第31話

 冷房の利いた館内や喫茶店で過ごしていたためか、持月は表に出た途端に汗が染み出すのを感じた。空気は恐ろしい湿り気を帯び、へばりつくような暑さに耐えながら休日のごった返した繁華街を彼らは歩き進んだ。


 縁日に向かうにつれ、群衆の歩く速度もマナーも徐々に落ちていく。


「あんまり、興味なかったかな?」


 人混みに揉まれ、汗だくになりながら苦労して縁日を見終えた持月は、思わず彼女にそう尋ねていた。


 いざ縁日を訪れたまでは良かったものの、遠慮がちに持月の後ろに続くだけの彼女は自らの意思を一切示そうとはせず、時おり彼が「これ可愛いね」などと問いかけると微笑みかけてはくれるが、興味を示しているのか、はたまた無関心なのか全く分からなかった。


「ううん、そんなことないよ。綺麗だったよね」


 勝来は笑顔でそう答えたが、素直な彼女が嘘をつくことは滅多になく、その台詞はどう考えても本心で言っているように思われた。


「そ、そっか」


 苦笑いを浮かべて前に向き直った彼は、勝来という女性の扱いに戸惑いを隠せなかった。女性をリードした経験のない持月にとってはどのようにエスコートするのが正しい方法なのかも判断がつかず、次に向かうべき目的地も見当がつかない。また、淑やかで奥ゆかしい彼女の存在は非常に難解で、どこか退屈に感じられた。


『相手が仮に百瀬だったなら』という考えが度々頭に浮かんでしまう彼は、そんな自分に腹が立ってすぐに追い払おうとするのだが、彼女の強烈な存在感は容易には払拭されることがなく、従順に彼の後ろに続く勝来の姿を眺めるうち、却ってあの子の存在が脳に突き刺さるようだった。


 彼の前でのみ、ひときわ奔放な姿を露わにする百瀬。彼女ならばきっと持月の意向など気にも留めず、あちこち引っ張り回して欲望のままに露店を巡り歩くことだろう。彼女なら何に興味を示し、何を教えてくれるのか。そんな妄想は不健全であると持月は何度も自身に言い聞かせるものの、回転は思うように止まってくれず、加速度を増して脳内に広がっていく。


「あの! 持月くん……」


 声に反応してすぐに持月は後ろを振り返ったが、そこに彼女の姿はなく、やや後方で立ち止まった勝来は上半身を屈めて足を押さえていた。


「ごめんなさい、ちょっと足が……」


 彼女は顔を歪め、足首を摩っていた。


「……痛いの?」


 勝来は膝上丈のタイトスカートを着用していただけでなく、この日のために普段は履かないようなヒールの高いサンダルを履いていた。意中の人物との初めての外出ということもあり意気込んで準備をしてきたものの、人混みを歩き回るうちに慣れない靴で彼女は足を痛めてしまった。


「ちょっと見せて」


 彼女の正面に屈んだ持月が足首に触れようとすると、短いスカートから下着が覗くことを意識した勝来は頬を赤らめながら「きゃっ!」と思わず過敏な反応を示した。そんな彼女の態度の意図が分からなかった持月は青ざめた表情を浮かべると、「……ごめん」と手を引っ込めて俯き始めた。


「あ、違うの! ほら、平気だから」


 自身の恥じらいから彼を傷つけてしまったことに気づいた勝来は、慌てて立ち上がりながら力なく訴えかけたが、持月はその後も彼女の身体に触れて良いものか分からず、足を押さえて近くのベンチに腰掛ける姿をそばで見守ることしかできなかった。


「僕、何か飲み物買ってくるね」


 まるで独り言を呟くようにそう言うと、持月は彼女をベンチに一人残して足早にその場を去った。


 付近を歩き進むと左右に伸びる川が視界に広がり、持月はしょんぼりとした様子でそれを横断する大きな橋を渡りながら反対側に見える自販機を目指していた。


 橋の中ほどで立ち止まった彼が眼下に目を遣ると、そこには優雅に水面の上を飛行する燕が半円を描きながら滑空し、時々鋭い角度で降下する様子が見られた。河川敷には以前に百瀬と話題に上げたカップルの姿が多く見られ、噂通りに等間隔で並ぶ彼らを上から眺めていると、彼はどこか複雑な心境になった。


