第32話
「冬華。先にお風呂入っちゃいなさい」
母親にそう言われて百瀬がシャワーを浴びていると、しばらくして風呂場の扉が突然開き、義理の父親が顔を覗かせた。
「おっと、冬華ちゃんが入っているとはね」
そう言って気味の悪い笑みを浮かべながら扉を閉める彼の姿を見るのは、もう何度目だろうか。
近頃は諦めにも近い感覚で風呂場を訪れている。鍵を掛けようにも小銭が一枚あれば開錠できてしまう仕組みであるし、身体の大事な部分だけは(もはや隠すのも億劫だったが)見られぬように腕でさり気なく隠しながらあの男が覗きに来るのを待つのが習慣になっていた。
百瀬は母親が再婚を考えていると口にした時、特に反対はしなかった。父親から送られてくる養育費だけでは経済的に厳しいことも十分に承知しており、再婚相手は手堅い職業に就いた穏やかな人物であるらしかったので、母親が良い相手だと判断したのなら止める理由もなかった。
彼らと一緒に住み始めた百瀬は、母親のために明るくて献身的な女の子を演じていた。ただでさえこぶ付きの貧乏女に出来の悪い娘がいたのでは、今度は相手に見捨てられかねない。
義父に好印象を与えることができたという感触はすぐに得られた。その証拠に彼は頻繁に高価な贈り物をくれたし、実の娘よりも百瀬の方を娘のように可愛がっていた。
実際、義姉の美優は裏で父のことを変態野郎と罵っていたので、相当に毛嫌いしているのだろうということは分かった。だが、彼女が義父のことをあれほど憎らしく思う理由を、数か月ほど経った頃に百瀬は知ることになった。
それはある日の通学前、忘れ物に気づいた百瀬が自宅に戻って二階に上がると、自室の中で義父がタンスを覗いているのを発見した。何をしているのかと彼女が尋ねると、義父は表情一つ変えず、『ちょっと探しものがあってね』と答えた。
その時はそそっかしい母親が洗濯物を間違えて違うタンスに戻したのかもしれない
とも思ったが、これまたある日の入浴時のことだった。百瀬が脱衣所で服を脱いでいると突然扉が開き、そこに姿を現した義父は澄ました顔で下着姿の彼女を眺めながら、「おっと、失礼したね」と一言添えて出て行った。
……変態野郎。
義姉の言葉の意図するところが、百瀬の頭の中ですぐに繋がった。時おり自室のタンスを確認すると、つい数日前に整理したばかりなのに下着の列が何者かによって荒らされた形跡が見られ、それもあの男の仕業ではないかと思うようになった。
初めて風呂場を覗かれた際には百瀬も文字通り悲鳴を上げたものだが、あの男が惚けた様子でうっかり間違えたのだと言い訳すると、母親はすんなりそれを受け入れてしまい、「もう。家族なんだからそんな反応をしたら失礼でしょ」と叱られてしまう始末だった。
それ以降、あの男は入浴時になると時おり顔を覗かせている。だがそれ以上に過激な行動を取ることはせず、いい歳をした大人が少女の入浴姿を数秒間覗くだけで満足しているようだった。何ともささやかで、かつ歪んだ欲求であることか。
この、意気地なし。
彼女は新しい家族をどちらも憎らしく思っていたが、同時に哀れむような気持ちも抱いていた。彼らの屈折した内面は、彼女自身の歪みを鏡映しにしたように惨めな存在だったからだ。
夏休みに入ると、百瀬は授業もないのに毎日制服に着替えて家族と顔を合わせるのを避けるべく頻繁に部室を訪れていた。かといって動画の配信は持月が部室に来なくなってからは中止しており、時おりカメラを持って窓の外の景色を写したり、借りっぱなしの文庫本を読んだりしながら陽が落ちるまで静かにそこで時間を過ごした。
ありえないとは思いつつ、そのうち彼が戻って来るかもしれないと考えると、部室はなるべく開けておきたかった。他に行く当てもなかったことが最も大きな要因だったが、これまで話し相手がいたのに突然それがいなくなると、少し寂しい気分になった。
ある日の夕方頃、部室の窓辺に立って百瀬が紫煙を燻らせていると、机の上に置かれた携帯電話に着信があった。液晶を眺めるとそこには休みに入る直前から交際状態にある田代宗太の番号が表示されていた。
