第十六章

第36話

「しばらく会えないから」


 綾香の声はひどく沈んでいた。彼女は泣いている。涙を流さず、胸の内だけで泣いている。静かに、まるで底なし沼に沈みゆくように孤独に満ちた気配で。


「彼氏かい?」


「ううん」


 それから長い間があり、静かに吐息を漏らした綾香は、「ちょっと身内に不幸があって。少しの間、実家に帰るの」と答えた。


 普段ならそのまま何も聞かずに通話を終わらせたが、今にも泡になって消えてしまいそうな彼女が気がかりだったこともあり、「誰が亡くなったの?」と持月は尋ねた。


 綾香はまたもしばらく黙り込んでいたが、「……おじいちゃん」と小さく漏らすと、その後は口を閉ざして悲しげな沈黙だけが広がっていった。


 彼女にとって祖父の存在がどれほど大きなものであったのか、あえて尋ねるまでもなかった。


 空元気を装うことすら忘れるほどに疲弊しきった彼女は、今にも二人を繋ぐ回線を断ち切ってしまいそうに感じられたが、それでも持月がその場に相応しい言葉を探り当てるべく努力する意思が伝わったのか、綾香は無言のまま息を潜めてはいるものの、まるでベッドで隣に腰掛ける時と同じように彼のそばに寄り添っていた。


 近頃は仕事でのミスも目立ち、彼女はどこか上の空といった風だった。普段の行いの良さから叱咤するような輩はいなかったが、だからといって手を差し伸べる者がいるわけもなく、仕事量は相変わらず人一倍だった。


 やっと少し休めるね、とでも言えば良いのか。


 どの選択肢を進もうと先には深い闇の香りが漂い、あの日の夜に味わった無力感を繰り返す気がしてならなかった。長らく熟考し、およそ声の発し方すら忘れかけた頃、持月は口を開くための準備運動として一度小さく咳払いをした。


 静まり返った空気中に舞う濁った不協和音は、思いのほか耳障りな響きをみせた。続けて小気味良く舌が回ってくれるようには、どうしても思えない。


 ため息交じりに彼が口にした「身体には気をつけて」という言葉に対し、綾香は返事を寄越さなかった。彼女が求めている言葉がそれではないということは持月も理解しており、同じ過ちを何度繰り返せば気が済むのだろうかと、彼は自身に嫌気が差した。



 待ち合わせの場所として指定された「飲んべえ」という名の店は、赤提灯をぶら下げた古風な居酒屋だった。


 古びた木製の引き戸は上半分が格子状の磨りガラスになっており、柔らかな光が表通りに漏れ出ている。建て付けの悪さから派手に音を立てる扉を開き、暖簾を潜って持月が店内に一歩足を踏み入れると、カウンター越しに炭火の世話をしていた店員が扉よりも遥かに騒がしい声で挨拶を寄越した。


 待ち合わせだと彼が伝えようとすると、奥の席から嶋田が手を上げながら「あ、健ちゃん! そいつ俺の連れっすわぁ」と大声で怒鳴った。


「なんだ、亮ちゃんの連れかい!」


 額の汗を拭いながら深く刻み込まれた笑い皺を見せた店員は、持月を席へと促した。


 周囲にはネクタイを緩めたほろ酔いの中年男性が狭苦しいテーブルに犇めき合い、幸福感に溢れた表情で杯を交わしている。これほどの数の笑い声が集まる場所に持月が訪れたのは、随分と久々のことだった。


 大学生の頃に度々経験した、無秩序な喧噪。持月は知人に誘われるまま賑やかな場を訪れ、その頃から尻の軽い女たちと夜遊びを覚えたものだ。


 束縛、嫉妬、虚言、そして、――移り気。彼のそばには腹に一物抱えた者たちが次々に押し寄せ、手痛い仕打ちを受けるにつれて彼は他人に干渉することを怖れるようになった。


 持月が席に着き、適当に注文を済ますと嶋田は嬉しそうにビールを煽り、「調子はどうよ?」と尋ねた。「結構会ってなかったよな。ちゃんと生きてたか?」


 おもむろにポケットから煙草の箱を取り出した持月は、中から一本抜き取って口に咥えながら、「この通り、生きてはいるよ」と肩を竦めた。嶋田は未だに彼の喫煙姿を不思議そうな表情で眺めていた。


