真実を知るとき。
人は、慣れる生き物だ。
ナタリアはしみじみ思う。
いい加減、この状況に慣れた。
予測のつかないローレンスの奇行に最初は翻弄され心身ともにかなり疲労していたが、回数を重ねると犬に過剰にじゃれらつかれているだけと思えてきたのは、二十歳の女としてどうなのだろうか。
慣れてきたのは使用人たちも同じで、待機・撤収・清拭の手際の良さはもはや職人技だ。
そして、トリフォードがいついかなる時も必ず律儀に抱き上げて私室まで運んでくれるので、それを陰ながら見守る侍女たちの間で彼の好感度はうなぎのぼりの天井知らずだ。
身体に直接触れないように丁寧にかつ手際よく毛布に包んでから抱き上げるところと、大股に歩いているのにナタリアは全く揺らさないよう細心の注意を払っているところがツボらしい。
「ほんとうに・・・素敵ですよね、トリフォード卿。私たちの思い描く騎士そのものって感じで」
部屋係の一人、ローラが両手を合わせてうっとりと宙を見つめる。
「まあねえ・・・。毎度毎度頭が下がるわ」
「今とてもとても、トリフォード卿みたいな男性が主人公の恋愛小説読みたいです!」
一緒にうっとりしているのは食堂担当のデイジー。
彼女は、本を一冊抱きしめて悶えていた。
「その本はお気に召したのかしら」
「はい、それはもう。ナタリア様、ありがとうございます」
「みんなに喜んでもらえたなら、この部屋を改造してみた甲斐があったわ」
ぐるりと全体を見回してナタリアは笑う。
福利厚生の一環で、使用人たちの食堂の横にあった倉庫を改造して彼らのための図書室を作った。
ここの人たちは識字率が高いので、娯楽に成り得るだろう。
蔵書は商人や義姉の実家のレドルブ候に頼んで中古の本を仕入れ、平易な文章で書かれた紀行文、地理歴史書、科学、図鑑類、辞書などの知識書を三割、残り七割は読み物だ。使用人は女性のほうが多いので、恋愛小説を豊富にしてみたらかなり評判が良い。
いつでも入室可で自室へ持ちこんでも良いことにしたので、この点も喜ばれている。
おかげで、侍女たちとの距離もかなり縮まった。
男性たちもなんだかんだ言ってこっそり読んでいるようだ。
「恋愛小説みたいねえ・・・」
ナタリアの今の状況はどちらかというと官能小説。
それも、肉弾戦に次ぐ肉弾戦の。
つい己を自虐的に例えたところで、あることが頭に浮かんだ。
「そういえば」
ローラを振り返ってナタリアは言った。
「ねえ、午後になったら手紙を一通、出したいの」
「はい、お任せください」
図書室を出ながら、ナタリアは考える。
もういい加減、次の一手を繰り出してもよいころだと。
その夜のことだった。
寝室で眠っていると、何らかの気配で目が覚める。
髪に触れられた気がした。
「だれ・・・」
つぶやいて寝返りを打つと、唇がふさがれた。
口の中に広がる、酒の匂いと葉巻の味。
「う・・・」
不快で眉を寄せる。
「シャーーーー」
そばで寝ていた猫が驚いて威嚇した。
「うるさい」
くぐもった声と同時にばしっと音がする。
「ティム!」
完全に覚醒し後を追おうと起き上がったが、肩を強くつかまれ、ベッドに沈められた。
「タリア」
抑え込んだその男は、ベッドから手荒に落とされた猫にも熟睡していたナタリアにもおかまいなしで、ことを進め始めた。
いつものように乱暴に脱がされながら怒りがこみあげてくる。
こんな深夜に。
寝込みを襲うなんて。
今夜は遊び仲間とパーティへ出かけたはずだ。
酔っ払ったついでにやりたくなったのだろう。
反撃したいのを懸命にこらえながら、首を巡らせて猫を探す。
「・・・にぃ」
ローレンスがバサバサと服を脱ぎ始める音に紛れて、小さな声が聞こえた。
「・・・ティム」
ほっと息をつく。
窓際に小さなテーブルセットがあり、その椅子に厚手のひざ掛けを置いている。
薄明りに見えるもそもそ動く毛玉から、どうやらそこに避難したことがわかり、少し安心した。
どうか、無事でいて。
本当は今すぐ駆け寄ってけがの有無を確認したいが、無理だ。
仲間たちとご機嫌に飲んだ酒が、早くローレンスを昏倒させてくれることを願いながら、好きにさせる。
早く終われ。
早く。
うつぶせにされ揺さぶられながら心の中で悪態をついていたら、感極まったローレンスが耳にささやいた。
「・・・ああ、マリア」
・・・マリア?
