トリフォードの心
「ナタリア様がお気の毒でなりません」
トリフォードの傍らで、アニーがスカートを握りしめ声を絞り出した。
「真夜中に自ら湯の支度をなさり、そのまま長い間じっとされていて・・・」
気付いた時にはすでに湯船に浸かっており、とても介添えを申し出る雰囲気ではなかったので、ずっと外で様子を伺っていたらしい。
「あれは、正式に婚姻した侯爵夫人に対する扱いではありません。あれではまるで・・・」
まるで、娼婦。
使用人の誰もが思っただろう。
ローレンス・ウェズリー侯爵の態度はあからさまだった。
突然押しかけるなり、床に押し倒し、ことを始めた。
ドアのそばで始めたため、服を引き裂く音や声は廊下で控える自分たちには丸聞こえだがお構いなしだ。
吐き出し尽くしてすっきりすると自分だけ浴室で清め、新しい服に身を包み、さっそうと東の館へ戻っていった。
食い尽くされて意識がもうろうとしている侯爵夫人を部屋に放置したまま。
申し訳程度に下着を着せて長椅子には載せていたが、部屋の中も彼女も乱れたままで、アニーは入室した途端、あまりの惨状に息をするのを忘れたという。
冷たい床に投げ出したままでないだけましだというのか、侯爵は平然としていた。
「・・・ナタリア様は」
尋ねると、アニーは今にも泣きそうな顔をした。
「気丈にふるまっておられます。さきほども、何事もなかった顔をされて朝食を召し上がられました」
「そういう方だ。私たちも、ナタリア様の前ではそうあるべきだろう」
それが、俺たちに出来る精一杯の礼儀だ。
「トリフォード卿・・・」
「私はここでお守りするから、いったん控室で顔を洗ってくるといい」
「感謝します」
顔を伏せたまま、小走りに去っていった。
部屋係のアニーは確か十八か十九歳くらい。
雑用から勤めて五年経つと聞いたが、ここのところの邸内の出来事は衝撃だろう。
ナタリア夫人が婚約者として王都入りして以来、自分とアニーが付き人として常駐で、それぞれ数名交代要員も含め、全員新しい女主人を信頼している。
ナタリア夫人は、挙式の翌々日には執事セロンに直談判して内政に着手した。
まずは使用人たちの雇用条件を見直し、居住空間に不備があれは即刻改善命令を出した。
王都中の使用人たちの賃金としてウェズリー侯爵家は悪くない。
しかし、最良でもない。
いつでも替えが効くと家令グラハムが考えているため、実に些細なことで首を切られる。
なぜなら、ここで勤めたことで箔が付き次の就職で有利になるため、就職希望者はいくらでもいるからだ。
その点を考慮して、侯爵家の名誉をぎりぎり保つ程度の待遇だ。
そこで夫人が真っ先に変えたのが、大貴族の割にはお粗末な従業員の食事内容だった。
もし満足のいく食事をしたければ自腹で賄えとのきまりだったが、己の給与で家族を養っている者が多く、とても融通できない。
だがグラハムに目をかけられている者たちは例外で、当主の知らぬところで贅沢を満喫していた。
だから少しでも良い暮らしがしたければ、グラハムの言いなりになるのが一番だ。
実質、コリン・グラハムはその手でウェズリー侯爵邸の影の権力者に成りあがっていた。
執事セロンもなんとか改善したいと思ったものの、グラハムはウェズリー大公直轄の家令。
逆らえるはずもなかった。
それらを瞬く間に見抜いた彼女は収支の見直しを行い、金の流れの穴を見つけて改修し、そこから従業員用の食材に充てる金額をかなり増やした。
次は寝室の改善。
さらに、体調を崩した者は医師に診察させ、薬も手配した。
様々な気遣いを示して即実行したため、あっという間に多くの使用人たちに慕われるようになった。
彼女の能力を認めず侮っているのは、グラハムの子飼いか、家格を誇る騎士団の上層部くらいだろう。
だから尚更、何も知らされないまま翻弄される女主人を、心から憂えた。
お気の毒に、と。
当主の妻への急襲から時はいたずらに過ぎていった。
不穏な空気を孕んだまま。
ローレンス・ウェズリーは、味を占めたようだ。
『東の館の佳人』へは本邸から急ぎの知らせが来たと嘘をついては、邸内のどこかで過ごす侯爵夫人を見つけ出しその場で抱いた。
そして欲を満たしたら、紳士然として東の館へ帰っていく。
