第8話 1割の可能性
|「っ! 」
静寂と薄暗い部屋に響くアラームの音と、液晶画面からの眩い光で俺は目を覚ました。そして、いつものように身支度を整え、渡辺宅へと向かった。勿論、今日も服装は変えてある。
道中俺は、昨日から感じる違和感の正体を探ろうと躍起になっていた。真さんは、なぜあんなにも憔悴しているのか、そして裕也言う残りの1割の可能性、そんなことを考えているうちに真さんは家を出たようだ。俺が気付いた時には、真さんは、俺の前を通り過ぎて歩いていた。そして、今日もまた、曇天のように暗く、息詰まるような重たい雰囲気を作り出していた。写真で見た、黒髪が良く馴染む凛々しい男性の面影は、もうどこにもなかった。
俺は、真さんの後を歩きながら裕也にメッセージを送る。しばらくすると、「了解っす。」という返事があった。そして、今日も何事もなく駅につき、俺は裕也と合流した。駅は相変わらず、通勤、通学の人々ばかりである。そんな大勢の人々を見送るように、プラットフォームには、桜の木が植えられている。四角いコンクリートの枠いっぱいに根を張り、大木は辺りのコンクリートを持ち上げ成長している。誰かが、持ち上がったコンクリートにつまずいて、舌打ちをしている。そんな通勤風景に、俺も裕也もいまだ慣れずにいるが、真さんは、海を割ったというモーセのように人の波を割りながら進んでいく。対して、俺たちは人の海にのまれながら、ようやく、会社の最寄り駅までたどり着いた。昨日は、それほど混んでいなかった電車が今日は、事故があったため、混んでいたようだ。
「やっと、着いたっすね」そう言う裕也の表情からは、疲れが見える。
「そうだな」と返す俺の声もトーンが低くなっていることが分かる。
「いよいよ今日っすね」と裕也は、緊張と期待が入り混じったような声で言う。
「あぁ、昼休みに勝負する」とこの言葉は、俺自身へも言い聞かせている言葉だった。
それから俺たちは、搬入口と正面玄関へ向けて歩き出す。昼休みまでまだ時間はあるにもかかわらず、鼓動が早まり、心音が聞こえ、息が浅く早くなるのを感じていた。俺は興奮していたのだ。俺が主導した調査が、終わろうとしている。俺が人の悪事を暴く時が刻一刻と、近づいているのだと思うと、残りの1割の“可能性”なんてどうでもよかった。考えもしなかった。
時刻は9時30分。通勤、通学の人々はきれいさっぱり片付いていた。スーツ姿の人間は俺だけになっていた。とりあえず俺は、いつものように、エントランスが見張れる位置につく。
この会社は、昨日カフェで得た情報から旅行会社であることが分かった。エントランスは、緑化され一般開放もされている。そして、屋上も。
屋上に行けば、アリシアのオフィスが見えることに気づいた俺は、エレベーターに乗り最上階のボタンを押す。音もなくエレベーターは、上昇を開始したようだ、体が、この空間が、下から押し上げられるような浮遊感を感じる。途中の階で止まることもなくエレベーターは、最上階へと到着した。エレベーターの扉が開くと、正面に大きなガラスの自動ドアがあり、屋上庭園の様子がうかがえる。庭園に出ると思いのほか風が強い。俺は早速アリシアのオフィスが見える位置についたが、オフィスの窓は、ご丁寧にミラーガラスにしてあるようで中の様子は、さっぱりわからない。
ミラーガラスは、ガラスの表面に金属酸化膜を焼き付けた加工がされており、断熱効果があり、室内の冷房効果を高める一方近で、俺たちにとっては厄介な窓ガラスなのだ。
無駄足だったかと思いつつ、俺はエントランスに戻り、アリシアの正面入り口を見張る。
いくらか人の出入りはあるもの、真さんや、例の女の出入りはない。そのまま、出入りする人々を1人、2人、3人……と数え、時計を見ると時刻は11時53分。そろそろ社食に向かうかと思い。裕也にメッセージを送り、俺はエントランスを出る。
数分後俺たちは、社員食堂の入り口で合流した。12時前であるのにも関わらず、すでに入り口には人の列ができ始めている。
「まだ来ないみたいっすね」
「あぁ、まだ12時前だからな」
俺たちは、その短い会話以外は言葉を交わさなかった。興奮や緊張が入り混じり、夏でもないのに俺の額には汗が滲んでいるのを汗が頬を伝う感触で気が付いた。
きっと社員からみたらとてつもなく怪しかっただろう。しかし、そんなことは気にも留めなかった。いや、そんなこと考えもしなかった。俺の頭の中には、証拠をつかみ依頼を達成するという考えしかなかった。
それからどれだけの時間が経ったのだろうか? おそらく5分も経過してはいないだろう。だが俺達には、その時間が何倍にも感じられた。
人はそうした状態にあると感覚が研ぎ澄まされるようだ。俺は、裕也に肘で突かれると体をのけぞらせてしまう。
「なんだよ」
「あれ、そうじゃないっすか?」
と裕也の視線の先には、間違いなく真さんとあの女が居る。二人はゆっくりとだが確実にこちらに向かっている。
俺たちは、先ほどまでとは打って変わって不思議と落ち着いてきている。二人の後ろに付き会話を聞く、カメラもばっちり回っている。
「今日も、付き合ってもらってすまない」
真さんが申し訳なさそうに言う。不倫をしているという罪悪感からだろうか?
「いえ、気にしないで下さい」
女は、事務的に答える。踏ん切りがつかない真さんへの苛立ちからだろうか?
俺達は、二人の近くに座ると、昼休みのサラリーマンを装いつつ二人の動向を見張る。
「それで、奥さんとはどうなりました?」
女が呆れたような声で尋ねる。占めたと思ったのもつかの間、真さんの答えに絶句した。
「
真さんは真剣に答える。
「肇さん……」
「あ……あぁ」
この日の記憶はそこで途切れている。自分がそのあとどうしたのか、どうやって帰ったのか思い出せない。ただ、二人の顔がいつまでも記憶に残っていた。
~続く~
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