タリアではなく、マリアと、今、はっきり言った。
「ああ、良い。すごくいい。最高だマリア」
その後もローレンスはその名を呼び続ける。
そ う い う こ と か。
霧が晴れたような心地だ。
なぜ、最初に『タリア』と呼びたいと言ったのか。
全ては、とっさの言い間違いをごまかすために考え付いたまやかしの愛称。
…本当に、この男は。
頭と体の中で色々な何かがぐるぐると回る。
どうしても芯が反応してしまう快感と。
わずかに育ってしまった情と。
己に対する情けなさと。
この状況に対する憤りと。
もう何もかもごちゃごちゃだ。
でも、涙は出ない。
相変わらず間違えていることに気づかない酔っぱらいは、お気楽に『マリア』へ愛をささやきながら己の快楽にだけ没頭している。
「マリア、マリア、マリア…」
酒の神に感謝しよう。
ようやく糸口をつかんだ。
ようやく、吹っ切れた。
よほどの深酒だったのか、ローレンスはいつもより早くナタリアを開放し、そのまま熟睡した。
男がいびきをかき始めるなり、ナタリアはベッドから飛び降りてガウンを羽織り、椅子の上に丸まっていたティムをひざ掛けごと抱き上げ寝室を出る。
「なー・・・」
私室で膝におろし、全身くまなく調べる。
手足をさわさわと触られて、彼はご機嫌だった。
「骨折は…していない」
ほうと安どのため息をついた。
「まったく…」
浴室で手早く身体を拭いて、乗馬服に着替える。
窓の外を見ると東の空が白み始めている。
もう、馬丁たちは仕事を始めているだろう。
ティムを連れて部屋を出た。
「おはようございます、奥様。こんな早くにどうされました」
案の定、獣医師のスコットがすでに厩舎にいた。
様子の気になる馬がいると数日前に聞いていたので、彼ならもう仕事を始めているだろうと思ったのだ。
「ティムがね。ローレンス様に手荒に扱われてしまったの。一応、私も確認したけれど、あなたにきちんと診察してもらいたくて」
厩舎へ頻繁に顔を出すうちにすっかり親しくなった老医師は、話を聞くなり、真剣な顔になり猫を受け取る。
「そうですか・・・。診た感じでは大丈夫そうですが、ちょっと様子を見るためにも数刻私が預かりましょう」
彼の腕の中で、ティムは尻尾を振った。
小さなころから世話をしてくれた医師に喉を鳴らす様子に、心から安心する。
「ありがとう。お願いね」
深く息をついて、馬たちを眺める。
「この中で、早駆けしても大丈夫な子はいるかしら」
今いる区画は騎士団の馬ではなく、ローレンスのものだ。
「そうですね。ブライトが走りたそうにしていますが・・・」
当主はさほど馬に関心がない。
単に所有しているだけなので馬丁たちが適度に調教していたが、最近ではナタリアが相手をしていた。
「なら、ちょっと借りるわ」
手綱と鞍を取り付け、連れ出す。
この馬は若い。
思いっきり走らせてもらえることを察知したのか嬉しそうにいなないた。
「奥様、お供は・・・」
「うん、ちょっと湖から上る朝日が見たいだけなの。あそこなら開けていて治安も悪くないし危険はないわ。どうか一人で行かせて」
取り繕うけれど、少し、頬がこわばるのを隠せない。
これ以上、ここにいたら崩れてしまいそうだ。
「・・・わかりました。朝食前にはお戻りください。皆が心配します」
「ええ、もちろんよ」
すぐさまブライトにまたがる。
「感謝します、先生」
「・・・今日の朝日は、きっと良い眺めでしょう」
「ええ」
もう、言葉が思いつかない。
馬首を巡らせ、裏門を目指した。
郊外へ出た瞬間、ブライトに合図を出した。
彼は待ってましたとばかりに力強い走りを見せる。
景色がナタリアの周りをどんどん過ぎていく。
早駆けなんてかわいいものじゃない。
疾走だ。
ナタリアはたたきつけられるような強い風を全身に受けながら、からだの中でどんどん沸きあがる感情と戦っていた。