煙草を消してしぶしぶ通話ボタンを押した百瀬は、「あ、宗太くん?」と明るい口調で応答した。
「あ、ももちゃん! 今って、大丈夫だったかな?」
遠慮がちにそう尋ねる彼に向かって百瀬が愛想よく肯定の意を示すと、あたふたしながら会話を繰り広げる田代は、要約すると夏休み中に二人でどこかに出かけたいらしかった。
正直なところ、百瀬は彼と二人で出かけることにはあまり気が進まなかったが、たまには相手をしておかないと悪い噂を立てられかねないと思った彼女は、「良いよ。どこ行こっか」とこれまた愛想よく答えた。
「ほんとに? じゃあ、映画なんてどうかな」
その日は恐ろしく蒸し暑い日だった。彼の選択した場所が映画館だったのは助かったが、選んだ映画の趣味はあまりにひどかった。
持月に借りた文庫本の影響から近頃はミステリーに興味を持っていたこともあり、百瀬にとって平凡なラブロマンスなどは退屈極まりなかった。
田代の横顔を眺めると、彼は時おり頷きながら集中してスクリーンを眺めていたが、どこに納得要素が含まれているのか後で是非ご教授願いたいものだった。
「この後、どうしよっか? 縁日もやってるみたいだけど」
彼にそう言われた百瀬は、この暑いなか退屈な相手と人混みを歩き回りたいとは到底思えなかった。それゆえ遠回しに興味がないことを伝えると、人混みに疲れているのだと解釈した彼は「じゃあ、川沿いで少し休もうか」と提案をした。
仕方なく彼の後に続いた百瀬は、不本意ながら等間隔の一部に溶け込むこととなった。
「川辺は結構涼しいんだねぇ!」
「うん、そうだね」
体育祭を終えて以降、須藤玲奈の愛美に対する仕打ちが徐々に和らぎつつある中で、次の標的として候補に挙がりかけていたのは百瀬だった。
図書室での一件以来、多少ぎくしゃくしたところがあったことと、部室で持月と過ごす時間が多くなった彼女は須藤からの誘いを断る機会も徐々に増え始めていた。
生意気だと思われるまでにはさほど時間もかからず、今にも攻撃を受けそうになっていた時に都合よく告白をしてきたのが隣に座る田代宗太だった。
校内ではそれほど知名度が高い方でもなく、まるで平凡を絵に描いたような彼は連中の誘いを断る防壁としては最適な人材であり、彼氏の名前を持ち出すことで彼女はあらゆる制約から免除された。
「あ、さっきの映画さ、ヒロインのあの子が――」
彼に対する恋愛感情は、特に湧いてこなかった。一緒に居ても退屈で、からかい甲斐もない。仮に相手が持月だったなら色々と試してみたい悪戯も思いついたが、それが通用する相手とも思えぬ彼には無難に返事をしつつ、その場をやり過ごす以外に方法がなかった。
失礼なことだとは思ったが、彼女にも守らねばならない日常というものがある。ほとぼりが冷めるまでは隣に居て目隠しの役割を全うしてもらおう。
君はどうして、部室に来なくなってしまったの?
目の前を縦横無尽に飛び回る燕たちを眺めながら、百瀬はそのことを気に病んでいた。借りている文庫本だって読破したし、また次のおすすめを教えて欲しいと思っているのに、あの男はこちらを避けるばかりで言葉を交わすこともできない。
「ねぇ、宗太くんは女の子の友達っている?」
百瀬がそう尋ねると、田代は挙動不審な様子を見せながら、「え、いないよ!」と焦った顔で答えた。「だって僕には、……ももちゃんがいるし」
「そうなんだ」
彼女は田代の言い分に、現実の不条理を感じていた。恋人と友人は同列ではない。ゆえに恋人ができたからといって、異性の友人を一切排除する必要はないと思った。
あぁ。何と凡庸な価値観だろうか。
彼女はこの上なく退屈だった。退屈なまま夏休みの大半を一人で過ごし、柄にもなく本屋に寄って持月に借りた文庫本の著者の別の作品を探しながら、鬱屈とした気持ちが徐々に身体を侵食していくのを感じていた。
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