「うそだ……」


 唸るように声を漏らした持月は、前のめりになって欄干から身を乗り出すと河川敷の一部にじっと目を凝らした。等間隔に並ぶ無数の符号の中にあって、彼は偶然にも見知った姿を発見したのだった。


 デニムのミニスカートを履いた彼女は腕や首筋辺りの肌が透けたレースの黒いブラウスを着用し、人前では結っているはずの髪が解かれていた。それらが風になびく様子は幼い顔立ちを優美な貴女へと格上げし、涼しげな表情で水面の燕を眺める横顔は日直当番のあの日に教室で見かけた彼女の姿とぴったり重なって思えた。


 隣に並んでいるのは、持月と良い勝負の冴えない顔。彼女が現在交際中の男だった。男は何事かを話しかけ、時おり笑みを浮かべている。それに対して燕から目を逸らさずに頷く彼女は、橋の上に佇む持月の存在には気づいていないようだった。


「百瀬……」


 いざその名を口にしてしまうと、彼は途方もない劣等感に苛まれた。Tシャツの胸元を乱暴に掴み、拳に力を込めてみたところで怒りにも等しいその燃え上がるような嫉妬心はどこへ吐き捨てれば良いのか、今にも欄干の上によじ登って叫びだしたい気分だった。


 しかしながら、反射的に持月が起こした行動はそれとは真逆だった。欄干に身を寄せながらへたり込むようにその場で蹲った彼は、ため息と呼ぶにはあまりに深い息を吐き出した。


 体内にある空気をすべて吐き終えると、全身に漲っていた負のエネルギーは嘘のように萎んでいく。拳を握ろうにも力が入らず、震える手のひらをただ眺めていることしか出来なかった。


 モールス信号のように存在する? 誰にも見つからない? こうも簡単に、他者から発見されてしまうではないか!


 あぁ。だから僕を誘わなかったのか。


 持月は悟った。誰かに見つかって困る相手と出向く訳にはいかない。端から彼は除外されていたのだ。思えば彼女との印象的な場面は、すべて二人きりの際に起こった出来事だった。


 彼は脳裏に先ほどの映画を思い浮かべた。無数に存在する落書きから意中の相手のものを探し出すことを勝来は奇跡と呼んでいた。ところが現実に起こってみれば、それは奇跡でもラブロマンスでもなく、ただの不運に過ぎなかった。


 力なく立ち上がった彼は、狭く潤った視界のなか人混みを意に介さず歩き始めた。身体をふらつかせながら俯いて足を進める彼は、どちらが目指すべき場所であるのか、まるで分からなくなっていた。


「……大丈夫?」


 帰りの電車で隣に腰掛けた勝来は、彼の顔色を伺うようにそう尋ねた。


「な、なにが?」


「途中から、元気がないように見えたから」


 勝来はそう言うと俯きながら、「……ごめんね、私が足痛くなっちゃったから」と申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「そんなことないよ!」と答えた持月は、ありったけの言葉を用いて必死に会話を盛り上げようと試みたが、普段ならば自然と浮かんでくるはずの台詞も今では上手く降りて来ず、まるで舌が鉛のように重かった。


 そんな彼に勝来は変わらず優しい笑みを向けてくれるが、それが却って持月には心苦しかった。


 彼が胸を痛めている理由は実のところ目の前の彼女ではなく、橋の上から数秒間見かけただけのあの子だった。そのことがあまりに失礼なことだと感じているにも関わらず、脳裏に刻まれた彼女の姿を上手く消すことが叶わない。


 彼が物思いに耽る間に勝来は自宅の最寄り駅に到着し、控えめな挨拶を寄越して一人降り去った。それをさも当然のごとく呆けた表情で車内から見送った彼は、夜道を一人で歩きながらようやく彼女を送っていくべきだったことに気づくと、いっそ自身を絞め殺してやりたい気分になった。

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