ティム。
ローレンス。
大公。
グラハム。
ダドリー。
マリア。
それから、それから・・・。
熱い。
どんなに風が冷たくても、おさまらない。
頭も胸も腹も、熱くて熱くて。
もう、どうしたらいいかわからない。
馬と人と一つになりながら、ひたすら東を目指して木立の中を走り続けると、いきなり視界が開けた。
「みずうみ・・・」
黄金色に染まった草原、朝もやの湧き上がる湖、そして、桃色に染まり始めた空。
鳥たちの鳴き声。
それから。
どうやって馬から降りたのか覚えていない。
気が付いたら、水辺に両膝をついていた。
「うわーーーーーーーーーーっ」
言葉になんて、できない。
ただただ、叫び続けた。
足場を固めてから反撃に出ようと思ったのは間違っていたのか。
いたずらに時を過ごしてしまったのじゃないか。
本当は戦うのが怖くて、理由をつけて決断を遅らせたのでは。
もう、何もかも遅いのかもしれない。
私は、ただの身代わりにされただけだ。
次から次へと不安と後悔が押し寄せてくる。
どうしよう。
どうしたらいい。
怖い。
そして、とてもとても腹が立つ。
何もかもに。
「もう、いやーーーーーー」
叫んで、叫んで、声が枯れても叫んだ。
自分が何をしたいかわからない。
息の仕方もわからない。
「・・・ナタリア様」
ふいに耳元で低い声がして。
背後から肩を大きな布にくるまれ、強い力に囲まれた。
「・・・っ」
驚いて抵抗しようとしたが、びくともしない。
拘束を解こうと全身を使ってもがいたら、荒い呼吸音とともに、とぎれとぎれの声が聞こえた。
「私、です、ナタリア・・・様」
前に回された腕は、よく見ればウェズリーの騎士の制服だった。
「トリフォード、です」
それに、覚えのある、におい。
「・・・トリフォード・・・・。なぜ・・・・」
全身の力が抜けて、すとんと座り込んだ。
すると、ナタリアの体に両腕を回したまま、トリフォードも地面に腰を下ろす。
「ナタリア様が…。ブライトと、心中するのでは、ないかって・・・スコット先生が・・・」
荒い息の合間に、ぽつりぽつりと彼は答えた。
「え・・・」
「慌てて、追いかけました」
背中に当たるトリフォードの胸は、せわしなく動いている。
彼のマントにくるまれてはいるけれど、背後からしっかり抱きしめられた状態だ。
長い足はナタリアの両側に投げ出されていた。
それでもかなり身長差があるので、この姿勢でも頭一つ高い。
まるで、トリフォードという箱に閉じ込められているかのよう。
「ご無事で、本当によかった・・・」
ぽたりと、彼の汗が膝の上に落ちて染みを作る。
「ほんとうに、よかった・・・」
心からの言葉。
強い腕。
優しい声。
あたたかな、胸。
凍えたナタリアの身体に、ゆっくりトリフォードの存在が広がっていった。
「・・・・っ」
ぼたぼたと目から涙が出た。
「・・・ごめん、なさい。しんぱいかけて」
唇が震えて、うまく言葉をつむげない。
「みっともないところ、みせて・・・」
すると、つむじに、こめかみに、やわかな感触を受けた。
「こちらこそ、すみません。今、私がしていることは、お仕えする方に対する態度ではありません」
そう言いながらも、ナタリアの頭にそっと頬を寄せた。
背中にも肩にも首にも頭にも、髪でさえも。
トリフォードの熱がゆっくりしみこんでいく。
「我々は、ずっと心配でした、あなたがあまりにも完璧すぎて」
腕の力を一瞬きゅっと強められて、ナタリアの涙はますますあふれた。
「家族のために、領民のために耐えて耐えて、侯爵の横暴にも耐えて、私たちにも泣き言一つ言わないで、いつも冷静で」
視野がぼやけて、何も見えない。
「いつか、貴方が壊れてしまうのではないかと、不安になっていました」
