第35話

「ちょっと、何して――」


「君の部屋って二階? 暑いから涼ませてよ」と言いながらすでに階段を上り始めている彼女を慌てて制止した持月は、「分かったから! ちょっと待って」と言って二階に駆け上がると、部屋に散らばった衣服や書籍をかき集めた。


 扉を開くとすでに目の前まで彼女がやって来ており、「あぁ、涼しい……」と言いながらスカートに収めていたワイシャツの裾を抜き出した。


「て、適当に座ってよ」


「うん」


 笑みを浮かべた彼女は室内を見渡しながら、「そういえば、家の人は?」と今更ながら囁くように尋ねた。


 夜までは帰って来ないと彼が答えると、「ふうん」と言いながら室内に並んだ本棚をひとしきり眺めた後、百瀬はベッドに腰掛けた。


 勉強机の椅子に腰を下ろした持月はそんな彼女の姿をまじまじと見つめながら、「それで、百瀬が何でこんなところに居るのさ」と尋ねた。


 彼女が自分の部屋を訪れているという事実がまるで受け止めきれない持月は、上から順に全身を舐めるように彼女を眺めていた。


「なによ、そんなにじろじろ見て……」


 居心地悪そうに答えた彼女は、借りていた文庫本を鞄から取り出すとそれを彼に差し出した。


「あ、そうか。貸したままだった」と文庫本を眺めながら呟いた持月は、顔を上げて彼女を見つめ、「わざわざこれを返しに来たの?」と尋ねた。


「ついでにね」


「ついで?」


 そう言って首を傾げる彼と視線を交わした百瀬は、ふと目を逸らしながら俯き、「私のせいだと思ったから。君が謹慎になったの」


 彼女の意外な発言に思わず言葉を失った持月は、しばらく経ってから「……どうして?」と尋ねた。


「だって、元々は煙草を勧めたのも私だし。さすがに君が校内に持ち込むとは思わなかったけど、それも全部私のせいだよね」


 柄にもなく慎み深い様子を見せながらベッドの上で項垂れる彼女は、持月にとってあまり喜ばしい姿とは言えなかった。


「そんなこと、言うなよ」


 椅子から立ち上がった持月は彼女の前に立つと、「きっかけはどうあれ、これは僕が勝手にやったことなんだ。だから責任を取るのも僕だけだろ!」と捲し立てた。


「百瀬が気に病むことなんてない。それこそ、……君らしくないよ」


 持月が寂しげな声でそう言うと、目の前で俯いていた彼女は微かに肩を震わせ始めた。泣いているのかと思い彼が肩に手を触れようとすると、さっと顔を上げた彼女はむしろ笑みを浮かべていた。


「君なら、そう言うと思った」


 彼女は再び鞄に手を突っ込むと中から茶色い紙袋を取り出し、立ち上がって彼にそれを手渡した。「どうせ親に没収されちゃったんでしょ? だから差し入れに来たの」


 紙袋を開くと、そこには百瀬が吸っているものと同じ銘柄の煙草が入っていた。緑色の屋根のようなデザイン。それは持月が恋焦がれた彼女を象徴するようで、手に取った彼は無意識に声を上げて笑い始めていた。


「はは……。ははは」


「共犯者としては、放っておけないしね」


 百瀬は自分のことをよく把握しているものだと彼は思った。それなのに持月は彼女のことが何一つとして正確に理解できず、また、そんな不明瞭な部分にこそ惹かれている自分自身がとてつもない愚か者であると彼は自覚させられた。


「時間空くと、すっごく欲しくなるよね」と言った彼女は持月の方に身体を寄せ、「一緒に吸おうよ」と囁きながら悪戯っぽく微笑んだ。


 気づけば無言で彼女の言葉に頷いていた彼は、「あ、喉渇いたよね」と呟くと慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け降りた。


 部屋を出る際に背後で彼女が「ありがとう」と口にするのが微かに聞こえていた。


 冷蔵庫にあった麦茶を取り出してグラスに注いだ持月は、来客用のコースターをお盆に載せて部屋に戻った。開いた扉の隙間からは机に向かっている彼女の姿が伺え、何か気になる本でもあるのだろうかと持月が彼女の手元に視線を遣ると、そこにはノートパソコンがあった。