あきれるほどに気まぐれで、場所と時間は選ばない。
ほんの短い逢瀬もあれば、長々と過ごすこともある。
全ては、ローレンスの気分次第だ。
それでも、夫人はいついかなる時も従った。
けっして心待ちにはしていないが、抵抗は一切しない。
それが妻の務めと諦観しているようだ。
一方、『佳人』は恋人の裏切りに全く気付かない。
完璧な愛の中に護られていると信じて、東の園で幸せに暮らしている。
当然懲罰を恐れる使用人たちは、どこで何を見聞きしても双方に真実を知らせることはできない。
誰も非難しないのを良いことに、ローレンスは、この『ひそかなたのしみ』の刺激に夢中になっていった。
そんな日々のなか、トリフォードは何度も思い出す。
ナタリア夫人との出会いの瞬間を。
初めてその姿を見た時、なんて綺麗な人だろうと驚いた。
「この方が、ローレンス様の婚約者になられた、ナタリア様だ」
ダドリー領到着翌日の午後、二日酔いでぐらぐらの家令グラハムが吐き気に耐えながらも、トリフォード達護衛に紹介した。
前夜のダドリー家主催の晩餐会は、過剰なまでの接待ぶりだった。
ああ、これは潰すつもりだなと、末席から眺めながら思った。
これが娼館なら酔わせて身ぐるみはがせて翌朝下着一枚で道端に転がしてしまえるような熟練の女たちが、グラハムとその子飼いに配備されている。
トリフォードを始めとした一部下級騎士たちは見逃してくれるようで好きにくつろがせてもらい、嫌な上官から解放された。
ウェズリー家は出自とコネが優先され家格が低い者は犬扱いで、トリフォードは現在その枠に入れられていた。末席に配された数人も同じく。
それらを瞬く間に看破し、決定権のある者だけに絞って悪酔いさせる手腕はただものではない。
ダドリー家は多額の借金を抱え、領地と爵位の保全のためには娘を売るしかないだろうと聞いていた。
だからどうだというのだ。
天災の前には人は無力だとトリフォードは実家で経験している。
邸宅に着くまでに通った領内を見る限り、民たちの顔は明るい。
ならば、領主たちはとても有能なのだ。
その、れっきとした令嬢が平凡であるはずがない。
「初めまして、ナタリア・ダドリーです。これからの道のりをどうぞよろしくお願いします」
権力を振りかざして強制的に婚約し、有無を言わさず王都へ連れていかれるのに、彼女はすがすがしいまでの笑顔で騎士たちに礼儀正しく挨拶した。
「なんといっても大切なお身体なので、丁重にお運びするように」
それに対し、グラハムは失礼極まりなかった。
彼の言動から、令嬢への隠しようのない侮りがにじみ出る。
大誤算だ。
こんな田舎臭い女をローレンス様と並べて挙式せねばならないとは。
ウェズリーにはふさわしくないが、今はこれしか駒がない。
早々にすげかえれば良いだけだ
誰が見ても、一目瞭然だった。
しかし、ナタリア嬢を含めたダドリーの誰もがそ知らぬふりをし、その無礼な態度を追求しない。
彼らは十分に立ち位置を理解している。
大公の力は未だ絶大で、すぐに逆らうのは自殺行為だ。
全てを差し出したわけではなく、常に次の手を考えている。
器の違いを見せつけられているというのに、気付かないグラハムたちが滑稽だった。
そしてなにより、トリフォードには不思議でならなかった。
どうして、気が付かないのだろう。
ナタリア・ダドリー令嬢の魅力に。
令嬢はまるで、若い猫のようにすらりとしたしなやかな体つきで、凛とした空気も含めて何から何まで美しいではないかと。
艶やかな濃い茶色の髪と、豊かな光を放つ意志の強そうな琥珀色の瞳。
すっきりと通った鼻に、形の良い桜色の唇。
小麦色に焼けた肌も健やかで、生き生きとした彼女の表情に良く似合う。
女性にしては長身だがそれが却って手足をより長く見せ、優美な雰囲気を作る。
確かに、生母のヘンリエッタ夫人と義姉のディアナ夫人は噂通りの美しさだ。
しかし、ナタリア嬢が劣るとは、決して思えなかった。
むしろ誰よりも力強く輝いて、眩しいほどだ。
王都まで数日間一緒に馬で駆けて野営もして過ごすうちに、多くを知った。
ナタリア・ダドリーは王都で家に護られ着飾り男に愛されるのを待つ令嬢たちと違う。
