まひるのじょうじ。
トリフォードとの朝駆けから数日後、事態は動いた。
ナタリアと使用人たちで築きつつあったささやかな平穏を乱したのは、ローレンス・ウェズリー本人だった。
「お待ちください、ローレンス様」
ざわめきが一階から聞こえてくる。
「なにかしら」
「・・・すみません、ちょっと失礼します」
その時、ナタリアは執務室で執事のセロンと使用人の待遇の件で打ち合わせ中だったが、突然の当主帰還の気配に彼は慌てて退室した。
「ローレンス様、いかがなされ・・・」
廊下でセロンが応対に出たが、その声は途絶えた。
立ち上がり、様子を見ようと扉に手を伸ばしたその時、いきなり開く。
まず目に入ったのは、仕立ての良い濃い灰色のジャケットと濃紺のベスト。
しかし、襟元はボタンをいくつか外し寛げられている
「ローレンス様・・・」
目の前には息せき切って肩を揺らすローレンス・ウェズリーがいた。
「どうされました?」
あの夜から二週間近く経っている。
半月ぶりに顔を合わせる夫婦としては間抜けな言葉だが、それ以外思いつかない。
「ナタリア・・・」
言うなり、抱きしめられた。
「ようやく会えた・・・」
すごいな、この人。
腕の中に囲い込まれ、胸に顔を押し付けられたままナタリアは冷めていた。
ローレンスは寝食も執務も東の館でずっと行っている。
領地視察へ出かけたわけでも、王宮に泊まり込んでいたわけでもない。
東の館の佳人と蜜月を過ごしていたはずだ。
ナタリアですら知っている。
なのに、まるで不測の事態で新妻に会いにこれず、焦れていた体なのは何故。
いや、本気でナタリアに焦がれているというのなら、記憶喪失か二重人格を疑うべきなのか。
「ローレンス様・・・」
そっと背中に手を回しながら、ローレンスの身体ごしに見える家人たちに目を向けた。
『だいじょうぶ』
声に出さずに彼らにめくばせをして退出を促す。
執事とトリフォードは心配げな顔をしていたが、黙って引き下がった。
扉が閉まった瞬間、後頭部をわしづかみにされ、ぶつかるように荒々しく口づけられる。
「う・・・・」
性急に何度も角度を変え、すぐに舌を入れられ絡められた。
息が、うまくできない。
無理な体勢で仰向かされ、首と腰が耐えきれずに座り込む。
そしてドレスの上に彼の膝が落ちてしっかり押さえられ、身動きが取れない。
「ナタリア…。ナタリア。・・・タリアと呼んでいいか」
口づけの合間に低い声で情熱的に囁かれ、わずかに頷くと、さらに深く口づけられて意識がもうろうとしてくる。
もう、こうなると経験の浅いナタリアには太刀打ちできない。
「すまない、我慢できない」
謝罪と同時に襟元を左右に力いっぱい開かれた。
ばり、と布を割く音といくつものボタンが飛んで床をはねて転がっていく音。
ああ、あのくるみボタン、後で回収しないと・・・。
なぜか、そんなことを考えた。
「タリア」
そのまま抱き込まれて床に倒され、上に乗るローレンスの顔を見つめる。
窓から射す昼の日差しになにもかも晒された。
性急に脱がされて破れたドレス、散らばるボタン、投げだされたローレンスの上着。
そして、飴色に磨かれた床がナタリアの背をひんやりと冷やす。
かろうじて両腕にシャツをひっかけた夫の肌はもう汗ばんでいて、胸元もほんのり上気している。
「タリア、タリア、タリアタリア・・・」
呪文のように、付けたばかりの愛称で呼ばれた。
自分の上でせわしなく動めく手と足と唇と、吐息。
まるで、愛しているかのように触れる。
ナタリアはあえなくのみ込まれていく
「きみの身体は、なんて綺麗なんだ」
何が真実で、何が嘘なのか。
考える力を奪われ、ローレンスの熱にとかされた。
そよ、と暖かい風が肌を撫で、ざらり、と頬に何かが触れた。
「あ・・・」
目を開くと、みゃ、と灰色の猫が小さく鳴いた。
「ティム・・・」
柔らかな頭をなでるとゴーゴーと喉を震わす。
「これは・・・」
ここは自室のベッド。
窓の外を含めて周囲はしんと静まり返り、今は深夜なのだなと推測する。
と、ここにきてようやく意識がはっきりした。
「ちょっとまって、これって」
がばっと起き上がり、身体を見る。
清潔なネグリジェ、腕を触るとさらりとした感触。
「さいてい・・・・」
瞬く間に記憶がよみがえり、額に手をやり呻く。
情事は、日が暮れるまで続いた。
しかもあの男ときたら。
やるだけやって満足したら、朦朧としているナタリアに下着を一枚着せて長椅子に横たえ、アニーを呼んで部屋から出ていきやがったのだ。
引き抜かれたコルセットも破れたドレスもそのままに。
そんな惨状を使用人たちに晒されたナタリアの立場など、全くお構いなしだ。
入室したアニーが息をのんだところで、ナタリアの気力は限界を迎え、あとはわからない。
ならば。
・・・と、いうことは・・・。
「いっそのこと、ころして・・・っ」
両手に顔を埋めて叫んだ。
執務室から寝室まで運んでくれたのはトリフォードだろう。
羞恥で死にたくなる思いを、ナタリアは初めて知った。
ひとは、羞恥くらいでは死ねない。
いや。
とりあえず私は、死なない。
湯に首まで浸かってナタリアはため息をつく。
レモングラスのバスソルトの香りに、気分がずいぶん落ち着いてきた。
大貴族の妻になって一番よかったと思うのはこの浴室かもしれない。
最新式の技術が施され、蛇口をひねれば熱湯と水が出る。
だからこうして真夜中に使用人を起こさずにバスタブに湯を張り、一人反省会を行うことも可能だ。
そもそも。
賃金前払いなのだ。
この結婚は。
たかだかこのくらいでガタガタ文句を言っていたら、違約金を取られてもおかしくない。
「偽装結婚舐めてた」
温まった手に顔を埋めてため息をつく。
初対面の感触では、てっきり恋人に貞操を誓って偽物には指一本触れない、または義務的に処女を破って終了だと予想していた。
ところが、初夜に続き昨日のあれだ。
「これは幸か不幸か・・・」
おそらくお互いにとって予想外だったのは、身体の相性が良いことだ。
正直、意識が飛ぶくらい気持ちよかった。
誰が見ても貴族の夫人らしからぬ扱いだったけれど、屈辱を感じる間もない快感だった。
ローレンスもそんな感じのことを最中に何度も口走っていた。
あれが場を盛り上げるための世辞だったのならたいしたものだ。
「でも、とにかく全てが筒抜けよ・・・。勘弁して」
ご当主様が急にもよおして本館の正妻の所へ突撃し、いきなり床に押し倒して長時間にわたって情事を行った。
そして気が済んだら身支度を整え、何食わぬ顔して恋人の元へ戻った。
きっと、館内の従業員全員に知れ渡った事だろう。
格好のネタだ。
雇用人数と顔を把握しているナタリアとしては本当に死にたくなる事件だが、こんなことでへこたれてはならない。
どこの屋敷も、大して変わらない。
要は、人数が多いか少ないかだ。
「負けるな、ナタリア」
なんせ、まだ真打と対決をしていない。
ローレンスは雑魚だ。
これくらいで。
こんなことくらいで。
「・・・っ」
手に顔をうずめたまま歯を食いしばる。
「朝になったら、平気になる」
朝になったら。
もう少し、強くなる。
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