第十七章

第37話

 謹慎期間を経て、何が変わった訳でもない。クラスの連中は以前と同様に持月とは関わりを持たず、百瀬は彼氏と別れなかった。彼女の身体の感触を思い出す度、持月はひどい罪悪感に苛まれた。


 あの行為にはどのような意味があったのか、彼女の本意はどこにあるのか、自分は百瀬と一体、どうなりたいのか。


 それが分からない彼は、相変わらず彼氏持ちの地位を維持し続ける百瀬を中途半端に避け、失礼な態度を繰り返し取りながら途方もなく押し寄せる焦燥に怯える日々が続いていた。


 ある日の放課後、持月は勝来と会う約束をした。メールで連絡をするとすぐに返信があり、「会って話したい」という文面が送られて来たので持月は彼女の最寄り駅まで出向くことにした。


「喫茶店に行こうか?」


 持月の問いに対して静かに首を振った彼女は、近くの寂れた公園に足を運ぶと一人でベンチに腰掛けた。持月は近くの自販機で飲み物を買い、それを彼女に手渡した。


「ありがとう」


 優しく微笑む勝来の顔が、持月にはどこか歪んで見えた。それも彼の心が腐りかけているためなのか、はたまた現実が捻じ曲がっているためか、彼には分からなかった。


「やっと、連絡くれたね。元気にしてた?」


 彼女は俯いたまま両手で缶コーヒーを握り締め、「あのね、そっちに通ってる友達に聞いた話なんだけど……。持月くん、しばらく謹慎になってたって、ほんと?」


「…………」


「校内で煙草を吸ったって……。私、持月くんがそんなことする人にはどうしても思えなくて、それで――」


 彼女は顔を上げると持月の顔を見つめ、「誰かに無理やり勧められて、偶然手に持ったところを見つかったとか、誰かが吸っているのを擦り付けられたとか、そういうことなんだよね。違う?」


 どこまでも真っ直ぐで、穢れのない澄んだ瞳だった。心の底から自分を信頼してくれる彼女に対し、持月はこれ以上嘘を重ねるべきではないと思った。


「僕は……」


 洗いざらい話そう。素直に打ち明ければ、彼女はきっと受け入れてくれるはずだ。


 そう思った持月は、「煙草は、自分で持ち込んだ」と恐る恐る口を開いた。「夏休みの少し前から吸い始めて、それで――」


 彼女は口を閉ざしたまま、持月の言葉に耳を傾けていた。


 百瀬に出会って煙草を吸い始めたこと、刺激を求めて自ら校内に持ち込むようになったこと、先生に現場を押さえられて謹慎になったことなど、持月はすべてを正直に話した。


 彼女はおよそ驚きを隠せない様子だったが、一度大きく息を吸い込むと、「今も、吸ってるの……?」と不安げな表情で尋ねた。


「うん」


「やめようとは、思わない?」


「やめたい」


 俯きながら彼がそう答えると、「そっか」と安心したように答えた彼女は、「正直に話してくれてありがとう」とようやく笑みを取り戻した。


 彼女のその言葉を聞くだけで、持月は身体の中に暖かな風が通り抜けるような心地がした。


 やはり、嘘はいけないことだ。素直に話して良かった。両親の教えは間違いではなかった。


「その、百瀬さんって人だけど」


 やがて口を開いた勝来は、しばし間を空け、「その子とは、もう関わらない方が良いんじゃないかな」と遠慮気味に言った。


「どうして?」


「だって、良くないよ。学校に煙草を持ち込んで、人にも勧めたりするような子だもん。ひょっとしたら裏では不良の人たちと繋がっていたり、弱い者いじめをしたりとか――」


「違うよ! 百瀬はそんな子じゃない」


 彼は思わず声を上げていた。


「そりゃ、二人きりの時はすごくわがままになるし、『何でも自分都合に考えて好き勝手やるべきだ』なんて口では言うけど、周りの人には気を使ってばかりで、他人に迷惑をかけるような真似は嫌うし、いじめられそうな子は助けるし、……根は優しい子なんだ。僕が謹慎中の時だって、わざわざ家に来てくれて――」


「ちょっと待って」


 彼女はそこで持月の言葉を遮り、「家に来たって、謹慎中のあなたの家にその子が訪ねて来たの?」


「……うん」


 持月は弱った顔を浮かべたものの、これ以上嘘をつくのが嫌で、「僕に届け物があって、ちょうど両親も居なかったから部屋に上がってもらったんだ」と勢いのまま話した。


「部屋に、二人きりで?」


「え?」


「その子と二人きりで、その、……部屋で過ごしたの?」と、彼の目を真っすぐに見つめる勝来はほんの少し念を押すように尋ねた。


 二人きりで、一体何をしていたのか。


 まるでそう問いただすような彼女の瞳を見つめるうち、持月は薄暗い懺悔室に入り込んだ心地がしていた。隠し事に身も心も蝕まれ、今にも気が狂いそうなところに差し伸べられる温かな手。その手に必死でしがみ付きながら、持月は自身の罪と決別したかった。


「そうだよ」


 息を整えた彼は、静かにそう答えた。そのあと部屋に上げた彼女と二人で口づけを交わし、抱擁しながら長い時間を過ごしたこと。それらを包み隠さず彼女に話した。


 ところが、それがいけなかった。


 彼女は一部始終を黙って聞いてくれた。そう表現するにはあまりに歪んだ表情を浮かべ、まさに絶句し、パニックを起こしていたと言っても過言ではなかった。持月が話し終えた後にも長い間言葉を失ったまま天を仰いだ彼女は、まさしく放心状態だった。


「……ごめん」


 俯きながら立ち上がった彼女は、「それはさすがに、聞きたくなかったかな」と囁き声にも等しい小声で言うと、両手で握りしめていた缶コーヒーをそっとベンチに置いた。


「私も今は大事な時期だし、その……。あなたとのお付き合いは、今後続けられない……」と震えた声で話すと、彼女は持月から顔を背けたままその場を足早に去っていった。


 両手で顔を覆いながら走り去る彼女の後ろ姿を見つめながら、自分には後を追う資格がないことを察した持月は再び悟った。


 素直に話せば許される行為と、そうではない罪が存在する。彼はすでに一線を越えてしまっていた。写真部の部室で彼女の元へと一歩足を踏み出した、あの瞬間から。


 勝来を深く傷つけてしまった。やはりこの場はひとまず嘘をついてでも、彼女を安心させることが最優先だったのではないのか。どのみち道を分かつなら、後日に別の理由をでっち上げて関係を絶った方が彼女も傷を負わずに済んだのではないのか。


 正直であることは、果たして正しい行為なのか。嘘はすなわち悪か。自分と百瀬の関係は、初めからすべてが間違いだったのだろうか。


 ならばこの胸の中で疼き続ける感情は、すべてが過ちだというのか。

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