短編:『犬』
おばあちゃんちは山陰のK村というところにある。年に数回おばあちゃんの顔を見に行く。Wi-Fiは無い。
水道局の水道が通っているわけでもなく、各家に浄水設備があり、山の湧水を使っている。
ぼっとん便所もいい加減どうにかしてほしい。携帯電話やメガネを落とさないかいつも不安になりながら慎重に用を足している。
街に出て働きながら田畑を耕す兼業農家である。畑を荒らす猪にいつも怒っている。四方を獣が暮らす山に囲まれているから仕方がない。猪は作物や筍を掘り起こして、一面穴ぼこにしていく。それを埋めてならす時、ついでにお茶やコーヒー豆の出涸らしを混ぜておくと土が肥える。
大枚をはたいて獣避けの電気柵を拵えたが、効果は有るのだか無いのだか分からない。猪は時々罠に掛かって食卓に並ぶ。猪の討伐証明部位は尻尾だ。役所の持っていくと1頭につき約3万円貰える。村の人はほとんど皆個人で害獣駆除のライセンスを持っている。
そして村での生活に欠かせないのが犬だ。どの家も犬を飼っている。獣避けでもあるし、防犯にもなる。散歩させるのもボケ防止になるし、家の犬同士で挨拶させるのも地域コミュニティの一環だ。
おばあちゃんちでは先日n代目の番犬が亡くなったため、新しい犬を迎えようということになった。亡くなったタロウは私が名前を付けてやった犬だ。元が何だったのかわからないほど混ざりきった雑種だ。
世の中にありふれた名前過ぎて犬の名前に付けている人は少ないだろうと思ってつけたが、そんなこともなかった。去勢の為に動物病院に連れて行ったとき、同じ名前の犬とインコが居た。
なんだかんだ12年生きた。大往生だろう。
n+1代目の番犬も、今までと同じように保健所からタダで引き取ることになった。よく聞く言説に、ペットを無料で引き取るのは良くない、100円でも良いからお金を払った方が大切にする、というものがある。ただの家飼いの愛玩動物であれば正しい考えだ。
だがこいつはただのペットではない。熊や猪や夜盗が出れば果敢に吠えてもらわねばならない。だから毎回直接見て、元気のいい強そうなやつを選ぶ。生後数ヶ月の姿を見てどれほど素質を見抜けるかは気にしてはならない。
競走馬を買い付ける馬主もこんな気持ちだろうか。こういうのは直感が大事だ。直感を信じた結果、タロウは信じられないくらいの駄犬だった。
タロウのことは、まぁいい。奴は死んだ。大事なのは次代のことだ。さて……
「この子がいいよ」
引き渡し会場をぷらぷら歩いていると、私と同じくらいの歳に見える女の子が話しかけてきた。おばあちゃんちの近くのD高校の生徒だろうか。
「高居さんちでしょ」
「知ってんすか、孫っす」
「うちいつもお米買ってるよ。タロウ君は?」
「死にました。12歳っす」
「えー!?元気そうだったけどねー」
「それで、こいつっすか?」
女の子が指した犬に、私はいまいちピンと来ていなかった。なんとなく目がしょぼくれた、野性味の無いもやしっ子だと思った。
「間違いない。この子はやる子だよ、私そういうの見極めるのは得意だから、任せて」
その後、他にどうしても選びたい犬が見つかるということも無く、これも御縁かとその弱そうな犬を貰った。また俺が名前をつけていいとのことなので、じゃあ引き取った時期から、ハルで。
保健所の良いところは即日引き渡しであることと、面倒な書類を書かなくて良いことだ。それは金銭が発生していないからというのもあるし、引きとられなければ殺処分になるだけで、保健所からしても別に死んでもいい命だからというのもある。最低限寄生虫の薬など一応投与されているらしいが、各々持ち帰って動物病院に連れて行く必要がある。
おばあちゃんちに帰り、まずは旧タロウ邸、納屋に連れていく。ハルは一通り匂いを嗅いだ後、早速壁に小便してマーキングしている。そうだ、これからそこがお前の城になる。励めよ。
「あんたまたナナちゃんに言われて犬決めとりましたけど、今度は大丈夫ですかね」
……誰って?
「ナナちゃんって言うたら下の道沿いに住んでる子でしょ。あんた覚えてないんかね」
「知らないよ、多分さっき初めて会ったと思うけど」
「そげなことないでしょう、タロウちゃんを貰った時もナナちゃんがこの子だって言ったから、あんたもじゃあこの犬でって言ったんでしょうが」
……全く記憶に無かった。が、おばあちゃんが言うなら、多分そうなんだろう。柄杓でハルに水を飲ませる。まさかお前もタロウのような駄犬になるのか?
繰り返しになるが奴は駄犬だった。ころころとした愛玩動物であった。一度、家の庭まで猪が降りて来たことがある。プランターで育てていたミニトマトがぐちゃぐちゃにされた。タロウは敵の侵入に気付いていながら一度も吠えなかった。ただ納屋の奥で息を潜めながらふるふると震えていた。
考えてみれば子犬の頃から頼りない感じの犬だった。それでも私が選んだからには、何か理由があったのだろう。それは私自身の直感だと思っていたが、そうではなかったのだ。不思議な縁もあるものだ。ナナという子も毎回犬のお渡し会に来ているわけではあるまい。たまたま私が犬の選定をする回に、たまたま彼女も犬を探しに来ていた。
一体タロウの何を見て推薦したのだろう。彼女にはタロウが名犬としてK村に名を轟かせるビジョンが見えていたのか。散歩に行くと他の家の犬の前を通る。他の犬が近づけばとりあえず吠えておくものだ。相手はゲージに入っているというのに、タロウはいつも吠え負けていた。大体いつも腰が低かった。あの犬畜生が名犬?
畜生。
ちくしょう。
納屋に敷かれたゴザでぽてぽてと遊ぶハルを見ていると、タロウのことがどんどん頭に浮かんできて止まらなくなった。
奴は鼻だけは他のどんな犬よりも確かだった。動物病院の先生が「これは絶対にバレない!」と太鼓判を押した、餌に混ぜるタイプの薬を見事に避けていた。その鼻を活かしてタヌキの巣を見つけさせようとしたことがあるが、山で私の親指ほどもある大きなアブに襲われ、キャンキャンと文字通り尻尾を巻いて逃げ帰った。
一緒に庭でかまくらを作って遊んだ。山陰の山地は雪が降ると軽く60cmは積もる。私がスコップで雪の山を作り、タロウに横を掘らせた。タロウは雪が好きで、歳をとってからも雪が降っている中では子犬のように踊っていた。手袋をして触られるのは嫌がるので、寒いなあと思いながら手袋を外して撫でてやった。撫でてやった。沢山撫でてやった。
ああくそ。ちくしょう。
誰に対するわけでもない悪態が止まらない。
おばあちゃんは、俺が納屋の前でじっとつっ立っている間、ただ優しく微笑んでいた。
また十年もすれば代替わりがあるだろう。n +2代目の守護者を選ぶ際には、このような事態が起こらないようにしたい。よってここに、ナナ氏なる人物に注意されたしと記録しておくものである。
犬シリーズ 高井 緑 @syouyuuyu
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