全く別の次元で生きている。
彼女は、ダドリー伯爵家が領内で大切に守り続けた至高の宝玉。
そう感じた。
だというのに。
愚かなローレンス・ウェズリーは、まるで道端の石を気まぐれに拾ったかのように思い込んでいる。
そしてトリフォード自身、嫌気がさしている。
あのたぐいまれな女性のために何もできない己の力のなさに。
「・・・どうか、お気遣い無用に願いますトリフォード卿。今日はもう歩けます」
腕の中でその人は気まずげに身体を縮めた。
「無理です。我々はナタリア様をそのままにできませんから」
夫人を毛布に包んで横抱きにし、廊下を早足で歩きながら断る。
「ナタリア様、少しの辛抱です。トリフォード卿に従ってください」
隣にはアニーが小走りについている。
「・・・いつもありがとう。ごめんなさい」
「いいえ。どうか楽にされてください。そのために私たちはいるのです」
腕の力を少し強めて耳元に囁くと、栗色の頭がこくりと小さく頷いた。
今日は私室から一番遠い帳簿保管室でことが起きた。
なので、移動距離が少し長いが耐えてもらう。
トリフォードは細心の注意を払いながら歩く。
揺さぶらないように。
人目にさらさないように。
大切に。
大切な、人だから。
当主が襟元を緩めながら本館へ戻ってきたときは、ナタリア夫人を目指しているしるしだ。
使用人たちの間で暗黙の了解が出来上がるまで時間はかからなかった。
スイッチが入ってしまった彼を止めることは誰にもできない。
逃がすことも、隠すことも考えた。
しかしローレンス・ウェズリーは絶対君主だ。
背後に大公閣下がいる限り、逆らえない。
ならせめて、事後に気を配ろうとアニーと手順を決めた。
当主が現れたら、アニーとトリフォード以外は現場周辺から全員撤収。
ことが終わり次第、トリフォードは夫人を毛布で包みなるべく早く私室へお連れする。
侍女たちは浴室で待機、手早く介添えをして気持ちと身体を解してもらう。
ふがいない自分たちの、せめてもの詫びだった。
寝室まで運び込んだ後、侍女たちに任せて廊下へ出ると壁に背を向け、思わずため息をついてしまった。
「いつまで続くんだ・・・」
この惨い状況は。
このひと月ばかりの間、何度、あの方を抱き上げて運んだだろう。
腕の中に、まだ感触が残っている。
剣の腕前はそれなりだと言うだけあり、とてもよく鍛えられた身体だと思う。
だけど骨格は細く、肩幅も普通の令嬢と変わらない。
存在感と相反する軽さと頼りなさに驚かされる。
彼女は、普通の女性なのだ。
けっして慣れることのない衝動的な交わりと道具のような扱われ方に、いつも事後は呆然としている。
そんな彼女を毛布で包むたびに、腕に囲い込むたびに、胸の奥がうずく。
自分は、どうしてこんな残酷なことを止められないのかと。
あの方が、壊れてしまうことを想像するだけで血の気が引く。
『借金を一括返済するためいずれはもっと条件の悪い結婚をするつもりだったから、大丈夫』
覚悟を決めてこの婚姻を受けたのだと、ダドリー領から王都を目指す道中で笑っていた。
そうは言っても、まだ二十歳の生娘だったのだ。
覚悟があるから耐えられるというものではない。
こんな日々は予想していなかっただろう。
心身ともにもう限界に来ているはずだ。
何か打開策はないのか。
トリフォードは思案する。
ここのところ気になるのは、ローレンス・ウェズリーの視線だ。
すれ違うたびに、奇妙なまなざしで自分を見る。
何かを探るような。
そして、挑むような。
思えば、初めての事件の時もそうだった。
彼は、襟のボタンを外しながら夫人の執務室へ足音も荒々しくやって来た時、応対に出た執事ではなく、扉を守る自分を睨んだ。
そして欲を満たして部屋から出た時、アニーの名を呼んで介添えを指示しながらも、視線はまたもやこちらに向いていた。
その目は。
満足げに見えた。
しかし。
よくよく考えると、あれは。
「まさか・・・」
あの男は。
「なんて、くだらない・・・」
ぎり、と奥歯をかみしめる。
「俺の主は・・・」
心を、決めた。
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