第38話

 吹き寄せる風が肌寒く感じられるようになった頃、委員会の任を解かれた持月は一人でいる時間が当たり前になっていた。クラスの連中とは相変わらず関係を築けず、停学になってからはまるで腫れもの扱いだった。


 百瀬が彼氏と別れたという噂は休み時間の会話で耳にしていたが、持月の方から距離を置いたせいで近頃はすっかり疎遠になっており、彼女は他の連中と同様に彼をいない者のように扱っていた。


 嶋田だけは相変わらず無邪気な様子で声を掛けてくれたが、クラスでの彼の体裁を考えた持月は誘いを断ると、放課後は文芸部の部室に一人篭もって勉強をした。張り詰めた彼の心の糸が切れないように繋ぎ止めてくれたのは、受験勉強という大義名分と、百瀬と過ごしたあの日の記憶だけだった。


 あの日以来、彼女とはまともに会話を交わしていないが、きっとどこかで心が通じているはずだと持月は感じていた。あの日の温もりを覚えている限り、彼は真の意味での孤独ではなかった。


「もう空か……」


 飲み干したペットボトルを捨てて持月が自販機の並ぶ一角に向かうと、すぐ近くに設置されたベンチに須藤玲奈と百瀬が二人並んで座っていた。熱心に何事かを語っていた須藤玲奈は目ざとく気配を感じ取るや彼の方を鋭く睨みつけたが、持月は両耳にイヤホンを差していたので彼女はそのまま無警戒に会話を続けていた。


 実のところ、彼は音楽を聴いてはいなかった。けれどこうしておけば教師陣にも話しかけられることがなく、無用な頼まれごとをされないで済む。それゆえ彼女らの会話は、すべて筒抜けだった。


「最悪……」と連呼する須藤玲奈は、どうやら年上の彼氏と別れたようだった。他に女が二人もいたのだと話している。


 要は、三股か。


 男の中にも、およそ器用な人種がいるものだと思いながら持月が自販機の飲み物を選んでいると、「可哀想な玲奈ちゃん……」と答えながら百瀬が励ましていた。「でも玲奈ちゃんなら、またすぐにいい男が見つかるよ」


 百瀬は、最後まで抜かりなく彼女の友人を演じ続けるつもりなのだろう。普段は女王のように振舞っている須藤玲奈も失恋には案外脆いもので、彼氏の三股に傷心を隠しきれない様子だった。優しい言葉を送り続ける百瀬に心を許し、勢いよく抱きつくとさらに感情を吐き出した。


「でも私、ああいうダサいのは絶対に無理だから!」


 声を荒げて須藤玲奈が指差したのは、もちろん持月だった。背を向けているとはいえ、自販機の反射で全て丸見えなのに須藤玲奈という女はどこまでも虫唾むしずの走る生き物である。


 どのみち、百瀬がすぐに話題を方向転換してくれることだろうと持月は期待していたが、今回の彼女は予想に反し、「やだなぁ玲奈ちゃん、いい男って言ったじゃん」と答えて下品に笑った。


「いい男っていうのは、一緒に居て恥ずかしくない人のことだよ」


「…………」


 それが、彼女の本心……。それとも、その場限りの言い訳なのか。たとえ本心でなかったとして、口にして良いことと、そうでないことがあるのではないだろうか。


『一緒に居て恥ずかしくない子のことだよ』


 君にだけは、その言葉を言われたくなかった。


 持月の中に沸々と燃えたぎる感情、それは憎悪だった。


「……何とも醜い。見損なったぞ!」


 声を荒げながら、ベンチに座った彼女をいっそ蹴り上げてやりたい衝動に駆られていた。


 反動とは恐ろしいもので、この瞬間の彼は百瀬という女性が(強いては女という生き物すべてが)憎くて仕方なかった。体裁のために表裏を使い分け、真意を悟られまいと生きる小賢しい生き物。自身が生き残るためには、何であれ犠牲にする冷徹な存在であると感じていた。


 憎悪に塗れた感情に身を任せ、今にも飛びかかりそうな殺気を背後から送りつけながら、持月はあえて関わりを絶つことを選んだ。


 むしろそれ以外に選択肢を与えられぬ自身の弱さにすら、彼は怒りを覚えていた。


 音を立てて自販機から落下したペットボトルを力一杯に握り締めた持月は、ひときわ重たい足取りでその場を後にした。

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