっとした渋い顔をしていた。


 了承を得た翌々日、いよいよ成美先輩に脱いでもらう。裸を見せていただく。無論、美の探求の為に。計3日間、デッサンさせてもらう。私の筆の速さなら1日で必要分終わらなくも無いが、そこはゴネた。折角の機会なので色々実験したいのだと。


 カウンターの裏で先輩が脱ぐ音がする。店内にBGMは無い。金具が外れるような小さな音もよく聞こえる。


 普段は掛けない店の鍵を内側から掛けたあと、私はボックス席で目を閉じひたすら精神を統一していた。この学区の中学出身の者は、みな瞑想の方法を学んでいる。自らの呼吸のみに意識を集中するのだ。瞑想はゴータマ・シッダールタの時代から存在する健康法であり、本来宗教とは一切関係ないものだ。一旦全ての思考を消去することで頭がクリアになる。コンピュータに全てのタスクを強制終了させ、再起動させるのと同じ。約20秒の黙想で、学力テストの点数には明らかな差が出る。


 目を開けると果たして、女が身をよじるように立っていた。股間をタオルで隠している。


「準備出来ましたね。では、よろしくお願いします」

「……」

「まずこちらに横向きに座ってください」


 机を退かした壁側のボックス席に座ってもらい、デッサンを始める。1日目はオーソドックスに使い慣れたイーゼルとデッサンノートを使う。少し大きくて硬めのスケッチブックだ。右利きなので、右手で書きながらイーゼルの左側に先輩を見る形になる。美術部だと木炭で描き始める人が多いが、私はとりあえず鉛筆を使う。

 太ももの内側にピンクの線を見つける。剃刀に負けた痕のようだ。


「少し脚を開いてください」

「……やだ」

「お願いします。右の内腿が見えるように、タオルも少しあげてください」


 ほんの少しだけ、線が出てくる。全体に締まりが生まれた。

 ポーズを指示しながらガンガン描いていく。一つのポーズを20分、休憩を10分が1セット。休憩に入るとプールの授業で使う大きなタオルにくるまっている。寒くないように暖房も強めているので、水分も沢山とってもらう。今日はただの水だ。トイレは店の中、すぐそこにあるが、あまり利尿作用が高いものだと、先輩のことだからポーズ中の20分間は尿意があっても我慢してしまうだろう。それは可哀想だ。


 手早く数分で輪郭を捉えるクロッキーはどちらかというと苦手だ。じっくり被写体を観察する方法が私には合っているらしかった。

 ポーズを4セットして1日目は終了した。同じように2日目も鍵を閉め黙想をしてから始める。


「よろしくお願いします」

「……アシじゃないの?」


 今日は首から掛ける画板を使う。スケッチブックの上側にモデルを見ている形だ。


「色々実験したいって言ったじゃないですか。今日は僕、立ち上がったり、歩き回ったりしてみます」


 昨日はずっと正面に座っていたが、立ち上がった高さから見るとまた違った発見がある。例えば、汗をかいているとか、呼吸で胸が上下しているとか。光の当たり方も違う。逆に下から見上げてもみた。正面から見るより、眠たそうな目に見えた。1日目よりモデルに慣れが見えたので立ったポーズもとってもらった。椅子に寄りかかれば20分も耐えられるようだった。


 本日の3セット目の休憩で話しかける。


「少し慣れてきましたね、やっぱり成美さんに頼んで正解でした」

「2度としない」

「いや、描く側の気持ちわかってくれるっていうか、描きやすいラインとか意図を汲んでくれるじゃないですか。めちゃくちゃ有難いんです。やっぱ本物の人体をちゃんと見て描くのが一番上達するんだなって、つくづく思いました」


 ご機嫌なイルカの柄のタオルに身体をすっぽり包まれ、すんと鼻を鳴らす。

 その後2セットして2日目も終わった。

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