「まさかお前が、ヘビースモーカーになるとはな」


 そう言って笑みを浮かべた嶋田は、「そういや高校の時は、吸ってるところを柿崎に見つかってえらく怒られたんだったな。あれが反抗期の始まりってわけか」


「だから、反抗期じゃないって」と律儀に否定しつつ、胸の内ではあながち間違いでもないと持月は思っていた。


「まぁ、薫がしたいようにすれば良いけどさ」と答えた嶋田は少々身を乗り出し、「なぁ、お前と百瀬って、高校の時に何かあったのか?」と珍しく声を抑えて尋ねた。


「どうして?」


 表情を変えずに持月がそう尋ねると、「いやぁ、百瀬にさ、お前の話をそれとなく振ってみたわけよ。そしたらすっげー嬉しそうな顔で、『懐かしいなぁ』って言ってたもんだからさ」と彼は答えた。


 懐かしい?


 持月はその台詞に、ひどく違和感を覚えた。懐かしさなどという感覚は、彼の中にはなかった。持月は未だ脳内をさまよう彼女の亡霊に踊らされ続けているのだから。


「長いこと会ってないんだ。誰の話をしたって懐かしいだろ」と持月が返すと、「あ、そりゃそうか」と嶋田は納得したように頷き、「薫にはたとえ特別な存在だったとしても、あちらさんにとっちゃ、ただのクラスメイトだもんなぁ」


「僕にとっても、ただのクラスメイトだよ」


 持月は煙草を吹かしながら平然と嘘をついたが、彼はそれを聞き流し、「でもお前、その頃付き合ってる子いたよな?」と尋ねた。「他校の子でさ、ほら名前なんて言ったっけ? 何か縁起の良さそうな」


「勝来舞衣」


「そう! 勝来さん!」と指差しながら声を上げた嶋田は、ここぞとばかりに真剣な表情で彼の目を見つめ、「お前が少し変わったのも、あの子と別れた頃だったよな。やっぱり、それが原因か?」と言った。


「……関係ないよ」


 目を逸らしながらそう答えると、持月は煙草を押しつぶすように消し、「それで、住所は?」


「お、せっかちな奴だねぇ」と嶋田はお道化た調子に戻りながら答えると、わざわざ紙に書いた彼女の住所を渡してくれた。


 四つ折りにされた紙を彼が開くと、記載された住所は自宅から目と鼻の先だった。電車に揺られて数分も経てば、すぐに着いてしまう。何なら歩いてだって行けなくはないだろう。


 随分と前からこれほど近くに帰っていたなどとは知らず、遠い異国の地に思いを馳せていた自分が持月は何だか滑稽に思えた。


「会ったら絶対に報告な! こんな面白そうな話、逃す手はないわ」


「面白いもんか」


 住所の書かれた紙を見つめながら持月がふと苦笑いを浮かべると、それを見た嶋田は手にしたビールのジョッキを一気に飲み干し、大袈裟に咳払いをしてから再び改まった表情を浮かべた。


「まぁ、なんだ。俺で良ければいつでも相談には乗るからさ。言いたい時が来たら、何でも言えよ」と言って目尻を下げた。


 今も昔も、彼が浮かべる仕草や表情には一切の嘘偽りがなく、そんな姿を目の当たりにした持月はやはり少し眩しいような、気恥ずかしいような思いをさせられるものの、素直に嬉しく感じられた。


「ありがとう」


 持月が同じように笑みを浮かべると、嶋田は店員にビールのお代わりを注文し、「よし! 今日はお前のおごりだからな、バンバン飲むぞ!」


「その話、やっぱり覚えてたか」


 運ばれてきたビールを手にした持月は彼と乾杯をすると、すぐさま勢いよくジョッキの中身を減らし始めた。

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