誰かに抱きしめられるのは、こんなにも心地よいものだったのか。
「トリフォード、卿・・・」
「アベルです。どうかアベルと呼んでください」
「アベル・・・」
「はい」
「アベル、アベル、アベル…っ」
背中を預けて泣き喚いた。
「くやしいの」
「ええ」
「くるしいの」
「ええ」
「みっともないのも、いやなの・・・っ」
「みっともなくないです。あなたは、頑張りすぎです」
アベルの言葉に、熱に、力に、どろどろに溶けていく。
「ちがう、私は、まちがえたの・・・」
「そんなことありません。いつだって最善を尽くしてた」
背後から頭に何度も唇を落とされて、あやすように軽くゆすられて、何もかも吐き出してしまえと言われた気がした。
「わからない・・・」
甘やかされている。
「もう、どうしたらいいのか、わからない・・・」
甘やかされて、ちいさなこどものようなことを言ってしまう。
「そうですか・・・・」
耳元に温かい息がかかる。
「なら、このまま二人で東を目指しますか?」
「え・・・」
振り返ると、穏やかな顔が見下ろしていた。
「ずっとずっと進めば、国境を抜けられます」
少しいたずらっぽくアベルは笑う。
「私と、逃げてしまうのはどうでしょう」
なんて、甘い誘惑。
「ナタリア様と二人でなら、どこででも生きていけそうな気がします」
二人でなら。
この腕は、決して自分を傷つけない。
そんな気がする。
でも。
「・・・ありがとう」
うれしい。
私とならと、言ってくれたこと。
きっと忘れない。
ずっと、いつまでもおぼえている。
「でも」
精悍な顔にうかぶのは、すがすがしいほど綺麗な笑み。
「はい」
断ることを、彼は最初から分かっていた。
「ぜひとも一発、ローレンスを殴りたいの」
「ぷふっ」
アベルは噴出した。
「さすがに、その一言は予想していなかったです」
「そう?」
「ええ」
笑っていても、優しい腕は離れない。
「本当は、一発じゃ足りないと思ってる」
「そうでしょうとも」
気が付いたら、涙は止まっていた。
「・・・アベル」
「はい」
「好きよ、ティムの次くらいに」
「え、ティムですか?ティムの次か・・・」
困惑した表情でつぶやく彼を、じっと見つめた。
心根そのままの綺麗な顔だ。
茶色の長いまつげに縁どられた、夜の闇のような黒い瞳。
でもそれは、とてもやさしくて暖かい。
こうして細心の注意を払ってマントで包み込んでくれるように。
ついさっきの夜はつらかった。
だけど、もう、恐れるほどではなくなっている。
優しい夜もあると知ったから。
少し胸の奥がちりっと痛んだ。
彼は、大人だ。
ずっとずっと大人だ。
それに比べて自分はなんてちっぽけだろう。
「ナタリア様、朝日が上がりましたよ」
綺麗に晴れ上がった空の端から、朝日がじわじわと昇っていく。
湖から渡ってきた風が優しくほおを撫でた。
さわさわと枯草が触れ合う音。
くるるーという鴨の鳴き声が聞こえた。
「ああ、渡り鳥がもう来ていたのですね。気が付かなかったな」
秋が過ぎて、もう冬がそこまで来ている。
でも、ここは暖かくて、居心地がよくて。
「アベル」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
涙はすっかり乾いた。
心に積もった重いものをすべて吐き出して、今は嘘みたいにすっきりしている。
はやく帰らないとな、と思う。
きっと、屋敷ではスコット医師をはじめ、いろいろな人が気をもんでいるだろう。
でも、もうしばらく。
こうしていたい。
背中に、優しい鼓動を感じながら。
「今日も、良い天気になりそうですね」
「ええ」
なんて綺麗な朝だろう。
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