 液晶を開いて彼女が何かを観ていることに気づいた彼は、すぐに察しがついた。なぜなら彼のパソコンの閲覧履歴は、すべて彼女の動画で埋め尽くされていたのだから。


「観てないって、言ってたくせにね」


 平坦な声でそう呟きながら、彼女は自身の動画から目を逸らさなかった。


「そ、それは……」


 慌てて麦茶をテーブルに置いた持月は彼女の方へ向き直り、「あの時はほんとに観てなかったんだよ!」と声を上げた。


「でも、その後で亮くんから偶然動画のリンクが送られてきて、その――」と言い訳をする彼をよそに、パソコンの画面を閉じた彼女は椅子から立ち上がり、「何で言い訳してるの?」と言った。


「別に良いのに」


 彼女は持月のそばにゆっくり歩み寄ると、たじろいだ様子の彼の瞳を覗き込み、「本物、見てみる?」と虚ろな表情で囁きながら自身のワイシャツのボタンを外し始めた。


「や、やめなよ……」


 口では否定しつつも彼の言葉は弱々しく、視線は自然と胸元に引き寄せられている。そうこうする間にボタンを外し終えた彼女はワイシャツを脱ぎ捨て、彼の手を取った。


「……ほら」


 吐息のように漏れ出す彼女の声は恥じらいを含んでおり、それが彼の脳をこれ以上なく刺激していた。持月は決して首を縦に振らなかったが、彼女はそのまま彼の手を持ち上げ、自身の胸に押し付けた。


「どう?」


「ど、どうって」


 下着越しにも彼女の火照った身体の熱が感じられ、指先には柔らかな感触が伝わってきた。動画で行っていたような卑猥な揉み方をしたら、彼女は一体どうなってしまうのかと持月の中には強烈な好奇心が湧いてきたが、当時の彼にその行動を起こすだけの勇気はなかった。


 ほどなくして胸から彼の手を離した彼女は、「何か、ちょっと恥ずかしいね」と囁きながら顔を赤らめ、「でも、嫌な気分ではないかも」


「そう、なの?」


 彼女の胸元を改めて彼が見つめると、百瀬は手のひらでさっとそれを覆い隠し、「そんなにじろじろ見られたら、さすがに恥ずかしいかな……」と目を逸らした。


「ご、ごめん!」と謝りながら持月も目を逸らすと、それを見た彼女は微笑みながら再び彼の手を取り、「次は君の番だよ」と言ってベッドの方に移動し始めた。


 持月をベッドに座らせた彼女は、正面から前屈みになって持月の顔を見つめると、手を伸ばして眼鏡を外し始めた。


「眼鏡ない方が、格好いいね」


 耳元でそう囁きながら抱き着くような姿勢で彼のTシャツの裾を掴んだ百瀬は、容赦なくそれを捲り上げる。彼はその行為にひどく困惑した様子を見せたが、「手上げて」と言われるままに両手を天に掲げ、シャツを脱がされるとひどく無防備になった気がしてしまい、彼女に指先でそっと身体を触られるだけで全身に電気が走るような快感を覚えた。


「からかうのも、いい加減にしなよ……」


 持月が弱々しく抵抗すると、どちらともなく唇を交わらせた二人は抱き合いながらベッドに横たわった。


 なめらかで、濃厚で、互いの舌の粘膜をねっとりと絡め合わせる口づけ。それは持月にとって当然初めての体験だったが、不思議と違和感はなかった。むしろ舌先で口内を舐められるとその度に彼の心臓は締め付けられ、身体から力が抜け落ちるようなとろける感覚に陥っていた。


 試しに彼の方からも舌を動かすと、思いのほか敏感な反応を示した彼女は聞いたことのない淫らな声を漏らし、肩を強ばらせながら指先に一瞬力を込めたが、その後は持月と同様に全身から力が抜けていった。


 刹那のようなこのひと時よ。どうか、永久に続いてくれ。


 心の底からそう願いつつ持月が彼女の手を握ると、百瀬はそれに呼応するように力強く彼の手を握り返した。


 橙色に滲む夕日が窓から差し込むなか、彼らはその淡い光がすっかり失われるまでの間、互いの身体を抱き合い続けた。

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